第5話 黒衣の男

 馬車を降りたフローレンスは、都市を囲む城郭を見上げた。この都市がバートラム領で唯一の街であり、辺境防衛の拠点でもあった。領内にはほかにも村落が点在しているが、人口の大部分はここに集まっているということだった。フローレンスが長く暮らした王都に比べれば小規模だが、地方都市としては十分に栄えているように思われた。

 街の入り口では検問が行われていた。他国との国境に位置する街ではないため、簡易的な確認程度のものだということだった。そのユスティアの説明通り、順番待ちの列は順調に進んでいたが、フローレンスたちの少し前で問題があったらしく、後続はしばらく待たされていた。


 フローレンスは御者台に座るユスティアを見上げた。彼女は検問所で兵士と口論する男を冷ややかに眺めていた。

「何があったんでしょうか」

ユスティアはフローレンスの方を見ずに答えた。

「分かりません。ただ、何にしても時間がかかりすぎです。問題があるなら、別室に連れて行くはず――」

そこで彼女はフローレンスに顔を向けた。

「――すみません、フローレンス様。こんなところで足止めされてしまって。お疲れでしょうから、早く休んでいただきたいところですが……」

「わたしは平気です。疲労と言うなら、ユスティアさんの方が大変でしょう」

「それほどではありませんが、さすがに様子を見に行くことにします。あなたは車内で待っていてください」

 ユスティアは御者台から降りると、検問所に向かって歩き始めた。フローレンスはその後に続いた。

「わたしも行きます」


 検問で止められているのは、黒ずくめの服を着た背の高い男だった。彼は無言で兵士を睨みつけ、兵士の方も臆することなく睨み返していた。

「……すみません」

ユスティアは兵士に声をかけたが、男の方から返事があった。

「待たせることになって悪いが、俺はこいつと話をつけなければならない」

「ですから、別室でお話を伺いますと言っているじゃないですか」

兵士が言った。

「何が問題なんだ。俺は以前からこの街に出入りしているが、こんな風に足止めされたことはない」

「そのときは血の滴る剣を腰に下げていなかったんでしょう。その事情を聞かなければならないんです、こちらは」


 フローレンスは男が腰に下げる剣を見た。革を縫って作られた鞘の隙間から、赤い液体が垂れていた。今しがた、生き物を斬ったのだと思われた。

「何度も言わせるな。襲ってきた魔物を殺しただけだ。お前たちにとって益にこそなれ、不都合などないだろう」

「人間の血じゃないことを確認したいんですよ、たぶん」

フローレンスが男に話しかけると、彼は彼女に視線を向けた。

「心外だな」

そう言いながら、男は剣を抜いた。ユスティアがフローレンスの前に割って入った。

「下がっていてください、フローレンス様」

「待て、勘違いするな。心外だが、そういうことなら確認すればいい。鑑定魔術を使える者がいるのか、科学とやらを使うのかは知らないが、好きにしろ」

男は兵士に剣を渡した。

「始めからはっきり言えばよかったんだ。お前が人殺しじゃないか疑っていると」

「できませんよ、そんなこと」

兵士は剣を持ってどこかへ行った。


 男が向き直り、ユスティアの肩越しにフローレンスを見た。

「フローレンスといったか。礼を言おう。つまらない誤解だったが」

「いえ、お構いなく」

「そうか。……俺はザイドという名だ。昔、一方的に他人の名前を聞くのはよくないと言われたことがある。なぜか分からないが、お前を見てそれを思い出した」

 兵士が戻ってきて、ザイドに剣を返した。血はきれいに拭き取られていた。

「確かに魔物の血でした。一帯を巡回している兵士から、街に近い場所で死骸を発見したという報告もありました。あなたがやったものですか」

「おそらくな」

「疑いをかけてしまい申し訳ありません。ご協力ありがとうございました」

「気にするな」

 ザイドはフローレンスの方に顔を向けた。

「じゃあな、聖女様」

彼は街に入っていった。


 ユスティアが辺境伯の発行した通行証を持っていたため、フローレンスたちは形式的な検問さえ受けることなく、街に入ることができた。

 馬車は市街地を通り抜けて閑静な住宅街に入り、その先にある庭園付きの邸宅の門の前で止まった。見ていると門はひとりでに開き、馬車が通過すると閉まった。遠くに見える邸宅までの道すがら、フローレンスは手入れの行き届いた庭園の風景を眺めた。

 ようやく邸宅の前に着き、フローレンスは馬車を降りた。ユスティアの〈お手伝い係〉が鞄を持って彼女の後に続いた。老執事に馬を預けたユスティアに連れられて、フローレンスは客間に通された。


 室内を眺めて過ごしていると、しばらく姿を消していたユスティアが戻ってきた。彼女は紅茶の入ったポットとカップを二つ、トレイに載せて持ってきていた。

「バートラム卿はあまり使用人を雇わないので……」

紅茶を注いだカップを渡され、フローレンスは礼を言った。

 ユスティアはテーブルを挟んでフローレンスの向かいに座った。

「くつろいでくださいと言いたいところですが、先に確認させてください。あのザイドという男、知り合いですか?」

「いいえ。まあ、わたしが覚えていないだけということも……」

フローレンスは目を逸らした。

「教会に関心のある人なら、個々の聖女について知っていても不思議ではありません。話している間に、あなたのことに気づいた可能性はあります。とはいえ……」

「わたしの活動からすると、直接会ったことがなければ、顔も名前も知られていないというのが自然な気もします」

フローレンスが教会の広告塔として活動したことはなく、初対面で彼女を聖女という肩書きと結びつける者がいるとは考えづらかった。

「聖女に特有の外見的特徴なんてないですからね。教会関係の人だったのかも知れません」

「……そういうことにしておきましょうか」

ユスティアは釈然としない様子だったが、諦めたように肩をすくめた。


 フローレンスが紅茶を飲み終えると、待っていたようにユスティアが口を開いた。

「バートラム卿は明日お戻りの予定です。お部屋の用意は済んでいますので、後ほどご案内します」

身辺警護のために、フローレンスはバートラム家の邸宅に滞在することになっていた。それがいつまで続くことになるのか、彼女は知らなかった。

「何から何まで、ありがとうございます」

「仕事ですから。お礼でしたらバートラム卿に」

「あなたにも感謝しています」

「そうですか」

ユスティアは素っ気なく返事をすると、そのまま黙ってしまった。フローレンスは彼女を冷ややかに見つめ、思索に沈んでいった。

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