第11話 堕落

 フローレンスは大聖堂を見上げた。方々に灯された光で夜の闇に浮かび上がるそれは、精緻な装飾を施された天にも届かんばかりの荘厳な建築物だった。間近で見るのは初めてだったが、教会の標準的な様式に即した作りであり、見慣れたもののように感じられた。

 アーカムの先導で、フローレンスとユスティアは大聖堂に併設された建物に向かった。主だった執務はそちらで行われるため、教会長もそこにいるのだと思われた。


 フローレンスはバートラム領の教会長に会ったことがなかった。名前だけは聞いたことがあったが、知っていることはほとんどなかった。

「アーカムさん。レイフォード教会長はどのような人ですか?」

屋内を歩きながら、フローレンスは尋ねた。遅い時間のためか、人の姿はあまり見かけなかった。

「名前はご存じでしたか。そうですね、一言で言えば、常に高みを目指している、といったところでしょうか。誤魔化さずに言えば、出世欲や権力欲が強いということで」

言い終わると、何がおかしいのか、アーカムは失笑した。

「堂々と悪口を言えるくらい、あなたとは気安い間柄、と」

 アーカムは真顔に戻った。

「やめてください。違います。……もう一つお伝えすると、彼は枢機卿のヴェイン猊下と懇意です」

そう言われても、フローレンスはミカエラ以外の枢機卿のことは全くと言っていいほど知らなかった。次いで、アーカムはユスティアに話を向けた。

「私よりも、ローレンさんから聞いた方がいいでしょう」

フローレンスが視線を向けると、ユスティアは顔をしかめた。

「私から言うことはないわ。まあ、それでも一つ言っておくなら、先代のバートラム卿とレイフォード教会長は険悪な対立状態だったわ。リリア様は関係改善の道を模索しているけれど、容易なことではなさそうよ」


 アーカムがドアの前で立ち止まった。

「こちらがレイフォード教会長の執務室です」

彼女はドアを叩いた。

「誰だ」

「アーカムです。お連れしました」

「入れ」

室内に入ると、フローレンスは三人の人物と対面した。

 テーブルを挟んで厳めしい壮年男性と美しい少女が向かい合わせに座っていた。少女の傍らには整った顔立ちの細身の男が立っていた。

「アーカム。フローレンス・オリヴィアだけを連れてくるように言ったはずだ。余計な同行者を許すなと、そう命じたはずだが」

壮年男性が言った。彼が教会長のレイフォードのようだった。

「ご存じでしょう。ユスティア・ローレン。バートラム卿の手の者です。そう簡単には追い払えませんよ。まあ、この場にアリス様もいらっしゃると分かっていれば、もう少し努力しましたが」

少女はアリスというらしい。フローレンスは、以前にその名前を聞いたことがあるのを思い出した。おそらく、アリス・ベスターで間違いないだろう。新興貴族ベスター男爵の息女にして、バートラム領の教会に配置された聖女だった。

「レイフォード様。よろしければ、私が対応しましょうか」

細身の男が言った。

「いいや、クロード君。それには及ばない」


 レイフォードが立ち上がり、フローレンスの前にやって来た。アーカムは壁際に寄っていった。

「さて、元聖女。なぜ呼ばれたか、分かっているな?」

「いいえ。教会長ほどの地位にある方が一介の事務員に何のご用でしょう」

「分からないはずがないわ。もっと厳しく糾弾するべきよ。ねえ、違うかしら、レイフォード?」

アリスが言った。呼び捨てにされたレイフォードは顔をしかめたが、すぐにその表情を消した。

「当地には既に聖女、アリス様がいらっしゃる。肩書きを剥奪された者が真似事をしてはならない」


 ここ数日、フローレンスはルークを手伝って、怪我人や病人の治療をしていた。ルークを頼って古い礼拝堂を訪れる者は少なからずいて、彼は不平を言いながらも全員を受け入れていた。フローレンスは普通の治癒術しか使わないようにしていたため、それを聖女の真似事として糾弾されるとは思いも寄らなかった。

