無駄花の愛

@miya___

無駄花の愛

 私が彼女からの手紙を受け取ったのは、夏のとても暑い日のことだった。実家に宛てて送られてきたというその封筒は、私の生家からもう一度郵送されて現在暮らしているアパートの郵便受けに大人しく収まっていた。

 届いたなんの変哲もない長方三号の白封筒には、私の名前だけが鎮座しており、送り主の名はなかった。手紙を取り出してみれば、私のしっとりとした手のひらとは対照的に、その紙は乾燥して、味気なかった。三つ折りで行儀よく収まっていたそれに目を通すと、その手紙の最後に彼女のフルネームが鎮座している。そこで、私はようやく驚いた。彼女が自分に宛てて手紙を書いたという事実がどうにも信じられなかったのだ。

 なぜなら、私と彼女が最後にあったのは、今からもう五年以上も前、高校を卒業したその時だったからだ。



「同性と付き合うって、どんな感じなの?」

 そう問うと、彼女はふと視線を上げて、私の目をちらりと見た。思い起こせば、それは二人で行った最初で最後の旅行の、列車の中だった。最後の旅行だから、新幹線かなにかでも取ればよかったのに、私達は鈍行を乗り継いで、目的も行く宛もなく、ガタガタと鳴く列車の音を聞いていた。今思えばそれは、ものすごく、考えなしの最悪な質問だったようにも思える。あのときの私もそれに気が付き、彼女が気分を害していないか不安になって顔色をうかがってみたけれど、彼女は全くそんなこと気にしていないような様子だった。

「同性とっていうか…」

彼女は最適な言葉が見つからないとでもいうように言葉に詰まったあと、しばらくしてまた口を開いた。私は彼女の唇が乾燥して切れそうなことを気にしていた。

「お水のピッチャーってあるでしょう。私はそれを持って立っているの」

「うん」

「それで、目の前には飢えている人がいる。のどが渇いて仕方がないのね。それを、私は満たしてあげることができる」

「うん」

「…だから、私がやっているのはそういうこと」

私がその意味を自分の中で噛み砕いていると、彼女は弁明するように言葉を付け加えた。

「そうしてみずをあたえつづけると、あいてはもっとほしがる。私もそれを与え続ける。ほら、植物とか何か、自分で育てているうちに愛おしくなっていくみたいにってあるでしょう。付き合うことって、それと同じ錯覚なの」

「錯覚。」

意識の端で引っかかった単語を反芻する。彼女の選ぶ言葉はどこか普通とは違っていて、理解するのは難しい。 でも私はそこが好きだった。

「そう。それで私はふと、水を注ぐのを、やめてしまう」

「それはどうして?」

「途中で気がつくのよ。それは愛なんかじゃなかったってね。愛だと思っていたの。いつだってそう思いたいの、最初から。けれどね、だんだん、私は義務みたいな気持ちで水をあげていることに気がつく。そうすると、水を遣りに行く足がパタリと止まっちゃうの」

私は、何度水を与えても与えても乾ききった土のことを考えた。そんな土で溢れた鉢植えの前で立ち尽くす彼女の姿を想像してみた。そうすると、なんだかとても悲しい心地がしてくるのだ。

「愛していたと思っていたものをじつは愛していなかったんじゃないか、そう思うと、動けなくなってしまうの」

最後に彼女は水を汲みに行く前にうずくまってしまった。今日も、植物は彼女が水を遣りに来てくれるのを、今か今かと待ち続けている。

 枯れない花がほしいわね。

 彼女は誰に聞かせるわけでもなく、そうこぼした。

 しばらくして列車が駅についたので、私は彼女のひんやり冷えた手を取って、電車から降りた。



 私は自分の恋人と手を繋いで歩いたときに彼女のことをよく思い出した。逆に、それ以外で私の日常に彼女が溶け込んでいたことは驚くほど少なく、彼女の輪郭や、体温や、感触が思い出されることは殆どなかった。けれど、彼女ではない別の誰かの温度を手に感じるとき、私は決まって彼女を思い出した。それは相手に失礼な話かもしれないが、女の子同士、理由も何もなく手を繋ぎたくなるときだってあの頃の私達にはあったのだ。そんなときは、乾燥して少しゴツゴツした彼の手の感触を肌に感じながら、彼女の手は柔らかくてみずみずしく、これほど節くれだってもいなかったなと、訳のわからない感傷に浸ったりする。私が彼女と手をつなぐのと、彼と手をつなぐのでは、全く意味も気持ちも違うので、私は時々とても寂しさを感じた。それは、学生時代に彼女が別の女の子と手を繋いで歩いていたときと、同じ気持ちなのだろうと思う。おとなになって彼女の気持ちを理解するだなんて、とんだ皮肉のように思える。彼女は今この場所にいないと言うのに。結局、私は恋人とも別れてしまった。



