海を、観に。見に。
北緒りお
海を、観に。見に。
海と空との境目は、どこまでも横に続いていき、同じ青なのに透き通った青と深い青ではっきりと分かれていた。
羽はここにたどり着くまでの道のりで破れたり欠けたりしているところからかすかな風切り音がする。
どこまでも広がる青の世界に、目がくらむようになりながら、ひたすらに羽を動かし続けていたのだった。
きっかけは、雨宿りをしているときにたまたま耳にしたツバメとスズメの会話だった。
まだ日が暮れるのには早い時間なのにも関わらず、急にあたりが暗くなってきた。花々は華やかな時期を過ぎて実を付け、空が高くなり、毎日少しづつ暑いから涼しいに変わっていく、そんな時期は夜の手前に激しい雨が降ることがある。
誰に聞いたかは忘れたが、そんなことを思い出して大きな葉の裏側に止まり、この雨をやり過ごすことにしたときだった。
ツバメの声が聞こえてくる。言うには、大海というのものがあるのだという。
水たまりは見たことがあるし、最近まで川の中で生きていたのだから水のある環境は知っているつもりだ。それでも、海は違うのだという。
近くの枝に並んで止まっているスズメとツバメの会話が聞こえてきたのだった。見つかって食べられてはいけないと、ツバメから身を隠し葉の陰で息を潜めてはいるが、雨音に負け時と大声で会話をしているのかはっきりと内容がわかる。
「なあ、キミはやたらと遠くまで飛んでいるらしいけれど、やっぱりこんな山の方とは違うのかい?」
「そりゃ違うよ」
「高い山や川なんかがあるのかい?」
「高い山も川もあるけれども、もっとすごいのが海だね」
「うみ?」
「川よりも湖よりももっと大きくて広くて、見渡す限り水しかないんだ」
「のどが渇いたらその水は飲めるのかい?」
「飲めはしないんだ。ものすごく塩辛くて飲めば飲むほどのどが渇くぐらいなんだ」
「!」
「その上をわたってきたんだけれども、とにかく広くて大きくて、そんなに遠くないから見に行くといいよ」
といった会話があり、すすめとツバメはしばらくのあいだ楽しげに会話をしていた。
その会話を聞きながらも、物音一つたてないようにし、見つからないようにしていた。そして、関心はツバメが言っていた海にすべての思考が持って行かれたのだった。
川よりも、湖よりも広く、見渡す限りの水。しかもその水は飲むには塩辛すぎるとは、どんな水なのか。
強く関心は持っていたが、そのときはその場で考えているだけで、二羽が飛び立ち、安全になった頃合いで飛んだところでそれきりになっていたのだった。
眠る前に目を洗い触角をきれいにし、羽を整える。
トンボが背負っている羽はとにかく軽く、そして光の当たり具合でコガネムシのような緑が見えたり、夕焼けのような橙色が現れては消える。
自分の体を無心で整えている中で、ふと海のことが気になったのだった。
見渡す限りの水。
想像をしてみても、なにかうまく考えが膨らまずに、湖の風景が浮かぶだけだった。
けれども、あの会話の中でツバメははっきりと、湖と海は全く違うところと言っていたのが気になったのだった。
トンボは、その蓮のような目を通して、いろんなものを細部まで読みとることが自慢だった。
その目は複雑な結合のように見えて、視界は広く、目の中に写る草花や景色や虫や空など、それこそ鳥のように二つしかない目では読みとれないぐらいの高精細に観ていると自負しているのだった。
この目で海を見たらどんな風に見えるのだろうか?
トンボが抱いた単純な疑問であった。
その脳裏にはツバメが繰り返し言っていた、海の広さやその波が荒ぶる様子、どこまでも続く水の地平線、高い空。どれをとってもトンボの目で見てみたいと思うものであった。
海とはどこか?
