第6話 愛なき者

 リリアは落ち着かない気分だった。王都での用事を大急ぎで片付けてバートラム領に舞い戻ってから、早数時間。留守にしていた間に溜まった仕事を済ませなければならないというのに、ほとんど手につかなかった。

 十年来の憧れの相手に、とうとう会うことができる。その期待が彼女の胸を満たし、あまりにも普段と雰囲気が異なって見えたのか、使用人たちから、王都にいる間に恋人でもできたのかとからかわれる始末だった。


 リリアはペンを置いた。今日はもう仕事にならないと判断した。彼女は呼び鈴を鳴らして執事を呼び、ユスティアを呼ぶように命じた。

 ユスティアは速やかにやって来た。

「しばらくぶりね、ユスティア」

「はい。リリア様はお変わりないようで、安心しました」

「一週間で人は変わらないわ」

「そうでしょうか。私は事情を知っていますが、そうでない人から見れば、王都にいる間に恋人でもできたかのように――」

リリアはユスティアの発言を遮った。

「彼女のことをずっと尊敬してきたのよ。会えるとなれば、舞い上がるような気持ちになっても不思議ではないでしょう」

「五歳年下の子どもに対して敬意や憧憬を抱くというのが、よく分かりません」

「あなたはあの場にいなかったから」

「ええ。それはともかく、彼女ももう子どもではありません。今でもあなたが尊敬するに相応しい人物かどうか、ご自分で確かめてください」

 リリアはうなずいた。ユスティアは部屋を出て、フローレンスを呼びに行った。


 リリアはフローレンスと対面した。探すまでもなく、彼女には昔の面影が見てとれた。記憶の中の少女と今のフローレンスを重ねて、リリアは微笑んだ。

「第九代バートラム辺境伯、リリア・バートラムがお目にかかります。当地へようこそお越しくださいました、フローレンス・オリヴィア様」

「お初にお目にかかります、バートラム卿。この度は色々と取り計らっていただき、ありがとうございました」

フローレンスは丁寧な所作で頭を下げた。

「私があなたにお会いしたかったのです。どうか、私のことはリリアと呼んでください」


 リリアは浮かれていたが、初対面のように挨拶されたことが気になった。

「ところで、覚えていらっしゃいませんか。十年ほど前――」

静かに同席していたユスティアが、小さく咳払いをした。彼女に視線を向けると、わざとらしく目を逸らされた。

「先代の辺境伯のことは、ユスティアさんから伺いました。お悔やみ申し上げます」

「……ええ」

「その上で、お詫び申し上げなければなりません。あの当時、リリア様にお会いしているのかも知れませんが、思い出すことができません。申し訳ないと思っています」

フローレンスがうつむいた。彼女は心から気落ちしているようだった。その様子を見たリリアは、好意を押しつけるようなことも、勝手に落胆するようなことも、してはならないと自戒した。

 数瞬の間だけ目を閉じて、リリアは気持ちを切り替えた。

「あなたが私や父のことを覚えていなくとも、一向に構いません。私は十年来、あなたに憧れてきました。恩義を感じているのはもちろんですが、尊敬の念も強いのです。正直なところ、お会いできただけでもかなり満足です」

「リリア様のように高名な方からそのようなお言葉をいただくのは、恐れ多いです」

「女の身で若くして辺境伯の地位にあることで、何かと誇張されているのでしょう。高名なバートラム卿と言えば、先代のことです」

それが主に武勇によるものだという点について、リリアは言葉を濁した。ユスティアが口の端を歪めて、笑いを堪えているように見えた。


 フローレンスに恐縮されるのは、リリアにとって好ましくないことだった。

「私は今でもよく覚えています。深手を負った父を、眉一つ動かさずに治療するフローレンス様の姿を。本職の治療師でさえ恐れをなす重傷を、子どもだったあなたは淡々と処置していました。それから、あなたは私にとって、一つの目標なのです」