 目的がない旅だった、と私は彼女との旅を回想したが、実はそれは少しだけ誤りだ。嘘とまでは言わないが、正しくもない。私達の旅には一応の最終地点があって、そこに到達することがゴールだった。つまり、旅の終わりだ。ところで、彼女は夏が嫌いだった。口には出していなかったと思うけれど、夏になると決まってうんざりした表情を見せるのだ。だから、私が彼女の方から旅に出ようと声をかけられたのは秋口のことで、ちょうど、残暑が名残惜しそうに去っていった頃のような覚えがある。

 私達は夜になると電車を降りた先の土地で適当な宿泊施設を探し、二人でそこに泊まった。それらの旅にかかる費用は自分持ちだったので、今までコツコツ貯めてきたお金を一気に切り崩して彼女のために使った。それを、私は今日まで後悔したことはない。むしろ、私の人生の中で最高の選択だったようにすら感じている。彼女なんて私よりも本格的で、自分専用の通帳を片手に出し惜しみなく金を使っていた。とは言っても、私達の旅に必要だったのは旅の記録でも思い出でもなかったので、今私の手元には、あの頃を思い出せるような品物は一つもない。二人とも、ストラップやキーホルダーのようなものを買い求めるような質ではなかったし、物理的なものにあまり意味を見いだせていなかったのだ。だから、あの短く儚く美しかった時間は、私の記憶の中にだけ存在している。とっくに色褪せるものだと思っていたそれは、私が何度も、擦り減るほどに夢見たために、忘れられることはなかったのだ。せっかくならば、なにか、写真の一枚だけでも残せばよかったとも思わないこともなかったが、あの頃の私達に記録なんて必要なかったのだ。現に、私はあんなに好きだった彼女の写真の一枚も持ってはいない。ぼんやり、彼女の笑みが綺麗だった気がするだけなのだ。

 私達はあの間、毎晩同じ布団に入って眠った。一度去っていったら微塵も暖かさを残していかないのが季節というものだ。十月も後半に入った夜の肌寒さは、私達に孤独を感じさせたのだろう。提案してきたのは彼女だった。提案という言葉も正確ではないかもしれないが、彼女自身が夜になって私の寝台に潜り込んできたので、ときに理由を尋ねることもなく、ともに眠った。それが敷布団であっても、二人で眠るには多少狭いシングルベッドであったとしても、その旅の間は彼女と同じ場所で眠った。彼女の足も手もしっとり柔らかく、そして冷たかった。

「明日は海を見に行きましょうよ」

彼女は布団の中で、小さな声で話した。唯一二人のことを見ていた月明かりにさえ聞こえないような内緒話だった。

「海…」

「そんなに綺麗じゃないと思うけれど、せっかく近いんだし。ね」

「いいよ」

彼女の囁く声が目の前で発せられるから、私も彼女につられて声を潜め返事をした。彼女は唇の端で笑みを作って満足そうにすると、私の方に向いていた体を仰向けに戻し目を閉じた。私も彼女にならって眠りにつこうとしたとき、また、私にしか聞こえないような声で彼女は言葉を発した。

「ねぇ………どうして、ついてきてくれたの」

それが、この旅の事自体を指すのだと私にはすぐに分かった。どうして彼女の誘いにうなずいたのかと彼女は問うていたのだ。けれど、私はそれをうまく言葉にすることができなかった。改めて聞かれると、その頃の私には理由がわからなかったのだ。私が悩んでいると、今度こそ彼女は寝てしまったようで、規則正しい寝息が隣から聞こえてきた。結局、その質問には答えることのないまま、私も眠りについてしまった。



 私は例の手紙が届いたあと、一人で海に行った。特別感のない海だった。しかもそれがまさに夏といった具合だったから、さして綺麗とは言えない近くの海も人でごった返していた。なんだか、どこかうんざりしてしまって私は家に帰った。もともと家を出たのに、それ以外の理由はなかった。強いて言えば、彼女と昔訪ねた海をもう一度訪れたかったのだけれど、生憎私達があの旅で彷徨った場所を全くと言っていいほど覚えていなかったのだ。筒がない日々を過ごしつつ働く今の自分には、あのときの旅費くらい簡単に払えてしまうというのに。私は変わって、あの頃の私にはなかった多くを手に入れて、そして、彼女を失った。



