あの日々を愛した七日間。あの日々を憎んだ七日間。
和橋
「あの日々を愛した七日間。あの日々を憎んだ七日間」
便箋を取り出し、柄でもない筆ペンなんかを持つ。
習字なんてやったのは中学校が最後だし、特別字が上手いわけでもない。
だけど、筆ペンなんてものを使うのは、きっと何かを変えたいから。きっと何かを終わらせたいから。
「誰に書くんだい? 筆ペンだなんて珍しい」
「友達だよ。結婚報告的なやつ」
「なるほど。それじゃあ僕は行ってくるよ」
「うん、気を付けて」
彼はスーツの襟を正し、コツコツと軽快な音を鳴らしながら玄関を出て行った。それを見送って、私はまた筆ペンの元に戻る。
「まずは、宛名だっけ。目黒、修一っと」
予想通り、いや予想以上にへにゃへにゃで、とてもじゃないけど他の人には見せられない字。だけど、きっと君ならこんな私の汚い字でも綺麗だ綺麗だって、本心から言ってくれてたんだろうな。
君の字はいつだってギリギリ読めるくらいに汚くって、いつも暗号解読みたいになるんだよ。
感涙必須な映画でも涙一つ流さない。私が何しようとも怒らない。
性格も大雑把で、本当に今までちゃんと生きてこられたのか最初は不思議に思ったよ。だけど、君の心の奥底は本当に暖かくって、あぁ、ちゃんと愛されてきてたんだなって。
そんな君の暖かさはすごく心地よかったよ。
自分で書いたへにゃへにゃな目黒をなぞる。どこからか愛しい暖かさを感じる。ただの紙と文字だというのに。
「あ、まだ乾いてなかった……筆ペンって難しい」
乾ききっていなかったインクが手に付き、目黒の文字が滲む。
大雑把な君に向けた手紙でもこれはさすがにダメだな。
私は新しい便箋を引き出しから取り出す。新しい紙の匂いがふんわりと鼻腔を撫でて、すぐにどこかへ消えた。
机に戻ってもう一度宛名を書き、一旦筆ペンを机の上に置く。
「何から書こっかな」
記憶をたどれば噴水のように湧き出てくる思い出たち。
君との出会い、君との旅行、君との何気ない日常、そして君と別れたあの日。別れたっていうのに、いつまでも君は笑ってたっけ。
どれも大切で、かけがえのない思い出だけど。
「うん。私が気取って書いても文豪にはなれないし」
とりあえず私は、最後の三日間のことを書くことにした。
私にとっても、きっと彼にとっても、大事な日々だっただろうから。
子供の時無邪気に作った、綺麗な貝殻や、ビー玉や、クリスタルみたいな石が入った、大切なガラクタだらけの宝箱みたいな日々だったから。
―――――――
一日目。すごい猛暑日。
この時の私はロングヘアだったから、何時間もかけてセットしたって言うのに君は。
「今日もかわいいなぁ!」
なんてこと言いながら頭をわしゃわしゃして私のセットを台無しにしたよね。
「あ、ちょっと! 崩れちゃうって! 頭わしゃわしゃしないでぇー!!」
「何だこれ。痛いし邪魔だね。とっちゃお」
「あ、ちょっと、そ、それだけはっ」
パチンッ、ひゅるひゅる、スファッ。
彼は私のセットの要を担っていたピンが、私の髪の毛から離れて彼の手へと渡った。
数時間かけてセットした髪の毛が無残に散っていく。残ったのは、不格好になった私の髪の毛と、それをきょとんとした表情で見る修一。
「なんか、やっぱりいつもと違うけど、そっちの方が俺は好きだな」
「っ……もうっ、知らないっ!」
私は真正面から好き、と言われた恥ずかしさと、せっかくのおめかしを台無しにされた怒りがごちゃごちゃになって、しばらく口をきいてあげられなかった。
さすがに私の怒りを察したのか少ししてしゅんとし始めた修一。
修一の威勢の無くした顔を見ると、許してあげてもいい気がしたり、しなかったり。
結局電車に乗ってる二時間ちょっとの間ほとんど口を利かなかった。今思えば結構もったいなかったかも。
