第22話 遺灰
フローレンスは嘘をついた。まだ少しは〈灯火〉が使えるのは本当だったが、身を守るには不十分だった。生きて大聖堂から出るつもりはあるものの、その手段はまだ考えていなかった。
ユスティアには確実に怒られるだろう、とフローレンスは思った。今はそれすらも楽しみな気がした。もしかしたら、泣かせてしまうかも知れない。それは申し訳ないし、きちんと謝ろう、と彼女は考えていた。
炎と煙をかき分けていくと、今もなお白い焔に燃やされるザイドが倒れていた。フローレンスは彼に手を触れて、〈灯火〉を消した。もう十分だった。彼は身体の末端から灰になり始めていて、万に一つも生き延びる見込みはなかった。
『何を……している……』
ザイドが目を開けた。
「少し、話がしたくて」
フローレンスは床に腰を下ろし、ザイドの身体を背もたれにした。
『話すことなどない。ここに留まれば、お前は死ぬ。もう、消えてくれ』
「あなたは、どうしてわたしを気にかけるようなことを言うの? あなたが死にかけているのがこんなに悲しいのは、どうして?」
彼女は胸が潰れるような悲しみを味わっていた。かつて誰を亡くしたときとも比べものにならない、深い悲しみだった。
『お前のことは知らないが、俺の話はできる。それを聞いたら、避難してくれるか?』
フローレンスはうなずいた。
ザイドは過去を懐かしむように目を細めた。
『お前を見ていると、ルシルを思い出す。お前と彼女は少しも似ていないというのに、おかしなものだ』
「もしかして、そのルシルという人が初代の聖女?」
『そうだ』
人の歴史にその名を留めない初代聖女のことを、魔物であるザイドが知っているというのは、不思議と自然なことに思えた。
『俺は彼女を愛していた。ルシルの方も、俺を愛してくれていたと思う』
ルシルのことを語るザイドの声には、彼女への愛おしさが溢れていた。
『最初、俺たちは敵として出会った。当然、殺し合いになった。彼女は常軌を逸した強さで、俺たちは長い間、戦い続けた。長く戦っている相手のことは、次第に理解できるようになるものだ。俺は彼女の孤独を知った。彼女の方も、俺の何かに気づいたんだろう。俺たちは互いへの攻撃をやめて、話をした。
俺はルシルに頼んで力を封じてもらい、彼女と共に生きることを選んだ。それからのことは、俺とルシルだけのものだ。誰にも話すことはない。……あの頃は幸せだった。だが、それは終わった』
ルシルは火刑に処されたのだと、フローレンスは知っていた。ザイドはそれを口にするのも嫌なのか、しばらく言葉が途切れた。
『卑しい人間どもがルシルを死に追いやった。俺は復讐を誓い、この数百年を生きてきた。その執念が、お前を見ていると何となくルシルのことが思い浮かぶ、というだけで鈍る。自分でも信じ難いことだ』
炎の勢いに骨組みまで破壊されて、大聖堂は崩壊を始めていた。火災は一層の激しさで燃え盛り、どこにも逃げ道はなかった。
『逃げるんだ、フローレンス。お前はルシルのようにならないでくれ。――生きてくれ。頼むから』
ザイドは哀願していた。
「わたしを殺そうとした人の言うこと?」
『ここで死ぬつもりなのか』
「いいえ。ただ、どうやって外に出るか考えていなかっただけよ。今となっては、どんな手段も無意味でしょうけれど。こうなるかも知れないことは、覚悟していたわ」
『馬鹿なのか。退路がないことを承知でこんな場所に留まるな』
フローレンスは天井を見上げた。そこにあったはずの天井画は、焼け焦げて原形を留めていなかった。
「ザイド。あなたは、わたしが死んだら悲しい?」
『……ああ』
ザイドはフローレンスを庇うように、翼を広げて彼女の身体を覆った。しかし、その翼の半分近くは、既に灰になって失われていた。彼女は翼に手を触れた。
「痛みはあるの?」
『ない。お前が無用な苦痛を与えることを望まないからだろう。これは、その返礼ということにしておいてくれ』
「ありがとう、ザイド」
ザイドの翼の下で、フローレンスは目を閉じた。彼はもう、息絶えていた。その身体は瞬く間に灰になって崩れ去っていた。それでも、翼は残っていた。フローレンスはザイドだった灰の山にもたれて、大聖堂が崩壊する轟音を聞いていた。
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