 帰る。

 彼女が告げた一言によって、私達の世界からの逃避行は終わりを告げた。日にしては十日ほどだったんじゃないかと思う。文化祭の振替休日をうまく使って出掛けたから、実質学校をさぼったのは一週間かそこらだ。でも、高校二年生の、授業を一度も疎かにしなかった私や彼女からすれば、それは革命を起こすのと等しいくらいの大きな出来事だった。家に帰ったとき、言うまでもなく、こっぴどく怒られた。それはもう怒られたという次元の話ではなかった。家族には言い逃れできないほど心配をかけたのはわかっている。あの状況をどうやって切り抜けて、家族と良好な関係を築き直したか、私は全くと言っていいほど思い出せない。

 ただ、家に帰ったときの私の頭をただただ占めていたのは、旅の間に彼女と話した言葉や、彼女の声や、体温や、とにかく、生きた彼女の証だった。帰りの電車でお互いに一言も発さないまま、家まで戻ってきたときのことだった。旅の間に話し尽くしてしまったのか、それともただ単純に疲れてしまっただけか、行きのように話すこともなく心地の良い沈黙を味わっていた。私が気がついたときには彼女は寝入ってしまったようで、その長い睫毛だけが車窓から差し込む陽光に照らされて光っていた。ただ子供のようにあどけない寝顔だった。



 私と彼女が出会ったのは中学に上がったときのことだった。中高一貫校で、私達はクラスメイトだった。それ以上でもそれ以下でもなかったが、私達はきっかけを忘れたが仲良くなった。それはさながら何かの引力でくっつけられたかのように、私達は互いを埋めあった。彼女といつも一緒にいるわけでもなかったが、それでも私は彼女のことが大好きだった。彼女は要領よく生きていけるはずであるのに、世の中に転がる小さな違和感をいなせない人だった。それらと自分の中だけで戦って、私にだけは言葉にしようとしてくれることが好きだった。私は彼女を表す適切な言葉を知らない。どんな言葉も、彼女を語るには足りないのだ。完璧な言葉なんてない。ただ、私にとって、彼女は他の誰とも違って見えた。彼女の話す言葉、彼女が考えていること、彼女だけが見えている世界。それが他の誰かとは全く違うのだろうと思った。そんなところが好きだった。彼女は綺麗だった。私が人生で出会った人の中で誰よりも好きな人だった。私はそんな彼女の近くで息をして、手を握っているときが世界で一番幸せだったのだ。



 私と彼女が帰る前に、前夜の宣言通り海に立ち寄った。秋の早朝の海は人気がなく、思っているよりもずっと寒かった。はぁ、と彼女が自らの手に息を吹きかけるさまが見えた。だから私は、彼女の手を取って、私の体温を与えるようにギュッと握りしめた。彼女はほろりと笑って、少しだけ私と指を絡めて、また離れていった。彼女の指先は、前日触れた足と比べ物にならないくらい冷え切っていたのに、彼女は私の手を離した。今思えば、彼女は最初から私をどこにも連れて行く気はなかったのだと思う。彼女はいつか一人で、私を置いてどこかへ行くつもりだった。私は彼女がそういうのならばどこまでだって一緒に行くつもりだったけれど、彼女はそうではなかった。けれど、今ならわかる。彼女が私をあの旅に誘った理由も、私がためらいもせず彼女についていった理由も。あの頃は、私がただ彼女の隣にいたくて、彼女も私のそばにいたかっただけなのだ。はじめから、理由なんてなかった。それだけの旅だった。だから私達は私達なりに、たくさんのものを埋めあって、与えあって、そして、好きあったのだ。

 特に澄んでもいない、独特の青さを持つ海は、なんだか今においては心地が良かった。彼女がここを旅の目的地だと定めるのなら私は誰がなんと言おうと首を縦に振ったろう。

「ねぇ」

「何」

「来てよかったね」

「………そうね」

彼女は寒そうに肩をすくめながらも微笑んだ。朝日が海の色を虹色に変化させる。その光が彼女に当たって綺麗だった。

「ねぇ」

同じように、今度は彼女の方から私に呼びかけた。

「どうしたの」

「私はあなたのことが好きよ」

今なら、死んだって構わないと心から私は思った。



 日が沈んで、海水浴に来ていた人達もみんな家に帰ったその後、私は、もう一度近所の海に足を運んだ。そのときには彼女と海を見に行ったときのような清涼感は一切なく、ただ、夏の夜と海の磯の生臭さが混ざって、いい気分だとは言えなかった。