「機嫌、直してくれた?」
「だいぶん。とりあえずホテルで髪の毛整えさせて」
「わかった。五分くらいで足りる?」
「そんな時間で足りるわけないじゃん。二十分待ってて……って何か文句ある?」
「なんでもないです」
そわそわして、私と外に立ち上る湯けむりを何度か往復させた後、修一はおとなしくなった。
部屋に入り荷物を置き、髪の毛を整えるために洗面所へと向かう。私は二十分と言いつつも、なるだけ急いで髪を整えた。
はしゃいでいるのは彼だけではないのだ。
十分後、妥協に妥協を重ね、自分で許せる最低ラインに整った髪の毛で洗面所を出る。
「あ! お帰り! すごく似合ってるよ」
彼がそう、純真無垢な瞳を向けながらそう言う。照れ隠しに私はちょっと強く返事を返す。だけどきっと私の頬は真っ赤に染まっているんだ。
ホテルから一歩出ると、そこは異郷の地。湯煙が漂う温泉街だ。
程よく栄えた商店街に風情ある店が並ぶ。
旅行雑誌で何度か見た光景だったが、改めて見るとより一層素敵な街並みに見えた。
温泉饅頭屋の老夫婦の皺くちゃな手。ところどころ穴が開いた商店街の天井。引っ切り無しに漂い続ける食欲を刺激する香り。
そして、私たちと同じように片手に食べ物を持ち、反対の手で手を繋いでいるカップルたち。
それらがパズルのピースのように私の目の前の解像度を急速に上げていく。その一つ一つのピースを彩るのは、修一の笑顔だ。
温泉饅頭を食べて「温泉から出てくるの? コレ?」
焼き鳥を食べて、「何だこれ。温泉の味しておいしい」
温泉卵を食べて、「これ、食べたいからうちに温泉作ろ」
今考ええると中々にばかばかしいことばかり言ってたな修一。
だけど、今でもクスリと笑ってしまうのはきっと思い出補正というやつだ。
しばらく歩くと、立ち曇る湯煙。湯煙を突っ切って歩くと、ふっとそれらは霧散して、いつの間にか商店街は終わっていた。
「もう終わっちゃったかぁ。じゃ、次どこ行く?」
「うーん。どうしよっか」
空を見上げると、いつの間にか夕日が空を茜色に染めあげ、月が己の道を切り開くかの如く、少しづつ茜色のキャンバスに今日の終わりを告げる紺が足され始めていた。
「もう遅いから、少し散歩して帰ろうか」
「うん。そうしよ」
私と修一は近くの足湯に入ったり、駄菓子屋に入ったり。時々月の位置を確認しながら温泉街を散策した。
いつの間にか日は暮れ、辺りは深紺一色。でも、のんびりとホテルに帰る私たちをとびっきりにまん丸なお月様が照らしてくれた。
部屋に戻り、仮初の安心感を得た私たちは二人同時にベッドに飛び込んだ。性格はどこまでも似ていないけれど、こういう所が何故だか似てる。
しばらく枕に顔を押し付けて、修一が飛び込んだ方のベットを見る。
すると、私より一足早く修一が私の方を向いていた。修一がニコっと笑い、私がどうしようもなく視線を右往左往させる。
そして、ゆっくりと彼の瞳に彷徨わせていた視線を合わせる。うんともすんとも言わず、ただただ、しばらく互いの顔を正面から観察していた。
宙にふっと言葉を置くように、丁寧な口調で彼は言った。
「一緒にお風呂、入ろうっか」
「う……えっ、おふっ、お風呂っつ!? 入るわけないじゃんっ!」
言葉と言い方のギャップに惑わされて一瞬OKを出すところだった。
「えー残念」
「残念じゃなくって!!」
彼はひとしきりかわいい笑みを見せた後、再び口を開く。
「じゃあ、先にお風呂頂いてもいい?」
「どーぞ」
「どーも」
「…………」
「…………」
「お風呂、入んないの」
私がちょっとだけ拗ねた様子でそう言った。彼は少しだけ表情を柔らかくして言った。
「入るよ。もうちょっとだけ後に」
「なんでまたそんな」
「君の顔を目に収めえておきたくってね」
