第13話 枢機卿の思惑

 ここを過ぎればどうやっても引き返すことはできない、とアーカムは自らに言い聞かせた。彼らは裏切り者を許しはしない。

「聖女の遺灰、というものをご存じですか」

「特別な意味のあるものとしては聞いたことがありません」

「歴史の闇に葬られた出来事の一つです。数百年前、初代聖女は火刑によって命を落としました。後に教会はその事実を消し去ることに決め、名前すら記録から抹消していき、初代聖女については曖昧な伝説だけが残りました」

「なぜ火刑に?」

「魔物の傷を癒した咎によるもののようです。ちょうど、今のあなたと同じように」


 話を聞くフローレンスは伏し目がちになり、何かを考えているようだった。

「はっきりしない記録ですが、火刑によって初代聖女の身体は瞬く間に灰になり、骨の欠片も残らなかったそうです。灰は風に巻かれて散り散りになり、それからしばらくの間、各地で奇跡としか言いようのない出来事がいくつも報告されました。瀕死の病人が健康になった、不毛の土地に作物が実った、凶暴な魔物の群れが姿を消した――」

「初代聖女の遺灰と関係があるとは思えません」

「ええ。今挙げた事例では関連性は計れません。同じように考えた者は当時もいて、わずかに回収されていた遺灰を用いて実験したようです。灰を溶かした水を傷口に塗ると白い焔が燃えて、傷は消えてなくなったそうです」

「遺灰に〈神世の灯火〉が残留して……?」

「それからの経緯は判然としませんが、回収できた限りの遺灰は王族の手に渡ったらしく、教会の者には手出しできなくなりました。その数年後から、初代聖女だけの特別な力だと思われていた〈灯火〉を持つ者が現れるようになり、教会は彼女たちを新たな聖女として祭り上げるようになりました。

 ちなみにですが、初代以外の聖女の遺灰にも同じような力があるのかは確認されていません。そんなことを試すのは非人道的だというのもありますが、初代の火刑の記録を抹消しようとしているときに、それを思い起こさせるようなことはできなかったのでしょう。今となっては、一部の枢機卿だけが知る話です」

フローレンスが溜め息をついた。

「わたしを燃やしても、そんな都合のいいものはできませんよ」

「ヴェインは試す価値があると考えています。あなたの〈灯火〉はかなり強力です。ほかの資質が欠けているせいで十全には扱えていないでしょうが、それでも昨今のほかの聖女とは比べものになりません」


 フローレンスに射抜くような目で見つめられ、アーカムは身を固くした。表情に変化はなく、何を考えているのかは分からなかったが、背筋に冷たいものが伝うのを感じた。

「ヴェイン猊下の思惑は分かりました。レイフォード教会長がそれに加担していることも。ですが、わたしが聞きたいのはあなたの目的です、アーカムさん」

「……レイフォードは私の養父です。まあ、養父のようなものと言った方が正確かも知れませんが」

アーカムは訥々と語った。

「私は孤児でした。当てもなく街をさまよっていました。バートラム領ではありません。ここは福祉がしっかりしていますから。それで、あるとき偶然、レイフォードに出会いました。私には少し特殊な力があって、彼は利用価値があると考え、私を連れていきました。彼は真っ当な生活をさせてくれました。利用価値云々は本人から聞かされ、私も命じられれば従うことに同意しましたが、今のところ命令を受けたことはありません」


「特殊な力とは何ですか」

「私は人間ですが、〈黒夜〉が扱えます。言ってしまえば、魔物の仕業に見せかけて人を殺したりできる訳です。レイフォードの想定していた利用方法か分かりませんが、似たようなことを考えたのだと思います」