空を自由に飛び、どこへでも気ままに行っていた。しかし、それはどこかを目指して飛ぶのではなく、ただただ、風に流されるままに行き、危なくなれば隠れ、止まれそうなところがあれば一休みをし、と、宛もなく羽を動かしていただけであった。
薄く、脆く、繊細な羽はトンボの自慢であり、なによりも、この羽があるからこそ、この目が満足する風景を見ることができた。夜明け前の優しく澄んだ空の深い藍色や、雨が降る瞬間の大地に粒が落ち、乾いた土の明るい色が一滴の水で重い色に変わり、それがまばらに広がったかと思うとすべてが深い色に変わるまでの移ろいも、ありとあらゆるものをこの目に見せるために羽があるのだとも考えていたのだった。
漠然と、力の限界まで高くに登り、ほかのトンボでは見ることのない風景を目指したり、どこまで早く飛び、飛び過ぎ去る風景をその目で眺めということをしていたが、どれもこれもが知っていることを焼き直しているにすぎないように思え徒労を感じていたのだった。
自分で動ける範囲だけであがいているのに気付いたときから、この感じがつきまとっていたのだった。
ツバメは言っていた「海はほかの水場なんかと一緒にしちゃいけないよ、全然違うものなんだから」との一言がずっと引っかかっていた。
しかし、海を目指そうにもどちらに行けばよいのかわからない。
飛ぶのが上手な仲間に聞いてみようと考え、蝶に聞くが花のにおいにつられ飛んでいるだけでどこになにがあるか知らないとの答えがあり、蜂に聞くが巣作りに忙しいと取り合ってくれない。
聞けども聞けども海について知っている者がいない。
とある木陰での一時。
朝日の中で体中についた夜露を前足で拭いながら、羽を伸ばし、体を乾かしとしているところに、アリが近づいてきた。
近づいてきたと言うよりは、食べ物を探す為なのかそれとも探索をしているのか、木の幹の高いところまで歩いてきたのがたまたま近くを通りかかったのだろう。
軽く話しかける程度に、何かおいしいものはこのあたりにあるかい、などと声をかけてみる。
早朝はカブトムシが荒らした後の樹液場が新鮮な樹液がわいてきていいという。食べるものが違うので樹液の魅力はわからないがなにやらうれしそうに話をしているところからすると、たいそうおいしいのだろう。
虫同士の無駄話は食べるか安全な寝床はどこかという話につきる。アリは年がら年中いろんなものを食べて歩いているからか、どんな食べ物でもたいていの味と、どこらへんにありそうかとのあたりをつけるのがうまい。それに、相手に会わせて食べるものの話を変えてくるので、いつ、どんなアリに話しかけても、こっちが食べられそうなものや味の想像ができるものを話題としてくれる。
話をしていて気持ちがいいのもあり、話し始めるとついついあれこれ話題が出てきてしまう。
「実はさ、海ってところに行ってみようと思っていて」と切り出すと、アリは触角の先をくるくる回すようにして少し何かを思い出そうとしているのだった。
そして、思い出したようにこっちを向くと「ここから見ると日が沈む方に行くと海があるはず」と返事をしてくれた。
アリは、見聞きしたことを巣に持ち帰ると、仲間達に伝えているのだという。それは、どこに食べ物があるかという話はもちろんのこと、ほかの虫と話した内容、その虫から聞いたあれやこれや、そんなことを巣の中で教えあっているのだという。
アリの情報網は蜘蛛の巣のように張り巡らされ、食べものがあるところがあればあっというまにその場所が伝播していく。
食べものの位置と同じように、どこになにがあるかという土地のことについても伝わっていき、山の向こうにはなにがある、平野の果てになにがある、というのを手に取るよう二ではないものの、大まかな概要だけは知っているのだった。
見たものがすべてであるトンボとは真逆だが、いまのトンボにとってはそれが何よりもの助けとなった。
どちらに向かって飛べばよいのか明確になったからだ。
それからというもの、ただひたすらに、ただまっすぐに飛び続けたのだった。
アリの触角は、小さく、頼りなさげで、それで細かく地面や獲物のにおいを感じ、そして仲間に伝えている。一匹ではなにもないような小さな破片のような土や草木の見聞は巣に持ち寄られ、集められ、それぞれがそれぞれに交わした会話と交雑していく中で、醸造され、集約され、一滴の夜露のようであった風景は、いつの間にやら見渡す限りの情景とつながっていく。
