第20話 魔物の王
おぞましい光景を見せられてもフローレンスは顔をしかめただけだったが、彼女の内心は凍てつくように冷え冷えとしたもので満たされていた。
「これも予定していたことです」
アリスの心臓から血が滴る様子を眺めながら、クロードが言った。
「何を考えているの?」
「私の愛しいアリスには、色々と使い道があります。これはそのうちの一つ。さあ、受け取りなさい。生肉は嫌いなどという言い訳は結構です」
背後から足音が聞こえたが、フローレンスはクロードから視線をそらすことができなかった。その人物は彼女の横を通って、クロードの下へ行った。黒衣をまとった長身の男。彼はザイドだった。
「もう少し穏当な方法もあったと思うが」
「私としては、この方が好都合です。それとも、私のアリスを気にかける理由でもありましたか、ザイド?」
「ないな。好きにすればいい」
「では、こちらを」
クロードはザイドにアリスの心臓を手渡し、アリスの亡骸を抱き上げた。
「それではみなさま、ごきげんよう」
一礼したクロードは眩しい笑顔を見せた。彼の足下から暗闇が湧き上がり、その姿が見えなくなった。闇が晴れると、クロードとアリスは消えていた。
「ザイド」
フローレンスが呼びかけると、ザイドは彼女の方を向いた。
「ここで何をしているの?」
「個人的な事情から、あの男と取り引きをした。俺の目的は果たされそうだが、あいつの方は少しばかり計画が狂ったらしい。その場合の後始末は俺がする契約だ。悪く思わないでくれ、フローレンス」
ザイドはアリスの心臓を自らの口に押し込んだ。彼は咀嚼する様子もなく、それを呑み込んだ。彼は顔をしかめた。
「調理されていたとしても、人体など食べたくはなかった。そんなことをするのは、理性のない愚かな魔物と同じだ」
「嫌ならやらなければよかったのに」
「仕方なかった。俺が力を取り戻すには、〈神世の灯火〉を体内に取り込む必要があった。その発生の基点となる心臓を口にするというのは、確かに効率的な方法だ」
ザイドの全身から、粘りつくような黒い炎が溢れ出した。〈黒夜〉は彼を薪として燃え盛り、大聖堂の天井すら焦がしていた。やがて、炎の中から巨大な黒竜が姿を現した。
『こういうことだ。俺は〈黄昏の竜王〉の系譜を継ぐ魔物の王。お前たちの言うところの初代聖女によって力を封じられ、人類への報復を誓った復讐者だ』
復讐を口にするザイドからは、不思議なほどの悲しみが感じられた。フローレンスは彼の顔を見上げた。ザイドは大聖堂の半分ほどの背丈になっていた。
「あなたの中で〈黒夜〉を相殺していた初代聖女の〈灯火〉を消したのね。均衡を崩すことで〈黒夜〉が燃え立った。でも、どうして、そのことを悲しんでいるの?」
『見抜かれたからといって、教えるつもりはない。お前が間もなく死ぬとしても、それは変わらない』
「そう。あなたがわたしを灰にするの」
『いずれ全ての人間が後を追う。お前にとって不幸中の幸いは、その光景を目にせずに済むことだ』
フローレンスは周りの人々を見た。恐怖に震えるロゼ。彼女を連れて大聖堂から避難しようとしているリリア。気圧されながらもザイドを睨むミカエラとレッド。気を失ったままのレイフォードと、彼を守るように立つアーカム。そして、隣にいるユスティア。
「そんなことをわたしが許すと思う?」
『お前を苦しめたくない。抵抗しなければ、できるだけ楽に済ませてやれる』
「人間の姿に戻って、今までのように暮らすつもりはないの」
『言っただろう。俺はお前たちに復讐しなければならない』
「それなら、ここであなたを止めるしかない」
フローレンスはユスティアを見た。
「力を貸して」
「ええ、もちろん」
『戦いか。この姿になるのは久しぶりだからな。肩慣らしにはちょうどいいか。いつでもかかってくるといい』
ザイドは悠然と構え、自ら仕掛けるつもりはないようだった。
「甘く見られたものだ」
そう言うと、レッドが駆け出した。彼の手には、錬金術によって即席で作ったものと思しい無骨な大剣が握られていた。剣は輪郭から崩れ始めていて、それが彼の術師としての技量を示していた。
レッドは跳躍した。ミカエラの風魔術による加速を受けて、彼はザイドの長い首へと突っ込み、大剣を振り抜いた。その一太刀で剣は折れ、ザイドの鱗が断ち割れたが、傷は浅かった。彼は長い尾を振り上げて、空中にいたレッドを弾き飛ばした。
『俺は敵対した相手の戦力を適切に量っているつもりだ。お前が相当の強者であることは認めている。例えば、剣士として戦うのなら、お前には敵わない』
レッドは壁に叩きつけられ、かなりの高さを落下した。壁の一部が崩れて彼の上に落ちていき、レッドの姿は見えなくなった。