 高校二年生の秋。私達は、二人で旅行に行った。彼女に誘われて、旅に出た。

 彼女が、何もかも嫌になったというから、きっとあれは終わりを探すまでの旅だった。

 正真正銘、最初で最後の旅になる予定だった。私は全財産を、彼女は通帳まで持ち出して、二人でどこまでも行けるのではないかと、そう、錯覚していた。そして私は、彼女とともに帰ってきた。

 海の波が寄せては引いていく音だけが、その静けさだけがあたりを包んでいる。

 私は彼女から私に宛てて書かれた手紙を抱えてうずくまり、その場から動けなかった。一歩たりとも、動けなかった。

 私は彼女を待っていた。彼女に何も求めていなかった。ただただ彼女を待っていた。彼女がやってくるのだけを、ずっとずっと待っていた。



拝啓     様


 お久しぶりです。突然のお手紙でごめんなさい。あなたと最後に高校の卒業式で会ってから、もうすでに六年が経過しています。私のことなんてもう忘れているかもしれませんね。それならば、もしこの封書があなたの手元に届いたとしても、破いて捨ててしまって構いません。覚えてもいない女から送られる手紙ほど気味の悪いものもないでしょう。

 ここまで読んでくれているということは、少なくとも私のことを覚えてくれているということでいいのでしょうか。それならば、それ以上に嬉しいことはありません。本当は、もっと早くこのような手紙を出すはずだったのです。出すべきだったのです。ただ、私が怖がっていたあまり、こんなにも時間がかかってしまいました。これから、私は、私の書きたいことだけを書いていきます。おそらく要領を得ない話になってしまうことを、許してください。

 一つだけ、私と約束をしてください。お願いだから、この手紙を読んだあと、私に対して、悲しみだとか、負い目だとか、とにかくわかりませんが、そういうふうにものを考えないでほしいのです。ごめんなさい、うまい言葉が見つかりません。ただ私は、私の手紙が万が一にもあなたの枷にならないことだけを願っているのです。

 私とあなたは、中学校に上がったときに出会いましたね。私とあなたは必然的に惹かれ、そうして仲を深めていきました。あなたは知る由もないでしょうけれど、私があなたに好感をもったのは、机の上の消しカスを一日の終わりに必ずゴミ箱に捨てる姿を見ていたからです。私はあなたと仲良くなりたいとまず思いましたし、そうしているうちにあなたも私のことを気に入ってくれたのがわかりました。あなたは私のことが好きでしたよね。変な自信でも自惚れでもないのです。ただ、あなたが私を見る目には、憧れだとか尊敬だとか、そういった類のきらきらした何かが含まれていたのです。綺麗なものを見るような目とでも言えばいいのでしょうか。そのような感情をあなたがどうして私のようなつまらない人間に対して抱いたのか、いまいち理解しかねています。それでも、私はあなたといることが心地よかった。あなたが私に抱く憧憬をいち早く理解して、それを利用してあなたの近くにいました。私は、あなたのどこが私の琴線に触れたのか、それすらもよくわかっていません。けれど、世の中にはどうしてかわからないけれどとても好意的な印象を抱く相手というのは一定数存在して、私にとっての最たる例が、あなただったのだと思います。

 さて、それでもあなたと学年が上がってクラスが離れ、物理的に距離ができると、私は違う誰かと距離を詰めることになりました。それは、あなたが今まですっぽりと埋めてくれていた私の穴を変わりに埋めるような作業だったのです。あなたほどぴたりとその穴に符合するようなひとはもちろんいないから、私はひとまず、私のもとまでずいと距離を詰めてきた相手だけをそこに当てはめてみることにしました。あとは知っているとおり、あなたと高校二年生でまたクラスが一緒になるまで、私は二人の女性とお付き合いをしました。自分でも、どういう経緯だったか全く記憶がないのです。ただ、過去にあなたに説明したとおりだったのだと思います。私によってくる人たちはみんな水に、愛に飢えていて、私はそれを簡易的に満たす手段を持ち合わせて生まれてきた。だから、そうやって渇いて仕方がない人たちは私を求めたし、私も、与えられるものならとできる限り水を与え続けました。彼女たちに求められるまま、手を繋いで色々なところを歩きました。そうしていくうちに、私の穴はどんどんと肥大していくような錯覚に襲われたのです。私は自分なりに彼女たちを愛しているつもりでした。けれど水をやればやるほど、本来であれば満たされるはずの私まで干からびていくような感覚に襲われて、私はついぞやめました。そこで懲りなかった馬鹿な私は同じことをもう一度繰り返したところでようやく自分の失態に気が付き、ぱったりとその奉仕から身を引いたのです。

