眩しくて、憎くて、羨ましくて
――それは、本当にたまたまだった。
「……勝っちゃった」
校庭にて。体育、テニスの授業。
その日は風が強く吹く日で、テニスをするにはあまり向かなかった気候だったのを覚えている。
僕の学校では、体育において対人スポーツをやる場合、成績を決めるのは総当たりでの勝率だった。
この勝率っていうのが格差がありなかなか難しくて、その部活に所属している人にとっては都合の良い内容だったから、僕みたいな帰宅部の人間には、どれもこれも嫌で仕方なかった。
そんな時だったのだ――僕が、テニス部のエースにまぐれで勝ってしまったのは。
今日は風が強かった。
向こうのコンディションが良くなかった。
通常のテニスと違い、ワンセットマッチだった。
本当に色々な偶然が重なって、起きた結果だった。
だが、これが不味かったのだ。テニス部のエースなんて陽キャの人間に、それも自信家な人間に勝ってしまうことほど恐ろしいものはない。そして、体育教師はテニス部の顧問だったせいで彼は授業後先生に呼ばれて、随分と酷い顔つきで帰ってきた。
キッと蛇のように鋭い目つきで射殺さんばかりに睨まれて、蛙にしかなれなかった僕は竦むことしかできずに。
僕が悪かったわけじゃない。僕は、ただ真面目に授業を受けていただけだ。他の生徒とのゲームでも、運動不足な僕だったからあんまり勝てなくて、だからこそ反感を勝ったのだろう。でもらたったそれだけで、と思わなくもない。どうして僕が、なんていつも思ってた。けど、実際そんなものだろう。いじめの原因なんて。
嫌がらせが始まったのはそれからだった。
持ち物を隠す、捨てる、恐喝される、殴られる。殴られるのはいつも服で隠れたお腹の辺りであったのがタチが悪い。そして彼は先生からの評判は良く、模範生徒のように振る舞っていたから、端から諦めていた。
そんなことを声高に叫べばさらに酷い目に遭うとわかっていた。だが、結局いじめはエスカレートしていったので、一度でもそうやって助けを求めていられたらよかったのかもしれない。
つまるところ、僕はこの時点で既に『行動』を選べなかったわけだ。
そしていつものように僕はいじめを受ける。今日は毎月第一月曜日恒例の『万引きデー』なるものだった。
「じゃあシノちゃーん、頑張ってみつからないようにしろよ!」
男である僕に『ちゃん』をつけて揶揄い、嫌な顔で嗤う奴に口答えひとつもできないまま、僕はいつものように店に入った。
防犯カメラがない場所は知っている。辺りを見渡すのは御法度。不審がられないように顔色も変えない。人の目のつかないところへ移動して、何気なく商品を手に取って、徐に衣服の下に隠そうとした、その時――。
「君、万引きはダメだよ」
その一言で、あり得ないほど血の気が引いた。考えていた万引きの手口が一瞬にして掻き消され、頭が真っ白になっていく。
――バレた。見つかった。
完全にやらかした。いつもならこの時間は人があまりいなくて、気をつけるのなんて店の人くらいで、その店の人はレジで座っているだけだから絶対にバレないだろうと高を括っていていたからだ。
どうしようもなくなって、なんかもう、どうでも良くなって、諦めて、商品を置いて振り返ると、そこに立っていたのは僕と同じ制服を来た、長い髪をポニーテールにまとめた見覚えのある女の子で。
「……ってあれ、中村なんとかくん……だっけ?」
――その日、僕は『彼女』と最悪の出会い方をした。
………………
「一応、自己紹介しておくね。私の名前は天川 葉月」
知っている。彼女はうちのクラスの委員長を務めている優等生だ。定期テストは常に上位、体育祭では陸上部を差し置いて女子短距離走で一位を独占した文武両道の才女。
部活は演劇部で一度だけ、文化祭の時に演技をしているのを見た。主役級の立ち回りで堂々としていて、僕には一生真似できないなと圧倒されたのを覚えている。彼奴以上に先生に好かれた、そんな少女だ。
無論知っているだけで話したことはない。当然だ。自分のようなスクールカースト下等生とトップクラス。