「目標、ですか」

「ええ。為すべきことを為す。自らに課せられた役割、使命を全うする。私もそういう生き方をしなければ、と」

 フローレンスが何か言おうとしたが、その前にユスティアが口を挟んだ。

「リリア様の今の言葉を否定するようなことは、絶対に言わないでくださいよ、フローレンス様」

「……分かりました」

 ユスティアの口調がやけに冷ややかに思われ、リリアは眉をひそめた。対するフローレンスの方も、感情の伺えない無表情を浮かべていた。

「フローレンス様。数日後からあなたは当地の教会で働くことになりますが、その際、ユスティアを護衛につける予定です。問題ありませんか?」

「ガブリエル猊下との契約ですね。わたしの身の安全を保障するという。ですが、必要ありません。自分の身は自分で守れますから」

「ほかの者にすることもできます」

「誰であれ同じことです。一介の事務員が護衛を引き連れる訳にはいきません」

 視線を向けると、ユスティアは肩をすくめた。

「仕事ですから、私は指示に従います。ですが、ご本人が不要と言うものを押しつけても仕方ありませんよ。そうでしょう、フローレンス様?」

「ええ。リリア様のご厚意を無下にするつもりはありませんが……」

リリアは溜め息をつきたい気分だった。互いに嫌っているというほどではなくとも、この二人の仲がよくないことは十分に分かった。


「では、こうしましょう」

 リリアは二人を見据えた。本人の意向に背く心苦しさがあろうとも、枢機卿との契約は果たさなければならなかった。

「ユスティアはあなたの送迎をします。そして、仕事中は離れた場所から見守ります。申し訳ありませんが、これ以上の譲歩は不可能です」

「分かりました。ところで、お気づきかも知れませんが、わたしとユスティアさんには多少のわだかまりがあります」

ユスティアが同意した。

「ええ、そうですね。ところが、なぜそうなのか、あなたには心当たりがないのでしょう。違いますか?」

「その通りです。ユスティアさんはリリア様の信頼も厚いようですし、ここではっきりさせておくのがいいと思いまして」


 二人は決して睨み合ってなどいなかったが、互いへの反感は傍目にも明らかだった。むしろ、今までよく抑えていたものだ、とリリアは奇妙な感心を覚えた。

「では、はっきり言っておきましょう。リリア様はあなたを高く評価していますが、私はあなたを信用できません」

フローレンスは眉一つ動かさずに、ユスティアの言葉を聞いていた。

「あなたには他者に対する関心がほとんどありません。それ自体はあなたの自由ですが、あなたは自分自身のことさえ大事にしない」

「それが何か問題ですか?」

「あなたは何者も愛していません。しかし、聖女としての義務感から、あなたは取り繕っています。私はそれが気に入りません。嘘をついている相手を信じるのが難しいことは、ご理解いただけますね」

「あなたの方こそ人間不信でしょう。他人を信じるつもりのない人から信頼されるのがどれほど困難なことか、想像するのも嫌ですね」

 フローレンスは昏い笑みを浮かべた。

「愛情の欠落。確かに否定できません。わたしは誰のことも愛したことがありません。今は亡き両親のことでさえ。他人を好ましく思うことはありますが、愛と呼ぶほどのものではありません」

「家族だから愛さなければならないとは、私は思いません。聖女なら愛情深くて当然だとも思っていません。ただ、偽りの姿を見せられれば、不信感を抱いても仕方がないでしょう」

「どうぞ、ご自由に」


 リリアは頭を抱えたかった。信頼するユスティアと敬愛するフローレンスが、どうしてこうも反目するのか。彼女の知る限り、二人とも確たる信条を持った善良な人物だった。仲よくするように言えば形だけはその通りにすることは想像に難くなかったが、それでは意味がない。

 時間が解決してくれることを願って、リリアは我慢していた溜め息を吐き出した。

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