「っっ……」
あぁ、だめだ。きっとぜったい顔赤い。
「もうっいいから! さっさと風呂入ってきて!」
「はいはーいっと」
修一はため息を吐きながら、のっそりとした動きでお風呂場へ向かった。
いつも不器用なくせに、そう言う所だけはちゃっかりしている。
これだからどうにも憎めないのだ。
―――――――
二日目、清々しい朝を迎え、ることは出来なかった。
カーテンを開けると、辺り一面に広がるどんより雲。今にも雨が降りそうな状況で、私たちは顔を見合わせてベッドに寝転んだ。
「映画でも見よっか」
「そーしよ」
ものの数秒で決まった映画鑑賞。運の良いことに、ホテルのテレビには一通りのサブスクが備えられており、映画を決めるのに不自由は無かった。
同じ向きに並べられた二つのベッド。その向かいの壁のちょうど真ん中に四十五インチサイズのテレビが備え付けられており、互いのベッドから見るのに全くの不自由は無かった。
だけど。
「そっち行くね」
「うん。おいで」
私は修一のベッドに潜り込んだ。
彼の匂いで充満していた布団の中でひと際大きな深呼吸をし、何食わぬ顔でひょっこりと頭を出した。出せていたと思う。ただしにやけていたかは自分でも定かじゃない。
まるでモグラのように頭を出した私をそっと引き寄せて、彼もまた何食わぬ顔でリモコンをテレビに向けた。
それからとりあえずその日のランキングのトップに君臨していた映画を一本見て、ひと休憩。
飲み物を取り、お菓子をホテルの売店で買う。何も考えずダル着で行ったものだから、少し周りの視線がこそばゆかったけれど、修一は微塵も気にしている様子は無かった。
なんだかそれを見て、私も馬鹿らしくなって考えるのをやめた。
私は修一の持った大量のおかきやら、おせんべいやら眺めながら言った。
「次は何を見ようか」
ちーんっと、うちのマンションとは比べ物にならないほど上品なベルが鳴り、エレベーターのドアが開く。だだっ広いエレベーターには誰も乗ってなかった。
「流行の韓国ドラマとかは? 一回見てみたかったんだよね」
「良いね、それで決まりだ」
ふっ、といつの間にか現れた沈黙は、すり替わるようにどこからか私の不安を仰ぐ。どうにもこの少し広いエレベーターに二人きりなのが落ち着かない。
そんな私の気持ちを察したかのように、いつのまにか私の右手が温もりに包まれた。驚かせないように、そっと私の、私だけの手を温めてくれる。
その手を離さないように、どこかへ行ってしまわないように、今だけはぎゅっと強く握る。
再びチーン、という上品な音がエレベーターの中に響く。私はハッとしながら、上がり切っていた口角を無理やり下げる。
そんな私のすべてをお見通し、と言わんばかりのにやけっ面は、私をムッとさせるとともに、なんだかずっと忘れられないような、そんな気がした。
相変わらず彼の布団に入りながら、朝食も昼食も摂ることをことを忘れ、垂れ流されている韓国ドラマに見入っていた。
私のお菓子はいつの間にか尽きていて、もう少し買ってくればよかったと後悔したが、もう一度買いに行くほど空腹なわけでもない。
手持ち無沙汰ではあるが、このまま見続けようと思っていたのだけど。
「はいこれ、おいしいよ」
骨ばった手を不器用に使いながら私の口におかきを半ば無理やりに入れてきた。
「ひや、おいひーのはわひゃるへど。っくん。いきなり入れてくるのは違うじゃん?」
「あ、ここめっちゃいいシーン」
「わ、本当だ」
少々はぐらかされたような気がするけど、まぁ、いっか。
その後も定期的におかきやらせんべいやらを放り込まれたけど、抵抗するだけ無駄だって悟った。それに、入れ方は雑だったけれど、優しさに包まれた温もりを感じたから、もう何も言わなかった。