そもそも、『クラスメイト全員と友達! いっぱい友達をつくりましょう!』なんてのは小学生まで。中学生は小学校と同じ面子が集まりやすいからあまり変わらないが、高校なんて友達以外とはほとんど会話を交わさないのが常である。まあ、僕に友達はいないけど。
――だが、と僕は天川を一瞥する。
「それで、名前は?」
腕を組み、ジトリと睨む彼女。
天川がこんな無遠慮に話しかけてくる奴だとは思わなかった。とりあえず店の外で話そうと言われ、決定的な弱みを握られた僕に逆らうことはできず。
というかさっき僕の苗字呼んでいなかったか。なんだこれは、名前の確認でもして店に突き出すつもりなのか。どっちにしてもこの状況、詰んでいる。参りましたと言えば誰か助けてくれないかななんて訳の分からない現実逃避は無意味になのに、縋りたくもなるだろう。
「……中村 志乃」
そんな風に名前を答えるだけで精一杯だった。
名前は、コンプレックスだった。『志乃』なんて女の子みたいな名前、小学生のうちは随分と揶揄われて、今でもそれは変わっていなくて、名前を聞かれるたびに『へえ、珍しいね』『可愛いらしい名前だね』なんて言われるのが嫌だった。悪気がないのはわかっている。ただ、純粋にそう思った結果なんだろうけど、僕にとっては苦痛で仕方なくて。
「で、どうして万引きなんてことしてたの? お金ないの? それならしょうがないから払ってあげるけど」
だからこそ、名前に突っ込まなかった天川に内心驚いた。そんな動揺も相まって、ぶっきらぼうに返答を返す。
「……天川さんには関係ないよ」
「でもクラスメイトから犯罪者が出るのは忍びないし、こっちとしても止められたのにって夢見が悪くなっちゃうじゃん?」
「知らないよそんなこと。僕に構わないでくれない?」
もしこれが店の人だったら速攻で捕まって警察のお世話になっていたところだろう。ああ、そうなれば良かった。そうしたらこんな面倒にはならなかっただろうに。
「……とりあえず、僕帰るから。お店の人に話したきゃ話していいよ」
何か言おうとする天川を置いて、僕は居心地の悪さから逃げるように、その場から離れた。
通りを曲がるまで、視線がいつまでも突き刺さっていた。
次の日。
いつも通り放課後に、万引きが失敗したからという理由で、制裁という名の暴力を振るわれている真っ最中だった。因みに失敗しなくても殴られることに変わりはないが、回数が増える。
鳩尾をサンドバッグみたいに殴られ、思わず嘔吐しそうになる。床にもんどり打って転がってらその上から蹴られる。
なんで、僕はいつもこんな目に遭うんだろう。誰か変わってくれたらいいのに。毎日そんなことを考えると気分も滅入ってくる。家が恋しい。学校なんてクソ喰らえ。でも、臆病だから、不登校になんてなる勇気もないから学校に通うしかなかった。
――だが、この日だけはいつもとは違っていた。
「あーあ、見ちゃった」
確かに聞き覚えのある凛とした、僕とは正反対の声。
自信ありげに鳴り響く足音。
長い黒髪を一つにまとめた、勝気な少女が、まるで『ヒーロー』みたいに姿を現す。
――そこに居たのは、天川 葉月だった。
「なっ、アマカワさん……!?」
奴が予想外にたじろぐ。今までも人が近くに来ることはあったが、要領の良い彼は注意深く周りの警戒も怠らなかった。その結果ここずっと誰かにバレるようなことは怒らなかったのだが、今日は偶然、僕が万引きに失敗したのもあって調子に乗っていたのだろう。
鳩が豆鉄砲を食ったような間抜け顔は、ザアマミロと思うに十分だった。僕がそんな顔をさせたわけではないけど。
「いじめなんて、先生が知ったらどうなるかな。君、スポーツ推薦でこの学校に来たんでしょ? そうなると、ああ、部活まともにできなくて、退学かな?」
「い、いやぁ、違うんだよ。ちょっと遊んでただけさ。ねぇナカムラ君?」
――頷かなければどうなるかわかってるんだろうな。
言外に、そんなことを言っているような気がする。
ここで頷けば、これまで通りいじめられ続ける。だけどここでいじめられていたと発言したら、どうなるだろうか。
彼はそこでやめてくれるのだろうか。もう、僕は平穏に学校生活を送れるのだろうか。
「……」
――本当に?
