第9話 癒しの手

 ユスティアは飛竜を送還した。飛行速度に優れる〈疾風号〉だったが、彼女は戦いにおいて随一の強さを誇る訳ではない。あのままホロウと争い始めれば、悲惨な事態になっていたかも知れなかった。代わりに、〈虚空の騎士〉を呼び出した。それは古びた甲冑で、着用者がいないにもかかわらず、ひとりでに動くのだった。

 大まかな状況は、レッドから聞いていた。人間との争いを避けてきたホロウが積極的に攻撃してくる理由を知って、彼女は吐き気を感じていた。


「できれば殺さずに済ませたい」

 レッドの言葉に、ユスティアは賛同した。

「ええ。子どもはまだ生きているんですよね。治療できれば、あるいは……」

「部下に連れて来させるところだ。毒を盛られているようだが、聖女様ならどうにかできるかも知れない。おそらくだが、あの小娘とは比べものにならない力をお持ちだろう」

 レッドの言う小娘とは、以前からバートラム領の教会に配置されている聖女、アリス・ベスターのことだった。聖女である以上、アリスにも〈灯火〉を扱うことはできたが、小さな傷を治すことくらいしかできなかった。

 教会長はアリスの能力の低さを隠すことは難しいと考えているのか、弱くとも奇跡の力であることに変わりはなく、人々の助けになることに支障はないと主張している。本当にその志があればよかったが、かつて警備兵隊の負傷者の治療への協力を断られて以来、辺境伯側の人間の多くは不信感を抱いていた。


 ホロウが唸り声を発し、〈黒夜〉の黒い炎を口から零し始めた。〈騎士〉なら十分に抑えられるはずだと思い、ユスティアは指示を出そうとした。そのとき、フローレンスが隣にやって来た。

「子どもの様子はどうですか?」

「外傷は問題なさそうですが、毒については、まだ何とも言えません。〈灯火〉は魔物にとって有害なので、治療に使うのは慎重になる必要があります」

「いつ次の攻撃が来るか、という状況での治療は避けた方がいいということですか」

「そうです。解毒の治癒術を施しましたが、わたしの技量ではあまり効果がないかも知れません。ユスティアさんはいかがです?」

「致死性の毒を治療するのは無理です」

 二人は会話しながらも、ホロウから視線を外していなかった。ホロウが黒い火球を放ち、レッドと〈騎士〉が踏み出して、剣でそれを切り裂こうとした。ところが、割り込むように出現した白い焔の壁が火球を受け止めてしまった。

「ユスティアさん。それと、レッドさんでしたか。ここはわたしに任せてください」


 ユスティアは〈騎士〉を下がらせた。レッドに目配せすると、彼も同じように後ろに下がった。

 フローレンスの周囲には白い燐光が揺らめき、ホロウはそれらを警戒するように睨んでいた。彼女はゆったりした足取りでホロウに近づき始めた。

「言葉は通じますね? わたしはフローレンスといいます。あなたの子の治療をさせてください」

『聖女に我が子を預けられるものか』

「大丈夫です。燃やしたりしません」

『魔に属するものにとって、〈神世の灯火〉は浄化と称した火刑にほかならない』

 ユスティアからはフローレンスの表情は見えなかったが、彼女が溜め息をつくような動きをしたのは目に入った。

「信じてほしいとは言いません。時間がないので、力ずくで動けなくします」

『その前にお前を殺す』

 ホロウが牙を剥き出しにして飛びかかったが、フローレンスを取り巻く燐光に阻まれていた。燐光はホロウの身体に燃え移ると、白い焔となって魔物を焼いた。ホロウは苦痛に呻いたが、深手を負った様子はなかった。

 フローレンスは自らの眼前に右手をかざした。赤く光る粒子が彼女の手元に収束し、滴る血のように赤黒い短槍を形成した。その短槍には、誰の目にも明らかな禍々しさがあった。

「聖女が、闇魔術を……?」

レッドの口から、驚がくしたような呟きが漏れていた。彼の驚きは、ユスティアにも理解できた。ほとんどの魔術は、相応の修練を積めば誰でも扱うことが可能であり、フローレンスもそれは例外ではない。とはいえ、よりにもよって聖女が闇魔術とは。


 フローレンスは短槍を生成し続けた。その数が十本を超えたところで、彼女はかざしていた右手を握り、人差し指をすっと伸ばして、ホロウを指した。短槍はひとりでに動き、ホロウに向かって殺到した。

 ホロウは軽やかに身をかわしたが、地面にぶつかっても土煙を上げながらそれを破壊して再び襲い来る十数本の短槍の前に、いつまでも無事ではいられなかった。一本、また一本と短槍がホロウの身体に突き刺さり、四本の脚を貫いてその身体を地面に縫い留めた。

 ホロウは拘束から逃れようともがいていたが、無駄なようだった。

「大人しくしていれば、大事には至りません」

そう言うと、フローレンスはホロウに背を向けた。彼女はユスティアとレッドの間を通り抜けて、ホロウの子どもの下へ向かった。子どもはすぐ近くまで運ばれていた。


 ユスティアはフローレンスの方を気にしながらも、ホロウに警戒を向けていた。

「あの子の名前は?」

『……ゲルダだ』

身動きを封じられて観念したのか、ホロウは弱々しく答えた。

『虫がいいことは分かっているが、頼む。できると言うのなら、ゲルダを助けてくれ』


 ゲルダは目を閉じ、浅く呼吸していた。フローレンスはゲルダに手を伸ばし、指先で軽く触れた。しばらく何も起こらなかったが、突如、ゲルダの身体が白い焔に包まれた。

 ユスティアは歯を食い縛って耐えた。犬のような姿の魔物が燃やされる光景は、彼女の暗い過去を呼び覚ました。ホロウも唸り声をあげ、恐ろしい光景に耐えているようだった。

 やがて、焔は消えた。ゲルダの身体には傷一つなかった。ゲルダは目を開き、一目散にホロウの下に駆け出した。フローレンスはゲルダを目で追っていた。ゲルダとホロウが鼻先を触れ合わせると、ホロウに突き刺さっていた短槍は消えてなくなった。親子は人間たちに背を向けると、森の方へ歩き出した。


 ユスティアはフローレンスに声をかけようと振り返った。彼女の視線の先で、フローレンスは糸が切れたように倒れかけていた。ユスティアはとっさに〈お手伝い係〉を召喚して、フローレンスを受け止めさせた。

 駆け寄って見ると、フローレンスは具合が悪そうに青ざめていた。

「フローレンス様」

「単なる力の使い過ぎですから、ご心配なく……」

「こういうことは、よくあるんですか」

「ここまで疲れたのは久しぶりですが、ある程度の反動は予想していましたから、気にしないでください。少し休めばよくなります」


 フローレンスは見るからに、しばらく安静にさせるべきだった。しかし、ユスティアは心の内の怒りを無視できなかった。

「自分が倒れる前提だったんですか。前にも言いましたが、自分を大事にしようという気持ちはないんですか」

フローレンスは目を伏せた。

「ありません」

「あなたにもしものことがあれば、悲しむ人がいると思わないんですか?」

いくらかの沈黙があった。

「そんな人はいません。それとも、あなたは悲しんでくれるんですか、ユスティアさん」

「……薄情者」

「知っていたでしょう」

「そうね。私は、あなたに何かあっても悼んだりしない。代わりに、そんな事態になるようなことをしたあなたを絶対に許さない。覚えておいて、フローレンス」

「分かったわ、ユスティア」

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