ぱさぱさになった口の中を、ぱさぱさになるたびにジュースを流し込んで潤す。
そろそろおかきとおせんべいでお腹がいっぱいになってきたから、供給を止める意味合いを込めて修一に抱きつく。ゆっくりと、丁寧に。
胴体に顔を擦り付け、浮いたあばら骨の固い感触が頬の皮膚から強調されて伝わってくる。
それが妙に気持ちよくて、しばらくすりすりしていると、いつの間にか修一の香りは失せ消えていた。嗅ぎすぎて鼻が馴れてしまったのか、それとも吸いつくしてしまったのか。
どちらにしろもったいないことをした。
ちらりと修一の顔を覗き込むけれど、相変わらず韓国ドラマに熱中していた。
彼の芳しい香りも無くて、未だに韓国ドラマに夢中。だけど、それでも修一の体中からとどまることなくあふれ続ける安心感は、私の眠気を呼んだ。
―――――――
三日目。いつの間にか朝。
だけど、私の体の真ん中はいつになく悲鳴をあげている。
昨日まともな食事をお腹の中に入れていなかったせいだ。
どうしようもないほどに空腹が絶頂で、胃腸さんからもクレームが来ている。
何か手ごろに食べられるものは無いかと、探し回ろうとすると私のすぐ横に修一が未だに眠っていた。もう一度だけ、首元に顔を近づけて、深呼吸をする。
うん。大好きな彼の香りだ。
その後も何度かクンカクンカしていると、目に入る開封済みのおかきの袋。
彼のすぐ横にあったおかきの袋を取り、残り少ない中身をひとつづつ取り出して口に頬張る。
一噛みでわかるほどそのおかきは湿気ていて、昨日よりも少しだけ硬い。
それはなんとも罪な味がしたけど、意外と嫌いじゃなかった。
私がもぞもぞと動いていたせいか、修一も眠そうな眼を擦りながらむくりと立ち上がる。彼はこちらを向くことなくしゃがれた声で「おはよう」と言った。
「ちょっと、顔洗ってシャワー浴びてくる」
「うん、行ってらっしゃい」
うーっと、狭いベッドの上で背伸びし、私がいる反対方向を向きながら立ち上がる。
偶然、備え付けられた鏡が、彼の顔を写す。瞼が真っ赤に腫れあがっていて、瞳も充血し切っていた。
私が寝た後に、それはそれは感動的な映画でも見たのだろうか。
いや、それはないな、と頭の中で結論付ける。
だって、彼はどんな映画でも泣かない。それがたとえ究極のお涙頂戴な映画だとしても、全米が泣いたと銘打たれた映画でも、例外は無い。
でも、泣いた理由に思い当たる節はある。
「そっか。そっかぁ」
だけど、それを彼は望んでない。もちろん私も。
だから私は知らないふりをする。彼の真っ赤な目も、この胸がきゅっと締め付けられる気持ちも、全部。
彼の後に私もお風呂に入る。彼が風呂から上がる頃には目の赤みは既に引いていた。
風呂から上がり、いつもの癖で数時間単位でかかりそうな準備を始めようとしてしまった。
気合を入れてセットしても、彼はきっとそれを見るも無残に崩してくるから、今日だけはシンプルに身支度を整える。
初めからこうすればよかったのかな。ドライヤーを雑にかけながらそう思う。
毎度の事のように化粧をし、髪の毛を整え、アイロンを使って、ビューラーをして、数え切れないほどの工程を済ませて、最後の仕上げにお気に入りの香水を首元にワンプッシュ。
だけど結局最後に残るのは彼の匂いと私の香水が混じった不思議な香調だけなのだ。
今までに一度だって、シンプルに終わらせたことはあっただろうか。シンプルなんて聞こえはいいが、要するに適当ってことだ。
……うん。一度たりともそんな日は無かった。
だって、私の中に宿った好きは、愛情は、そんな中途半端な代物じゃなかったから。
一時間だけでもいい。数分だけでも、数秒だけでもよかった。だけど、それまでは、彼がセットを崩すまではかわいい私で居たかっただけだから。