 アーカムの眼前に白い焔が現れた。

「確認させてください。本当に〈黒夜〉なら、相殺できるはずです」

彼女は指先から粘りのある黒い炎を垂らした。白と黒の光が互いに打ち消し合った。

「不気味だと思いませんか。魔物にしかないはずの力があるなんて」

「思いません。わたしにとって〈黒夜〉は恐れるものではなく、立ち向かわなければならないものです。あなたがそれを悪事に使うのなら、力ずくでも止めます」

「……ああ、あなたは本当に、本物の聖女なんですね。このことを知っても私を怖がらない人がいるとは、思ってもみませんでした」

「教会長は違うんですか?」

アーカムは苦笑いを浮かべた。

「どうでしょう。利用できると言って人の悪い笑みを浮かべていましたが、頬が引きつっていましたから。宿舎で私の部屋の周りが全て空室なのも彼の判断ですし。ただ、それがどうだったとしても、私にとって彼は恩人なんです」


 アーカムはフローレンスに頭を下げた。

「異端審問までに、あなたはきっと助け出されます。そして、ヴェインもレイフォードも、裁きを受けることになるでしょう。どうか、お願いです。養父の命だけは助けてください」

「わたしに決められることではありません」

「あなたの口添えがあれば、結果はかなり変わるはずです。養父は傲慢で打算的で、決して善良な人物ではありませんが、死罪になるほどの悪事を働いたことはありません。競争相手を蹴落とすために手を回したことはあっても、直接的な危害を加えることまではしていません」

「先代の辺境伯とは険悪な間柄で、警備兵隊への協力も拒んだそうですが」

フローレンスの口調は冷たかった。

「それは、その通りですが……」

このことについて、アーカムには反論の余地がなかった。半分ほどは事実のため、金目当てと言われても仕方がなかった。救いの手は、なぜかフローレンスから差し出された。

「慈善活動にも費用はかかるものです。教会の運営に金銭が必要なことは否定できませんから、実態を知らずに糾弾するものではありませんね。それに、教会長はルークさんを故意に見逃していた。違いますか」

「その通りです。彼が辺境伯側に加担していることを承知で、旧礼拝堂をそのままにしています」

 アーカムはフローレンスの表情をうかがった。根底にある目的が人々の支持を得ることだったとしても、レイフォードが行った善行と言えることは色々あった。とはいえ、それを並べ立てるだけでは、フローレンスの心を動かすことはできそうになかった。

「では、今回の異端審問のことは? ヴェイン猊下の指示だとしても、教会長はわたしを殺すことに賛同しているんですよね」

 ヴェインに目をかけられるようになって以来、レイフォードは少し変わったような気がしていたが、人に話すほどの確信はなかった。以前の彼なら人の命を奪う選択などしなかった、とアーカムは思いたかったが、それも確かなことではなかった。

「ヴェインやアリスの言うことを真に受けて、あなたが大罪人だと信じているんです。あなたを火刑にしたい人物やあなたの存在が気に入らない人物、とはいえレイフォードに利益をもたらし得る人物から、偏った言い分ばかり聞かされたせいです。私が必ず、あの馬鹿の目を覚まさせます」

「分かりました。あなたにそれができたなら、わたしもできるだけのことをします」


 フローレンスは食べかけのサンドイッチを手に取り、残りを食べ始めた。アーカムは自分用のカップを用意してお茶を飲んだ。

「ところで」

食事を終えたフローレンスが言った。

「わたしの遺灰が初代聖女と同じように変わった代物だったとして、それを手に入れたヴェイン猊下は何をするつもりなんでしょうか」

「そこまでは分かりません。レイフォードにも何も教えていないようです。奇跡の力が目当てなのだと考えるのが自然ですが、それなら回りくどいことをせずに、あなたに〈神世の灯火〉を使ってもらえば済むことですから」

「遺灰だけの特別な何かがあるのか、命じたとしても誰もが拒否するようなことに使うつもりなのか、といったところでしょうか」

「心当たりが?」

「例えば、死者をよみがえらせるように言われても、わたしにはできません。試してみようとも思いません。燃やし尽くして灰にしてしまうだけだと分かっていますから」


 アーカムはフローレンスの瞳が微かに揺らいだことに気づいた。

「人を生き返らせる力があればよかったと思いますか?」

彼女が問うと、フローレンスは目を伏せた。

「わたしには、それを望むことは許されません。許されてはならないんです」

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