トンボはそれを信じひたすら海をめがけ羽を酷使するのだった。。
なにもなく飛んでるときは、まるで棒きれが空中を進んだり止まったりしているような進み方をしているが、わき目もふらずに、一気に進む。
時には、鳥に追いかけられ、その追走から逃れるために草むらの中へ潜るように飛び、明るい緑だった色が浅くなり始めた夏草の柱を駆け抜け、または、突然の豪雨に襲われ、身を隠すところが見つからずに、羽にぶつかる雨に刃向かうように飛んだりとまっすぐな道筋ではなかった。
目にする風景はゆっくりとだが変わっている。
トンボが生まれ育った川のある所と大きく違うのは、人間が作った建物が目につき始めたというところだ。
海どころか大きな川すらまだ見えていない。
トンボに生まれたからには、こんな苦難に立ち向かう必要はなく、風の吹くまま草木の繁茂にあわせて住処を変え、伴侶を見つけ子を残すことだけを考えればいいのだが、ほんの少しの疑問とわずかな冒険心が芽生え、そこにたまたま出会った知識が出会い、やらないでも良いことに全精力を傾けている。
これがいいことであるのかどうかは、判然としない。
ただただ飛び続けている。目的は、一目でいいから海を見に行くためだけだ。
とにかく、アリから教わった海のある方向に向けてまっすぐに飛び続けていた。
トンボの羽は、その薄膜が張ったような虹の輝きがやぶれ、所々かすかな風切り音がする。
ぶつけたからか6本ある足の一本は思うように曲がらなくなっている。
だが、それでもまっすぐに飛び続けていくのであった。
気分を変えてみようと、普段は草や花のたぐいの高さで飛んでいるのが、今日は思いっきり高いところまで登って飛んでみようとしたのだった。
空は雲一つなく、まっすぐに地面に落ちる光が地面にはっきりとした影を作っている。
これだけ太陽に近づいて飛んでいるということは、自分の影もどっかにあるのだろうかと考えるまでもなく考え、ゆっくりと、ゆっくりと高さを増していった。
飛んでいたときに見上げていた木々を追い越し、さらに高みへ。
青だけの空にぽつんと一人きりでいるようで、それでも、背の高そうな木のてっぺんや、地面が緩やかに起伏している地平線、それに川の流れている線が、ちょっと見渡すだけで簡単に見渡すことができたのだった。地面すれすれを飛んでいると、体にまとわりつくような湿り気にやられることがあるが、この高さではそれもなく、気のせいか羽の動きも軽く感じる。
風の吹き方も地面の上と違い、下から体を持ち上げるような風が吹き、さらに上昇し自分の力ではたどり着けないような高さになった。これが鳥が見ている風景かと感心しながらも、自分の足下に広がる光景にめまいに似たような感動を受けたのだった。
あの見上げていた木々が、まるで発芽したばかりの双葉のように小さくみえ、川や山も、少し足を前に延ばせば届くような気持ちになったのだった。
小高くなっている丘を抜ける。この高さでなければ、きっとあの丘ですら抜けていくのに時間がかかっただろうと、自分の足下を見つめ、視線を前に向ける。
碧い、空とは違う青さの見渡す限りの水の平原が広がっている。
同じ色にも関わらず、まっすぐな線を境に抜ける青と深い青に分かれ、まったくの別の青が広がっている。
風が変わる。今までからさらに乾いたような風に変わった。
これが海の風かと思うと同時に、羽に力を入れ、海に向かって全力で羽ばたいた。
全力で羽を動かしているせいか、痛んだ羽の風切り音が大きくなったような気がする。
それでも、目前に広がる海に向かって全力で羽ばたく。
広がる青が広くなっていく。
見上げても、下を見てもどこまでも青。
雲一つなくまっすぐに体に刺さるような光が、ゆっくりと頭から尻尾の先までを炙るように熱している。
風に任せて高くまで登ってきたのを滑るように海に向かって羽ばたき続ける。
トンボの目には、空と海と憧憬の青しか目に入らないのだった。
海を、観に。見に。 北緒りお @kitaorio
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