化粧の工程もすっとばし、アイロンもせず、ビューラーもしない。髪の毛を軽く櫛に通して、首元への香水だけ忘れずにワンプッシュ。
洗面台から部屋へ戻ると、スマホを弄っていた修一が立ち上がった。
「よしっ、いこっか」
そう言って、彼は私の頭に手を乗せる。いつもとは違い、飛び切りに優しく、そっと。その手つきは、まるで生まれたてのひよこを優しく抱くようでいて、溶ける直前の氷を撫でるようでもあった。
「ははっ」
思わず乾いた笑いが漏れる。
やっと直してくれた。
女の子の髪の毛をわしゃわしゃにするのはいけないと数年言い続けてやっとだ。
だけど、だけどさぁ。あんまりにも――
「遅すぎるよ」
今日は、一日目の足跡をゆっくりと辿るように商店街を回り、足湯に入った。だけどそうしてもまだ昼過ぎ。ちょうど昼食の時間だ。
どこも適度に混みあっていて一度並んでしまえば数十分は食べられそうになかった。
「コンビニでちゃちゃっと済ませちゃう?」
「私は良いけど、修一は良いの?」
「うん。ここら辺のご飯は結構食べたし、それにご飯は何を食べるかじゃなくって、誰と食べるかが大事だと思ってるからさ」
「あっそ」
照れ隠しにわざとそっけない態度を取ってしまうのはもはや条件反射の一種だと思う。顔が熱くなるのもきっとその類だな、きっと。
温泉街の景観を壊さないようにか、ひっそりと存在していたコンビニエンスストア。道案内のアプリが無ければきっとこの場所にはたどり着かなかったと思う。それくらいこの街に同化していた。
中で、おにぎりを二、三個とお茶、そしてホットスナックを買い外に出る。
近くの空いていたベンチに二人で並んで座り、そろっておにぎりのビニールを手順に沿って剥ぐ。
彼が一足先にパクリ、と鮭おにぎりを頬張って、私も少しだけ遅れていくらのおにぎりを頬張る。
温泉街の一角でただのコンビニのおにぎりを頬張るというなんともアンバランスな見た目に対して、なんだかいつものおにぎりよりもおいしく感じた。
僅かに風に乗って流れてくる硫黄の香りがスパイスになっているせいなのか、それともこの雰囲気で食べる物はなんでもおいしく感じてしまうのか。
いいや、違うな。きっとそんなことじゃない。
私は一個目のおにぎりを食べ終わり、お茶を飲む。そして、そっと私を撫でた彼の手のような手つきで、ベンチに置いていた彼の手に上からぴったりと合わせる。
指の一本一本が今にも折れそうなほどに細い、甲はありえないほど骨ばっているけれど、私の手よりも遥かに暖かい。
「おいしいね。おにぎり」
「そうだな」
彼はそっぽを向き、珍しく照れたような様子を見せた。さっきあんなセリフを吐いたくせに。
そんな彼の姿がどうしようにもなく愛おしくて、唐突に姿を現した衝動に身を任せる。
「ね、こっち向いて」
「な、なんだっ――っぷ」
熱い、すごく熱いキスを交わした。目の前を歩く通行人、店先から顔を覗かせる老人、絶え間なく私たちを照らすお天道様からの視線も全く気にならない。それほどまでに濃密な
まるでその瞬間だけは、唇を重ね合わせたその瞬間だけは自分たちだけが別の世界にいるような、この時間がずっと続くような気さえした。
だけど、それは彼の手によって意外と呆気なく終わった。
「……どうしたんだよ、急に」
口元を腕で隠し、間から覗かせる顔がほんのりと赤く色付いている。いつかの夕日みたいだ。
「なんでも? なんとなーく、今かなって」
「そっか、でも、できれば人目を気にしてほしかった」
どうやら彼は集中できてなかったらしい。これは致し方ない。
「じゃあ、もう一回くらいしとく?」
「遠慮しとく」
彼はひょこひょこと周りを見て立ち上がる。そして、座っている私に手のひらを差し伸べながら言った。
「次のとこ、行こう」
「うんっ!」