 そうして日々を過ごすうちに私は自分の中にできた渇きの存在をはっきりと認識することになりました。そのあたりからなのです、私は極端に話すことが下手になりました。多分、それに気がついていたひとはあなたを含め誰もいなかったと思います。私は、世の中に対する不和を見過ごせなくなり始めたのです。こういってはなんですが、それまで私は世の中一般を基準としたときに、どちらかといえばうまく生きていた自負がありました。けれどどうでしょう。それからは、細かいことに腹が立ち、どうでもいいことを許せなくなり、そんな自分を省みては動けなくなる日々が続きます。

 そのうちに、私は高校二年生になりました。またあなたと同じ場所で息をするようになりました。その場所の居心地良さと言ったら!私はあなたに完全に甘えていました。私は、あなたが私を好いてくれているのなら、あなたが好きなままの私でいられるように、隠せない渇きだらけの自分をあなたの前でだけ取り繕いました。でも、それがあるとき溢れてしまったのです。取り繕うことすら難しくなって、私は、あなたを旅に誘いました。それが、あの目的のない旅です。あなた、何もかも嫌になったから、何も言わず一緒に来てほしいだなんて、そんなわけもわからない文言にうなずいて首を振ってはだめです。私は浅ましいので、あなたの返答に驚き、困惑し、そして抗いようもなく歓喜しました。

 それからの二人でした旅のことはよく覚えています。

 あなたと私は、気が向いたときに手を繋いで様々な場所を歩いて回りました。美味しいものも、きれいな景色も、何もかもをあなたと経験したはずなのに、不思議ですね、私が何よりも鮮明に覚えているのは、あなたのその優しくて温かい手のひらなのです。あなたと手を繋ぐとき、私はどうしてか胸が早まるのを感じて、まいどまいど指先が冷えたのです。あなたにそれが伝わっていないかいつでも不安でした。あなたは気がついていましたか。それとも見ないふりをしてくれていたのですか。

 同じ布団に入ったときだって、緊張で、足も手も冷えていたのです。あのときの私は何を思っていたのかよく覚えていません。おかしな話じゃありませんか、寒くて、あなたに触れようとすればまた一層冷たくなって。それでも、触れ合った部分は温かいのです。私の心と同じように、人間は無数の矛盾を孕んでいます。私はあなたに触れたかったけれど、その実ずっと怖かったのです。何が怖かったのかもよくわかりません。けれど全てが怖かった。だから私は毎日寝たふりをしましたし、あなたが寝入ってから、あなたの寝顔を見ていました。

 それで、海に行って、私はあなたに「私はあなたのことが好きよ」と、そう伝えました。正直あのときの私には、あなたへの感情に名前をつけることができていなかったのです。友愛なのか、独占欲なのか、それとも恋愛なのか、はたまた全くそれとは違うなにかなのか。この世界は名前を求めすぎます。私は、あなたに対していつも思いを言葉にして、きちんと世界にある概念に当てはめなければならないという義務感に襲われ続けてきました。義務感。そうです、私はいつも世界の常識だったり、世界の言葉だったり、世界の大意に沿うべきだという義務感にかられていたのです。それに違和感を感じて、すべてが嫌になって、爆発しないようになんとか自分の中に押し込めていました。私が交際していた二人の女性についても、考えてみればそうなのかもしれません。でも、あなたはその意味をなさない「好き」という言葉に対してなんと自分が答えたか覚えていますか。あなたは、綺麗に笑って「私も好きだよ」と、そう答えたのです。私はあのとき、とても嬉しかったのです。なんだか、面倒な感情を一切抜きにしてあなたがただただ私の純粋な好意を、そのまま純粋な言葉で返してくれて。私は、とても救われたのです、本当です。

 そうしているうちに、私は自分の膨れ上がった渇きをいつの間にか感じられなくなっていたことに気が付きました。何もかも嫌になって、だから何も言わずにあなたを巻き込んであなたと旅に出たはずなのに、なぜだか、あなたといたらそれも全部小さなことに思えてしまったのです。帰りの列車の中で張り詰めたものが全て解けきったように熟睡しました。あなたには、退屈な思いをさせたかもしれません。