もし、天川の言う通り彼が退学になったとしたら、彼は枷がなくなったことで逆上したりさらに酷い目に遭ったりするんじゃないだろうか。
そんな最悪の想像が脳裏を駆け巡る。無論、どれも悪い方向に考えているだけだ、極論だ、杞憂に過ぎない。でもどこかでそうなるんじゃないかと怯えている自分がいる。
「……」
「……俺は部活行くから。ナカムラ君、じゃあね」
結局、そうやって僕がうだうだとしている間に、彼は去っていった。部活のバッグを持って、そそくさと帰る彼。いつもよりも情けなく、小走りで駆けていく姿。
あんなに怖かったはずの存在が、こんな簡単に萎縮するなんて考えてもいなくて、もし先程『いじめられていた』と、そう言えたらどうだったんだろうかと思わずにはいられない。
でも、僕はそんな勇敢な選択肢は取れなくて。
「……天川さん。助けてくれて、ありがとう。でも……」
「大丈夫だよ、あの手の人は人に見られるのが怖いはずだから」
お礼を言う僕に、彼女は鼻を鳴らしながらそう言った。
これで奴が逆上したとするなら僕はもっと酷い目に遭うかもしれないという妄想は、冷静に分析する天川の見解は確かにその通りだろうと掻き消された。
確かに、いつも人気のないところでバレないようにこっそりとやっていた。僕がそれを先生にチクったとして僕のことを信じる先生はいなくても、彼女なら信じられるだろう。
だが、僕が言おうとした疑問はそれではない。それではなく。
「……どうして、君は僕を助けたの?」
そんな、素朴な疑問だった。
だっていくらクラスメイトとはいえ僕と天川がちゃんと会話をしたのは昨日の万引きの時だ。
それも万引きした理由すら碌に言わずに、逃げ帰った僕なんて印象が悪くて当たり前で、普通なら助けようなんざ思うわけもない。
それに、万引きとは違っていじめはもっと複雑で簡単に絡まりやすい。万引きは警察に引き渡せば終わりだが、いじめに警察は動いてくれないのだ。そんな中安易に首を突っ込めばどうなるかなど自明の理で――、
「理由なんて何も。――そうしたかったから、やっただけ」
だから、あっけらかんと言い放つ天川が心底理解できなかった。
「……は?」
「強いて言うなら見て見ぬふりは忍びないし、夢見も悪くなっちゃうから」
「……なんだよ、それ」
天川は、昨日と全く同じことを言う。
僕はそんな気まぐれに自分勝手に助けられたとでもいうのか。そんな簡単に、何でもないことのようにこの苦しみは終わる物だったのか。
なら、今まで悩んでいた僕は、一体なんだったのだ。
「……」
「弱々しくしてないで、自信持って生きれば、きっといじめられないよ。堂々としてればいいんだって」
随分と、残酷なことを言う。彼女みたいな人間には、きっと理解できないのだろう。僕みたいな弱い人間がいること。
「ま、私が君を助けたのはただの自己満足と無用なお節介と個人的な謝罪。昨日の万引き、いじめのせいだったんだね。ごめんね、勝手に決めつけちゃって。じゃ、私帰るから」
「……」
ひとしきり捲し立てたかと思えば、用は済んだと言わんばかりに彼女は背を向けて歩き出す。彼女の背中は、酷く眩しい。
僕は、床に座ったまんまで今も立ち上がれていないのに。
――同じ人間のはずなのに、どうしてこうも違うのだろうか。
「弱いって……。そうだよ。僕には真っ向から立ち向かうなんて土台無理な話なんだよ。僕は、君みたいに強くないんだ」
臆病だからと理由をつけて、下を向いてウジウジとする僕とは根本に違う。遺伝子から、細胞から違う生き物なのだと思わずにはいられない。そんな後ろ姿が憎くて、見たくもなくて、
「『自分の人生は自分が主人公である』」
「……へ?」
その時、今度は言葉そのものが理解不能な言葉が飛んできた。
呆気に取られて、思わず顔を上げる。
「我が演劇部の格言。人生なんて一度きりでしょ。私は私の人生を自分が主人公としてちゃんと生きたいの!」
振り返った彼女は、悪戯小僧みたいに笑って、こちらに歩み寄ってきた。
胡乱げに見る僕の目と、真っ直ぐな視線が交錯する。
「……それとこれ、何が関係あるの?」
僕が難色を示せば、
「私が好きな本は勧善懲悪ものなんだよね」
答えになってない答えが飛んでくる。
「知らないよ……」
何が才女だ。何が優等生だ。
ただの、変な女の子じゃないか。
けど確かに、物語なら彼女こそが主人公に相応しいと、そんなふうに思わされる破天荒さと天真爛漫さが、そこにはあって。
「羨ましいなあ」
呆れながらも僕はあの日、確かに憧れて、『主人公』に差し出された手を取った。
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