第8話 強襲

 城壁に据えられた監視塔から平原を見下ろすレッドは、嫌な予感を覚えて顔をしかめていた。この手の勘がよく当たる自覚があり、今回もそうなるかも知れないと思うと気が滅入った。

 彼は遠くに見える森の影に目を凝らした。夕闇に紛れて輪郭しか見えない木々が風に揺れていた。鳥型の魔物が飛び立ち、それに驚いたのか、数頭の馬が街の方へ駆け出した。レッドは舌打ちした。馬には人が乗っていた。その馬を追いかけるように、大きな影が森から飛び出した。


 レッドが影の正体を思案していると、背後から慌ただしい足音が聞こえた。警備兵隊の部下の一人だった。

「報告します、レディング隊長」

正しくは分隊長だった。バートラム領警備兵隊の総指揮権はバートラム卿にあり、その下で分隊長たちがそれぞれの部隊を率いている。しかし、それを訂正させている場合でないことは明白だった。

「レッドと呼べと言っているだろう」

レッドは森の方を指さした。

「あの連中のことか」

「はい。巡回中の小隊からの報告です。彼らを追っている魔物は、ホロウです。小隊は交戦を控え、人間を逃がすことに専念しています」

「あの狼が人間を襲っていると言うのか?」


 灰白色の巨狼、ホロウは警備兵隊では知られた存在だった。人語を解し、意思疎通の可能な珍しい魔物で、友好的とまではいかないものの、全く好戦的ではない。ホロウという名も向こうから教えられたものであり、レッド自身、言葉を交わしたことがあった。

「攻撃はするな。街まで逃げ延びたら、人間は拘束しろ。まず間違いなく密猟者だ」

「了解」

「俺もすぐに向かう。とにかく街に近づかせるな」

部下は階段に向かって駆け出した。それを見届けると、レッドは監視塔から身を乗り出して下を見た。誰もいないことを確認すると、彼は飛び降りた。数秒間の空中浮遊の後、地面を蹴って一回転すると、そのまま走り出した。


 背後に警鐘の音を聞きながら、レッドは駆けた。馬に乗った方が速いことは分かっていたが、ホロウに怯えて近づけない可能性が高く、やむを得なかった。

 前方に狂ったように疾走する数頭の馬が見えた。乗り手は彼らにしがみついていたが、見ているうちに何人かが落馬した。

 レッドは落馬した人間に駆け寄った。近くには彼らの荷物も散らばっていて、そのうちの一つが目についた。それは大きな袋で、微かに動いていた。彼は短剣を抜き、袋の口を縛っている紐を切った。中には、ホロウと同じ灰白色の毛並みの小さな狼が入っていた。狼の子どもは怪我をしていて意識はなかったが、まだ生きていた。

 少し離れた場所で、小隊とホロウが睨み合っているのが見えた。密猟者たちが落馬してしまい、あの場所で足止めせざるを得なくなったのだった。レッドは彼らに近づいた。

「連中は密猟者で決まりだ。拘束して下がっていてくれ。近くに狼の子どもが倒れているから、そいつの手当てを頼む。俺はホロウと話をする」

「一人では危険です」

「これは命令だ」

隊員はわずかに逡巡する様子を見せたが、指示通り後ろに下がった。


 レッドはホロウに向き合った。巨狼は刺すような殺気を放っていたが、襲いかかっては来なかった。

「俺を覚えているか、ホロウ。レッドだ」

『貴様は関係がない。あの人間どもを差し出せ』

「連中が何をしたのか、想像はつく。だが、お前に渡す訳にはいかない。彼らは人間の法で裁かれる。それで勘弁してくれないか」

『貴様は自分の子が傷つけられて同じことを言われたら、納得できるのか? 奴らは私のゲルダを殺して剥製にすると言った。許せると思うのか?』

 一部の好事家の間では、魔物の剥製は高値で取り引きされている。そのために魔物を狩る者がいれば、人や街への被害が減り、警備兵隊にとってもありがたい話だと言えないこともない。しかし、今のホロウのように、本来なら敵対する必要のなかった相手を刺激してしまう可能性があり、襲われたときの自衛のような状況を除いて、一般人が魔物に手出しすることは禁じられている。