 恥ずかしい話、私には何もかもを受け入れ、受け止める勇気がなかったのだと思います。それを、認めることはできてもあなたに面と向かって言うことはできなかった。あなたは優しい人だから、それで私のことを軽蔑したり馬鹿にする人間ではないことくらい私にもわかっていましたが、それでも世の中の常識を許すこともできない意気地なしだと思われてしまったら、それはもう堪えられないことだったのです。私はあなたにいい姿だけを見てもらいたかった。あなたの中の私だけは、ずっと綺麗なままであってほしいと、それだけを常々願っていたのです。

 あなたと電車に揺られながら帰ってきて、眠っていたそのうちに、私はようやく自覚した、無視できない己の感情に気が付きました。その時には、正直もうどうしようもありませんでした。

 私は本当に意気地がなかったのです。自分が水を誰かに与える側だったからそれを盾にして、あなたから水を遣ってほしいと願う心を無視し続けていたのです。私の渇いた心にあなただけが水を差せたのです。私はきっとそれに気づいていたのだろうと思います。人を愛せないのだというふりをして、言い訳に逃げて、そして、もしあなたに拒絶されたときのことを考えて動けなくなりました。なぜ私の渇きはあなたによって潤されたのか、そんなことは、考えれば簡単な話ではありませんか。

 私はあなたから離れました。もちろん受験でしたから、特段おかしな話でもありません。当然のように私達の道は分かたれ、今日まで二度と会うこともありませんでした。あのあと、私は別の男性とお付き合いをして、好きなだけ水を与えてもらい、また彼が求めるように同じだけそれを返しました。もう、私の飢えは満たされないのだと思います。何度与えられても、私は渇いたままでした。相手など誰でもよく、水さえあれば十分だった彼女たちのほうがまだマシであったでしょう。なんとなく、そろそろ彼との結婚も見えてきています。

 ひとは私を幸せだと言います。私もそうだと思います。ただ、私はもう正確に伝えたいことを伝えようと、言葉に詰まるあの頃の気概を持っていません。私は、あなたに見せていたかった自分すらなくしてしまったのです。

 そうして、私はあなたに手紙を書いています。まだほんの少しだけ、全てに抗おうとする、生きるのが下手くそなあの頃の私が残っているから。その私が、誰よりあなたに伝えたいと叫んでいるから。

 私はあなたが好きでした。とても、とても、心から好きでした。本当に、この世で出会った誰よりも好きなのです。それの、何がいけなかったのでしょうか。私は、何を間違えて生まれてきたのでしょうか。女性を好きになってしまったことですか。それとも、自分で自分に対する嫌悪を永遠に消せないことなのでしょうか。どうしても、もうずっと苦しいのです。

 世界は多様性だなんだと言います。もしくは、自由だとのたまいます。個を信仰する現代は、私達をカテゴライズして、つまるところ面倒なのでひとまとめにして型に当てはめようとします。しかし、世界も、私自身も、私を受け入れることはありませんでした。私は正しく清く生きなければという理想に押しつぶされて、自由な世界に産み落とされました。私があなたを好きで、その気持ちだけで生きていけたとしたなら、それほど幸せなこともなかったでしょう。私が、何に疑問も持たず、ただあなたの手の体温だけを感じて生きていけるのだとしたら、それほど、それほど救われることもないのです。そんな自分を認め、この世界を渦巻く常識とやらに反発せず飲み込むことができていたのなら、こんなことにはならなかったはずなのです。私は弱い人間です。あなたが思うような綺麗な面はありません。自分の逃げたいことからいくらでも目を逸らし、自分自身から逃げることにも疲れてしまって、こんなにも愛されているのに、私はずっと世界に一人でいるような錯覚に襲われ続けています。

 こんな私でも、それでも、あなたが、優しいあなたが、ちゃんと好きだったのです。

 あなたに。この手紙は好きになさってください。煮るなり焼くなり、何でも構いません。もし、私のことを心底最低でどうしようもないやつだと思ったら、私のことは忘れてください。それでも、もしあなたが私を覚えていてくれるというのなら、あなたが覚えている中で一番綺麗な、私があなたに見ていてほしかった私だけを記憶していてください。

 もう、この先出会うこともないでしょう。これが本当のお別れです。

 さようなら、そして、ありがとう。

 あなたのこの先の人生が、幸せに溢れた日々であることを願っています。


敬具

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