ミカエラが駆け寄ってきた。
「風魔術で〈神世の灯火〉を拡散させる。少しでも当てられれば、効果はあるはずだ」
「わたしが直接やった方が――」
「君が倒れれば勝ち目はない。力の配分に気をつけてくれ。ユスティア、陽動を頼む」
「分かりました」
ユスティアは中身のない甲冑、〈虚空の騎士〉を呼び出した。〈騎士〉は剣を構えて、駆け出した。
フローレンスは〈灯火〉の白い焔を灯し、ミカエラが渦を巻くように操る風の流れに乗せた。焔は風にあおられて火勢を増し、嵐のようにザイドへと殺到した。
〈騎士〉はザイドの脚に斬りつけようとしたが、振り下ろされた爪によって防がれていた。彼は翼を広げると、羽ばたくこともなく宙に浮いた。〈騎士〉に向かって黒炎を吐き、飛び退いてかわす様子を見届けて、間近に迫る白い焔の嵐に目を向けた。
ザイドの目が赤く光り、彼の前面に灼熱に燃え立つ炎の壁が出現した。白い焔はその壁に阻まれて散り散りになった。
『お返しだ』
ザイドが片腕を振り上げると、その手元に〈黒夜〉の黒い炎が集まり、巨大な槍を形成していった。彼は腕を振り下ろし、槍を投げつけた。
ミカエラが守護術で障壁を張り、フローレンスは〈灯火〉でそれを補強した。力の配分など考えていられなかった。あの槍を防がなければ、確実に全滅してしまう。
槍が障壁に衝突したが、両者の力は拮抗していた。このまま勢いを殺し続ければ、とフローレンスが思っていると、ミカエラが悲鳴を上げて卒倒した。障壁は消え、いくらか威力が落ちたように見えるものの、なおも十分に剣呑な槍が突っ込んできた。
フローレンスは〈灯火〉で守りを固めようとしたが、腕が痛み、思うように〈灯火〉を出すことができなかった。それで彼女は、ミカエラが倒れた原因に気がついた。ザイドの槍には触れたものを蝕む強力な呪詛が塗り込められていた。〈灯火〉のおかげでフローレンスにはそれほどの影響はなかったものの、解呪には少し時間が必要だった。
ユスティアが〈騎士〉を引き戻そうとしていたが、間に合いそうになかった。彼女が今から何を召喚しようとしたところで、それより早く槍に潰されそうだった。
「伏せて」
という叫び声とともに、アーカムが走り出た。彼女は〈黒夜〉の黒い炎をまとわせた剣の切っ先で、巨大な槍の穂先を突いた。両者の〈黒夜〉は互いに激しく食らい合い、消滅していった。
『〈アーカム〉の名を騙るだけのことはある、ということか。面白い』
ザイドは膝をついたアーカムを興味深そうに見下ろしていた。
自身にかけられた呪詛を素早く解き終えたフローレンスは、倒れたまま動く様子のないミカエラに駆け寄った。彼女を〈灯火〉で包み込み、呪詛を焼いた。
「私が時間を稼ぐ」
そう言って、ユスティアはザイドの方へ踏み出した。
大怪我を負ったレッドが、近くまで這ってきていた。彼は立ち上がることもできないようだった。アーカムが彼の様子を確認した。
「俺は……まだ戦える……。治療を……」
レッドは呻き、血を吐いた。起き上がろうとする彼をアーカムが押さえつけた。
「おそらく、折れた肋骨が肺に刺さっている。治療したからといって、すぐに戦うのは無理だ。ここは私に任せて、ガブリエル猊下をお連れしろ」
「お前こそ、レイフォードのことはいいのか。あいつを連れて逃げておけ。猊下のことも、お前に頼む」
レッドは弱々しく、途切れ途切れに喋ることしかできないようだったが、その声からは未だに折れることのない意志の強さが感じられた。
ミカエラの容体が安定したことを確認して、フローレンスはレッドとアーカムの方へ移った。レッドは白い焔に包まれた。焔が消えると、彼は早速立ち上がったが、苦しそうに荒く呼吸していた。
「アーカムさんの言う通りです、レッドさん。あなたがすぐに戦いに戻るのは、あまりにも危険です。ミカエラを連れて逃げてください」
彼としても、認めざるを得ないようだった。
「……分かりました」
「あなたもです、アーカムさん。既に限界が近いはずです。〈黒夜〉を使い過ぎればどうなるか、分かっていますよね」
「自らの炎に焼き尽くされる。そんなことになるのは、加減を考えられない馬鹿な魔物だけです」
「あなたはレイフォード教会長の生を望み、わたしはできる限りのことをすると約束しました。このまま倒れていると、彼はザイドの攻撃に巻き込まれて命を落とします。わたしに約束を破らせないでください」
「……必ず戻りますから、それまで生きていてください。約束ですよ」
「ええ、きっと」
フローレンスは、たった一人でザイドに立ち向かうユスティアの隣へと歩み寄った。
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