「あの子は無事だ。怪我をしているが、重傷ではない」

 レッドは腰に下げた剣に手をかけた。このまま対話で済むとは思えなかった。

『毒を飲まされている。私が気づいたときには、もう手遅れだった。そこを退け、レッド。私は復讐しなければならない。邪魔をするなら、お前にも容赦はしない』

「治療できないと決まった訳じゃない。時間をくれ」

『人間が魔物の治療をすると言うのか? そんなことが信じられるものか』


 牙を剥き出しにして唸るホロウの口の端から、黒い液状のものが垂れた。その液体は地面につくと黒い炎となって燃え上がり、周囲の草を焼き焦がした。それは魔物の中でも特に強力な個体だけが行使する一種の魔術、〈黒夜〉だった。

 レッドは剣を抜いた。〈黒夜〉の黒い炎は、およそあらゆるものを燃やし尽くす。彼の背後には部下がいて、そのいくらか先には街がある。ここで止めなければならなかった。

 少し前に増援の兵士たちが到着していた。彼らはレッドの後ろに並び立った。

「総員、手出しは無用だ。ホロウは俺が抑える。お前たちは街への被害を防ぐことに専念しろ。〈黒夜〉を絶対に通すな」

「了解」


 部下たちが防御魔術を用いて障壁を張ったことを確認した刹那、ホロウは口を大きく開けて〈黒夜〉を吐き出した。放射状に広がる黒い炎がレッドたちに迫った。

 レッドは横なぎの鋭い一閃で炎を切り裂いた。分裂した黒い炎が彼の周囲に飛び散り、直接浴びせられた訳でもないのに、火傷するほどの熱が彼を襲った。彼は空気の焼け焦げる匂いの中に素早く踏み込み、飛びかかってきたホロウが振り下ろす爪を剣で弾いた。


 レッドは頭をのけ反らせて、彼の頭部を噛み砕こうとしたホロウの牙をかわした。彼は剣を捨ててホロウの下あごを殴り上げた。両者にはかなりの体重差があったが、ホロウは後ろ向きに吹き飛んだ。

 ホロウは空中で一回転すると、四本足で着地した。レッドは剣を拾って切っ先をホロウに向け、肩の高さで水平にして刺突の構えを取った。

「まだ続けるのか?」

返事はない。

「引いてくれ。お前を殺したくない」

『黙れ、人間風情が』


 ホロウの全身から、〈黒夜〉の黒い炎が迸った。その量も火力も熱も、先刻とは比べものにならなかった。自分一人なら切り抜けることは不可能ではない、とレッドは思った。しかし、背後にいる部下たちは助からない。防御魔術で身を守るにも限度があった。

「逃げてください、隊長」

背後から怒声が飛んだが、レッドは一歩も引かなかった。

 黒い炎の波がレッドを呑み込む寸前、上空から白い焔が降ってきた。その白い焔はレッドと部下たちの身を包み、〈黒夜〉を相殺していた。

 訳も分からず焔に包まれた部下たちから戸惑いの声が漏れていたが、その焔からは熱を感じず、皮膚が焼かれることもなかった。


 やがて黒い炎と白い焔は完全に消え、レッドとホロウの間に飛竜が降り立った。その姿には見覚えがあった。ユスティア・ローレンの召喚したものだ。案の定、本人がその背に乗っていた。加えてもう一人、見知らぬ女性がいた。飛竜が身体を低くかがめ、二人は地面に降りた。

 飛竜とホロウが睨み合い、一時的な膠着状態になっていた。ユスティアがレッドに話しかけてきた。

「レッド隊長、ご無事ですか」

「ああ、助かった。しかし、今のは……まさか、〈神世の灯火〉か?」

レッドの知る限り、あのような性質の白い焔と言えば、聖女の持つ〈灯火〉以外には考えられなかった。とはいえ、先刻のそれは、彼の知見からするとあり得ないほど強力な代物だった。

 レッドはもう一人の女性に視線を向けた。彼女はホロウを検分するように眺めていたが、ユスティアに呼ばれると近づいてきた。

「聖女フローレンス、と言えば分かりますよね」

ユスティアが言った。レッドにも聞き覚えのある名だった。

「では、あなたがバートラム卿の……」

「フローレンス・オリヴィアです。今はもう、聖女ではありません」

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