彼の手を取る。上気した頬と連動してか、少しだけいつもより彼の手は暖かかった。
それから私たちは色んな所を回った。穴場と呼ばれるスポットのくせして行列になっているスイーツ屋さんだったり、キラキラと宝石のように輝く野菜を使った天ぷら屋さんだったり。
私たちは本当に沢山の場所を回った。
昨日の分を取り戻すかのように。
これからの分を、先取りするかのように。
時刻は回って夜の七時。さっきまで私たちを照らしていた太陽の面影はない。
散歩しながら見つけた、温泉街から少しだけ離れた小高い丘。その丘を四苦八苦しながら何とか上って、二人そろって背丈の低い草むらに寝転がる。
目の前に広がるのは満天の星空。大小関わらず、自らの命を燃やしながら眩い光を放っている。そのどれもが美しくて、思わず息を漏らす。
「俺もあのお星さまになるのかな」
ふっ、と今にも夜風に吹かれて消え入りそうな声量で修一はそう言った。
「なるよ、きっと。修一なら、特にね」
「そっか。俺もあの星空の仲間入りするのか」
「うん。……じゃあ、私はこのお星さまたち全部覚えるよ。一つの例外なく、全部ね」
「そりゃまたどうして」
どうしようもなく自然に湧き出てくる笑みが溢れて零れて、私のパレットに新たな色を足す。
「修一がいつお星さまになっても私が気づけるように。気づいてあげられるように。どんな高名な天文学者よりも早く見つけ出してあげる」
「……うん。ありがとう」
「忘れないから。絶対に。ぜったい絶対にね」
他の星から見た私たちは、あんなふうに輝いて見えてるのかな。
配置はバラバラで、星の大きさもまばら、数も不確か。
でも、一つ一つが確かに存在して私たちの記憶に刻まれている。その事実がどこからか安心感を生む。
私も、修一も、あんなふうに輝けてたら、いいな。
―――――――
四日目。最終日。すごく冷えた朝だった。持ってきていた一番暖かい服でも少し肌寒い、そんな午前七時。
だけど、私たちの別れにはちょうど良かった、と思う。
部屋の片づけが終わり、チェックアウトを済ませる。そして、私はキャリーバッグを引き、彼はアンバランスなボストンバッグを肩から下げて、向かい合った。
私がなるだけ平静を装って「それじゃあね」と言う。
君も笑顔で「うん。バイバイ」と返してくれて。
きっと、その言葉はすごく暖かいんだ。
だけど、私はきっとその暖かさに触れてしまったら、戻れなくなる。離れられなくなる。
だから、これくらいの寒さが、ちょうどいい。
私たちは、そこで別れを告げた。
一人帰りの電車に揺られながら考えた。
最後の君の笑顔の下には、どんな感情が渦巻いていたのかな。
どんな気持ちだったのかな。
この旅行に私が居て良かったと思ってもらえたかな。
少しでも楽しいと思ってくれたかな。
私の事、好きでいてくれたかな。
そのどれも、今の私にはもう、確認するすべはない。
彼は私との旅行の二週間後、この世から去ってしまったから。
―――――――
「んっん-ふぁ」
ぐんっと、背を伸ばし凝り固まった背中と首をほぐす。
時刻はちょうど昼の一時を回ったところだ。
それにしても。
「結構分量増えたなぁ……」
思った以上に筆ペンを走らせてしまった。中々慣れなかった筆ペンも、今では結構……ちゃんとまだ下手だった。
「最後、どうしよっかな」
ここまではあふれ出る思い出と勢いに任せて書き綴ってきたけど、一旦止まるとどうにも筆を進められない。
しばらく悩んだ末に、最後らしいものを書こうと思った。
安直で何の考えも無いけれど、きっとその方が彼は喜んでくれると思うから。安心してくれると思うから。
そう決まれば私は再び筆ペンを持つ。
少しだけでもマシに見せられるように意識した。止め、はね、はらい。意外とどれも君から教わった技術だったりする。君は一度も応用したことなかったみたいだけどね。