「〈神世の灯火〉は使っていません。治癒術なら問題ないと思いますが?」

「ならば、旧礼拝堂に行けば本物の聖女に会えるなどという噂が市井に流れているのは、なぜだ?」

「知りません」

 フローレンスの素っ気ない物言いに、レイフォードは気分を害したようだった。彼は額に青筋を浮かべたが、口調には抑制が効いていた。

「では、はっきり言っておこう。お前はこの地で、一介の事務員に相応しい活動以上のことをしてはならない。元とはいえ聖女だ。お前が出過ぎた真似をすることは、当地の聖女であるアリス様を蔑ろにすることにほかならない」

「そうですか。では、勤務時間外なら自由にして構いませんね?」

「ふざけているのか?」

「いいえ」


「噂通りのようね、フローレンス・オリヴィア」

 アリスが険しい表情でフローレンスを見ていた。彼女は苛立ちのにじむ声音で喋り続けた。

「他人を見下した態度の、言動に問題のある聖女がいるという話を聞いたことがあるわ。あまり酷い振る舞いを見せられると、気分が悪くなりそう」

「それはお気の毒に。吐き気や胸やけなら、治療できますよ?」

「平民の分際でこの私を愚弄して、許されるとでも?」

「アリス様、そのくらいで」

クロードがアリスを制止した。

「下々の者と口論などしては、あなたの品位が下がります」

「付き人風情が私に指図を……」


 アリスが静かになるのを待って、レイフォードが口を開いた。

「別の問題についても指摘しておく。辺境伯が教会に属する者を囲い込んでいる現状には由々しき問題がある」

「先代のバートラム卿の恩人であるが故です。人の情を否定するおつもりですか」

ユスティアが声を上げた。リリアが巻き込まれたことが、彼女の気に障ったようだった。

「では、先ほど警備兵隊に手を貸していたのは、なぜだ? 辺境伯は恩人を働かせるのか」

「突発的な事態だったことに加えて、教会には協力を拒まれていますから」

「まともな謝礼を提示しないからだ。我々は貧者に施す。当然の務めだ。しかし、富める者からは援助を求めたいものだ」

「リリア様は教会のために様々な便宜を図ってきました。中心街に大聖堂を建てられたのはそのおかげでしょう。今でも、少なくない寄付を続けています。そもそも、人々を守るために協力を求めているのです。そこへ来て、さらに金を出せと?」

ユスティアの口調からは、並々ならぬ怒りが感じられた。

「アーカム、その女を追い出せ」

 アーカムがユスティアの腕を掴んだ。彼女は抵抗しようとしていたが、力ではアーカムに敵わないようだった。フローレンスは声をかけた。

「ユスティア。言われた通りにして」

「ここで追い出されたら、何のために付いてきたのか分からないじゃない」

「大丈夫。わたしは平気だから」

ユスティアはアーカムに連れられて退出した。


 フローレンスは連れ出されるユスティアの恨みがましい表情を反すうした。どうせまた、フローレンスが自分自身のことを蔑ろにしているといって、怒っているのだろう。彼女にはユスティアの怒りが理解できなかった。

「邪魔者はいなくなった。では、本題に入ろう」

レイフォードの言葉に、フローレンスはいくらか困惑した。

「先ほどまでの話は?」

「あれは前置きだ。お前の行動が目に余るというだけでは、実際のところ我々にできることなどほとんどない。しかし、お前は自分の立場をもう少し理解しておくべきだった。聖女の肩書きを剥奪されてなお自由の身でいられるのは、ガブリエル猊下が強硬にお前を庇ったからだ」

「評議会で話し合われた内容は、十二人の枢機卿でなければ知り得ないはずです。ヴェイン猊下から聞かされましたか?」

レイフォードは眉をひそめた。

「アーカムが余計なことを言ったようだな。だが、知っているなら伏せることもない。ヴェイン猊下は、お前を断罪するべきだとお考えだ」

 断罪と言われても、フローレンスは全く動じなかった。

「度が過ぎるでしょう」

「私とて、それは否定しない。だが、今後の状況次第では一考の余地があるものとされた」

レイフォードは口の端を歪めて、残酷な笑みを浮かべた。

「お前は魔物を治療した。よりにもよって、〈神世の灯火〉を用いて。それがどれほど罪深いことか、分からないとは言わないだろう。言い訳しても手遅れだ」

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