一:来着
遡る事、四十三年前――
馬に跨った主人と、曳き手を握る従者が、薄暗い獣道を足早に過ぎていく。
青黒い空は残星を抱き、東から漏れる薄明かりが、道端の
「
「
白い息を切らしながら、従者が答える。
「であれば昼前か。 急ぐぞ、蠏足。 早く
「へえ!」
そう言うと、二人は風を切る様に坂道を駆け下り、残夜の闇に消えていった。
その日の朝方。
蘇我馬子、
当時、東漢坂上直子麻呂は
子麻呂は朝鮮半島南部の小国・
そして馬子の父・
馬子はやや小柄で中肉の若者であった。
五年前から父の手伝いをしていたとはいえ、父は先月逝去したばかり。朝廷の一翼を担う〈大臣〉の職を継いで日が浅い。
しかし、持ち前の人懐こさで、父の代から親交のあった氏族に支えられ、公務は
対して守屋は、馬子達より八つ歳上。元々の強面も相まり、治安維持や
大王は齢六十を超える。先月までは体調を崩しがちだったが、最近は回復に向かい、快気祝いにと、先帝・
「それっ」
大王の左腕から放たれた鷹が、真っ直ぐ叢の中へ飛び込む。
従者が後を追いかけ草を掻き分けると、鷹は鋭い爪を野兎の首に食い込ませ、力強く締め抑えていた。
「また大王の鷹が獲物を捕えました!」
従者の報告を聞き、物部守屋はすかさず大王に会釈する。
「お見事です」
「なに。 お前の所の鷹飼いが優秀なだけよ」
大王はふっと口角を緩ませた。
「は! 有難き御言葉。
守屋は眉一つ動かさずに一礼して答えた。
守屋は表情に乏しい男であったが、僅かな声の抑揚から、大王は彼が内心嬉々としている事を察し、笑みを浮かべながら右手で守屋の肩を優しく叩いた。
「大臣、次はお前の番ぞ」
大王は馬子に向き直り、穏やかな口調で声をかける。
「は、はい。 ちょっとお待ちを……」
馬子はそう答えたが、彼の左腕に乗った鷹は羽をばたつかせ、細い鳴き声をあげて落ち着かない。
「何をもたもたしておるのだ」
守屋は肩をすくめ、はあ、とため息を漏らした。
子麻呂も、主人の狼狽する姿に目を当てられず、手で顔を覆った。
「ははは。 腕を平らに上げぬか。 それでは鷹も留まりづらかろう」
こう上げるのだよ、と大王が馬子の腕を直していると、遠くで
「おい、そこの者! 止まれ! 大王の御前であるぞ!」
「吾は
首を上げて騒ぎのほうを見ると、護衛に囲まれた二人の男の姿があった。
「越だと? 馬子、見知った顔か?」
「いえ……」
馬子は首を小さく横に振る。
「江沼といえば、大王の父君・
「まあ、あすこは北つ海(日本海)から色々なモノが寄り来る所よ。 そういう意味では、大臣を頼るのは理に適っておる」
大王は取り敢えず二人を前に連れてくるよう、護衛に伝えた。
男は馬から降り、大王の前で跪いた。
裾代と名乗る男は、翡翠の首飾りを付けた豪族であった。齢は三十半ばか、細目で目尻は下がり、口元からはひょろっと長い髭を伸ばした、馬面の男である。
もう一人は蠏足という彼の従者である。名前の通り、血色が良く、やや赤みを帯びた肌に、長く筋肉質な四肢を持った、二十歳手前の若者であった。
大王は
「是をどうぞ」
「
二人は喉を鳴らしながら水を飲み、呼吸を整えると、裾代が口を開いた。
「あの……蘇我大臣はどちらに?」
「この御方ですが」
子麻呂は、両手のひらで馬子を指し示した。
「は?」
裾代と蠏足は唖然とした。
それもその筈、二人は前大臣である稲目の逝去など、知る由もない。真逆この若者が大臣とは思いもしなかったのである。
「父なら先月亡くなりました。 今は息子の吾が職を継いでいます」
「あ……」
「威厳がないと、よく言われます」
馬子は眉尻を下げて苦笑した。
「
直ぐ様二人は馬子に土下座したが、暫く気まずい沈黙が流れた。
最初に口火を切ったのは大王であった。
「して、報せとは何か」
「あ、はい」
裾代が軽く咳払いをする。
「先月、高句麗の船が時化のため波に攫われているところを、
「やはり
「それが国書と珍宝を携えた
「何?」
大王はぴくりと片眉を吊り上げた。
外交を担う馬子としては看過できない。すかさず裾代に聞き返した。
「それは確かですか」
「はい」
裾代の報告に、一同は互いに丸くした目を見合わせた。
向こうから国交を持ちかけるなど、前代未聞の事態であった。
そもそも、高句麗とは険悪で、争う事も少なくない。
最近では八年前、親交国である
「大連と大臣はどう見る」
大王は馬子と守屋に視線を送った。
「そうですね……」
「何か企みがあるのでは」
猜疑心の強い守屋は即答したが、馬子は右手で顎髭を弄りながら、少しの間思案した。
「吾は同盟が目的かと」
「何故そう思う?」
守屋は顔をしかめた。
「現在、
「うむ。
「その通りです」
大王は、馬子の話を咀嚼するように相槌を打った。
「対して高句麗は新羅に南部を削り取られており、百済とも対立してますから、孤立状態にあります」
馬子は続ける。
「加えて彼の国はここ二十年近く、斉と疎遠です。 陳に対しても他の二国に比べて遅れを取っております」
「成程。 それで海を隔てた吾が国と同盟を結び、新羅を牽制したいと」
「はい」
「筋は通っておるな」
流石の守屋も得心し、首を縦に振った。
しかし、大王には腑に落ちない点が一つあった。
「越から此処までは二、三日であろう。 報せが二週間かかるとはどういう訳か?」
裾代と蠏足は軽く目を合わせて頷き、姿勢を改めてから口を開いた。
「それが、もう一つお報せしたい事です」
「ほう」
大王は肘をつき、訝しげに二人の顔を見下ろした。
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