―――――――
君、言ったよね。
もしこの世から俺が居なくなったら、俺のことは忘れてくれって。
だけどさ、そんなことできなかった。当たり前じゃん。
君のことが大好きで、これ以上ないほど愛してて。そんな私なのに、すぐに忘れられるわけがなかったんだよ。
君がそう言う人だってわかってたから何も言わなかったけどさ。
あの旅行だって、寿命の事も、病気のことも、全部全部忘れて楽しもうって。そのせいで、どれだけ私が悩み苦しんだと思ってんのさ。
だけど、私がこうなるのもきっと君は嫌がるんでしょ。
だから、私は期限を作ったの。君がお星さまになって、四十九日。それまでは君の事をずっと想ってあげて、四十九日が終わったら忘れようって。
だけど、これがまた苦しくてさ。
君との楽しい思い出を思い出す度に、現実が語り掛けてくるの。君はもう、居ないって。
だけど、それを押しつぶすように、追い出すように、また君との愛おしい思い出がそれを上回って。それの繰り返し。
時には憎しみさえ覚えた時もあったよ。
なんでこんな思い出だけ残してそっちに行ってしまったんだーって。
だけどその分、思い出が深くなって、君との日々が愛おしくてたまらなくなったんだ。
気分がどん底に落ちた時もあったよ。
だけど、君の笑顔が私に元気をくれた。
何事にもやる気が出なくなった時もあったよ。
だけど、君の言葉が力をくれた。
すべてにおいてやる気が出なくなった時もあったよ。
だけど、君の思いが私に、一歩踏み出す勇気をくれたんだよ。
だから、今はもう大丈夫。
そっちでも安心して見守っててね。
そう言えば、あの旅行の感想聞きそびれちゃってた。
楽しかったよね。楽しかったでしょ? 楽しくなかったなんて、言わせないよ?
なーんて、冗談はここまでにして。いきなりだけどさ。
私、結婚しちゃうんだ。
あのまま君といたら、君と居れたら、君と居ることを神様が許してくれたのなら、きっと私たちは結婚してただろうね。それなりに幸せな生活をして、子供に恵まれて。君はきっとその不器用さも相まって子供を泣かせちゃったり。子供が中学生になったら、「お父さんの字、すごくきったなーい!」なんてこと言われたり。
私にはその自信も決心もあったよ。
今となっては使い物にならないガラクタだけど。
いつまでも心の中でカラカラと音を立てて、決して私の邪魔はしないけれど、いつでも引っかかるような違和感があってさ。
それは間違いなく君のせいだ。
だけど、生き返ってきて、なんて我儘な事は言わないよ。
だって、私には君と同じくらい、いや、君よりもっともーっと、大事にしてくれる人が出来たから。
君よりもっと、もーっと大事にしたいと思える人ができたから。
君は折角整えた私の髪の毛をいつも雑によしよししたよね。あの手、意外と嫌いじゃなかったよ。
君の料理はいつだって乱暴で適当で、だけど、なんかおいしくて。いつもまずいまずいって言ってたけど、意外と嫌いじゃなかったよ。
君の大好物のせんべいを食べすぎて口の中がカラカラになった時も、君の匂いを肺一杯に吸っていた時も、君と一緒に散歩したときも、君と一緒に星空を見た時も。
全部全部全部全部。大事な大事な宝物だったよ。
だから。
手紙を送るのは最後にするね。
今までありがとう。
大好きだったよ。
―――――――
古いおせんべい缶四つに詰められた無数の手紙。二、三か月に一度だけ修一に向けて送られてくるものだ。
その最後を締め括ったのは、味のある筆文字の結婚報告だった。
あの日々を愛した七日間。あの日々を憎んだ七日間。 和橋 @WabashiAsei
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