彷彿

 木製の扉を開けると、そこは雪国だった――そんなことはあるはずもなく、ごくごく小さな個人経営の飲食店だった。外見通り店内も相応に狭く、席も少数で十人も入れないのではないだろうかと思うくらいで僕以外の客はいない。人間でない彼は、勝手知ったる様子で店内をズンズンと進み、窓際の椅子に飛び乗った。窓が近いというのに日陰になっているその場所は、彼の定位置であるらしい。


「どうぞ、お好きな席へお座りくださいな」


 奥の厨房のようなところから聞こえてくるしわがれた声に戸惑ったが、なんとなく黒猫の向かいの席に腰を下ろした。椅子は思ったよりも柔らかく、ずんと沈む。動きたくなくなるような心地の良さに、送られてくる冷房の風が拍車をかける。外と比べればまるで天国のようだ。


「あら、学生さんね。この辺の高校かしら?」


「えっ、あ、……まぁ」


 不意な問いに虚をつかれ、歯切れの悪い返答を返す。一瞬、胸がドキッとしたが、向こうには知る由もないことだっただろう。

 厨房から出てきたのは、還暦はとうに超えているであろう白髪混じりの老婆。他の従業員が見掛けられないところから、穏やかな微笑を浮かべているこの老婆がこの店の主人であるらしい。

 彼女の様子を見て目の前に座る黒猫は僕に向かってよりも柔らかく、みゃあと鳴いた。


「あなたもいたのね。もしかして、あなたがお客さんを連れてきてくれたのかしら」


「この店の飼い猫なんですか?」


「いいえ、最近そこの商店街をナワバリにしている子でね。時々うちにもきてくれるのよ。たまに、こうやってお客さんを連れてきてくれるんだけど、今日はあなたを連れてきたのね」


 縁起の悪いはずの黒猫は、どうやらこの店ではリアル招き猫だということらしい。尤も、ちゃんと機能していれば客が一人だなんてことは起こらないだろうが、今日が特殊だっただけか。


 黒猫を撫でながら、ご注文は、と老婆は言った。


「……おすすめのもので」


「ええ、わかりました。飲み物はお冷やでいいかしら」


 頷くと、老婆は厨房に入っていく。さっきまで店には閑古鳥が鳴いていたのだし、きっと作り置きなどはしていないことだろう。少々待つことになりそうだが、温かい料理が食べられるのなら外に出た甲斐があるというもの。

 

「そういえば、猫を入れるなんて衛生面大丈夫なのかな」


 流石に手は洗っているだろうが、素朴な疑問が生まれる。そんなことは知らないさと猫は欠伸をした。


………………


「それで一応は夏休みだとはいえ、こんな日に制服で、って質問は野暮だったかしら」


 当店自慢のオムライスだという食べ物は、玉子のふんわりとした食感や、自家製のケチャップの酸味が素朴ながらも良い味を出していて、中にぎっしりと詰められたケチャップライスにも飽きることはなく、確かに美味しかった。


「んぐッ!? ゲホッゲホッ……!」


 最後の一口を食べ終え、氷の浮く水を口に含んだその最中に、僕が聞かれたくない質問ランキング上位の言葉をぶん投げられ、思わず咳き込んだ。危うく噴水が如く吹き出すところだった。


「大丈夫? 驚かす気はなかったの。失礼な質問だったらごめんなさいね」


 本当だよ、と吐いた悪態は表に出さず、何とか水で流し込むことに成功。答えたくないことを聞かれたとはいえ、このまま無視はいかがなものかとも思う。それでも僕は――。


「……店主さんのほうこそ、どうしてこんな日にお店を開いているんですか?」


 質問から逃げるように疑問を投げた。

 明日地球は終わるのだから、八月も終わりのこの夏休みという時期に、部活も夏期講習もない僕がわざわざ制服を着ているのも可笑しいが、そもそも店なんてやっている方が酔狂なことだ。最後の日くらい家でゴロゴロとしたいものだろう。誰も、最後の日に働きたくはないはず、それなのに。


 そんな思考が分かりきった質問に、老婆は目から鱗だとでもいうように驚いたような表情をする。まさか、無意識に開いていたのだろうか。社畜魂ここに極まれり、まあ会社ではないからそれも違うが、どちらにせよ働く精神は変わらないだろう。


「わたし? ……何となく、かしら」


「なんとなく?」


 やっぱりそうか、と思っていたのだが――、


「この店は主人が建てたものでねえ。四年前にぽっくりいかれちゃったけど、わたしが主人と結婚したのもこの店がきっかけだったから、やめるにやめられなくて。でも、そうね」


 困ったように笑って、でも嫌悪は一つもなく。

 少し悩んでからの老婆の顔は、今まで見たどの顔よりも一番穏やかな表情で。

 

「――やりたくて、やってるんですよ」



『そうしたかったから、やっただけ』



 瞬間、老婆に、制服姿の『君』が重なった。


「――っ」


 鼓動が跳ね上がる。息が止まり、呼吸という概念が僕の中から淘汰された。

 目の前は途端に色を失くし、全ての境目を曖昧に濁らせるセピア色の世界。そんな視界の中央に『君』の影が強く焼き付いている。『君』だけは、あまりにも色鮮やかに残っていた。

 

「私は最後までこの店を……どうかなされました?」


 そんな何時間も何日も続いていたような錯覚は、老婆の声で途端に終わりを告げる。


 瞬きする――世界に色が付く。

 肺を動かす――酸素が不足した体に、すんなりと入り込んでいった。

 心の臓は馬鹿みたいに高鳴っていたが、時期にそれも緩やかに戻っていくことだろう。


 きっとどれもこれも、たったの数秒程度に過ぎない、馬鹿げた妄想だ。


「い、え……。その、お代は?」


「いいえ、結構ですよ」


「え」


「もう終わるから、お金なんてもらっても意味ないわ」


 確かに道理だが、払わないのもなんだか悪い気がしてとりあえず千円札を机に置いて、足りますかと聞けば、律儀ねえと孫を見るみたいに微笑まれた。


「……ご馳走様でした」


「また来てね」


 『また』行く日はもうないが。

 会釈をして猫の前を通り過ぎる。猫は僕のことなんてどうでも良さそうに先程老婆からもらったミルクをぺろぺろと舐めていた。


「私はもう良い歳をしたお婆ちゃんだけど、まだ若いのに残念だわ」


 扉を閉める直前、そんな言葉が僕の心を確実に射抜いて、根深く残り続けた。

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