第3話 辺境への招待

 部屋の掃除を終えたフローレンスは、所在なく椅子に座っていた。書庫から借りていた本も返却してしまい、することがなかった。

 日が沈み始めた頃、遠慮がちにドアを叩く音が聞こえた。フローレンスは立ち上がってドアを開けた。彼女と同年代の見知らぬ女性が立っていた。

「……どちら様?」

「お初にお目にかかります、フローレンス・オリヴィア様。辺境伯バートラム卿の名代として参りました、ユスティア・ローレンと申します」

そう言って、ユスティアは深々と頭を下げた。

 フローレンスはユスティアを観察した。嘘を言っているようには感じられなかったが、辺境伯が自分に何の用なのか、全く思い当たらなかった。辺境伯は国境や危険地帯と隣接する地域などを管理する要職であり、おいそれと関わるような相手ではない。

「何もない部屋ですが、入ってください。お話を伺います」

「失礼します」

 ユスティアは勧められるままに空いた椅子に座り、室内をさっと見渡した。彼女はフローレンスの全財産を詰めて床に置かれた二つの鞄に目を留めた。


 フローレンスがベッドに腰かけると、ユスティアは話を始めた。

「教会の評議会があなたに下した裁決のことは存じています。これを受けて、あなたは少なくとも、王都の教会に留まる意思がない。違いますか?」

「聖女の肩書きを剥奪された後のわたしの処遇は決定していません。もっとも、自由に選べたとしても、これからどうしたいのか自分でもよく分からないというのが、正直なところです。ただ、しばらく王都を離れたい気持ちがあることは否定しません」

「では、ちょうどよかった。こちらを」

ユスティアは封書を差し出した。中には一枚の紙が折りたたまれていた。

 フローレンスは紙を広げて、書かれていることを読んだ。彼女にバートラム領の教会への転属を命じる通知であり、末尾にはミカエラを含む三人の枢機卿の署名があった。評議会の決定による略式命令だった。

「なぜ、あなたがこのようなものを?」

「バートラム卿がガブリエル猊下からお預かりしました。バートラム卿は急用のためこちらに伺うことができなくなり、私が代理を務めています」

「辺境伯がわたしの転属に関心をお持ちで? わたしの扱いは一介の事務員になるようですが」

「その関心の理由は、いずれ本人の口から。それはともかく、バートラム卿はあなたを手厚く迎え入れる意向です。もちろん、あなたさえよければですが」


 ユスティアは返事を待つように口を閉ざし、フローレンスは少しの間、逡巡した。辺境伯バートラム卿は高名な人物であり、誘いに乗ったところで悪い扱いを受けるとは考えにくかった。

 しかし、あまりにも都合がよすぎるように思えた。フローレンスが聖女でなくなることや転属することが決まったのは今日のことだった。まさにその日に転属先の領地を治める人物が王都にいること、早速のように誘いをかけてくることには、不自然さを感じずにはいられなかった。

「わたしの転属先がバートラム領になるように交渉しましたか?」

「バートラム卿とガブリエル猊下のお話の席には、私は同席していません」

「……分かりました。どちらにせよバートラム領に行く訳ですから、無理にお断りすることもありませんね」


 フローレンスは自分の声に不信感が混ざってしまったことを自覚した。それを聞き取ったのか、ユスティアの表情に緊張が走り、やがて彼女は溜め息をついた。

「私からはお伝えしないように言われていましたが、一つ、お話します。バートラム卿があなたを招きたいのは、先代が受けた恩義への返礼のためです」

心当たりがなかったが、それを口にするのは失礼だと思い、フローレンスは黙って続きを聞いた。

「ご存じかも知れませんが、バートラム領が辺境と呼ばれるのは、土地が魔物の生息域に隣接しているためです。時として魔物が人の街を襲うことがあり、辺境伯自ら剣を取って戦うこともあります。特に先代は、腕が立つというか血気盛んなところがあり……」

そう言ってユスティアは苦笑いを浮かべた。その表情には、先代の辺境伯に対する親しみがにじんでいるように感じられた。

「十年ほど前、あなたは魔物との戦闘で重傷を負った先代の命を救いました。当時のあなたは聖女になったばかりで、各地に挨拶回りをしていたのだと聞いています」

 言われてみればそんなこともあったような気がする、とフローレンスは思った。聖女になったばかりというと十歳くらいの頃のことで、覚えていられないほど幼かった訳ではないはずだが、環境の変化や多忙さのせいか、当時のことは断片的にしか思い出せなかった。


 相手が恩を感じているというのに、その出来事のことがほとんど記憶になく、フローレンスは居心地の悪い思いだった。ユスティアはそれを見透かしたようだった。

「覚えていませんか」

「すみません」

「いえ、あなたにとっては、大勢救ったうちの一人ですから」

「そのように考えることは許されません。わたしには、聖女として接した一人一人を覚えておく義務が……」

「その無理がある義務からは解放されましたよ」

ユスティアの冷たい声に、フローレンスは肩を落とした。

「……そうですね。その後、先代の辺境伯がどうされたのか伺っても?」

「二年前に病で亡くなりました。かねてからの持病の悪化です。聖女の力をもってしても、おそらく助かることはなかったでしょう」


「さて」

 室内を満たした沈黙を打ち破るように、ユスティアが明るい声を出した。

「もう日没も近いですが、フローレンス様さえよければ、すぐにでも出発しましょう。荷造りはお済みでしょう? ご挨拶したい相手がいれば、ついでに立ち寄れますから」

「ずいぶん急ですね。挨拶の方は必要ありませんし、わたしはいつでも出発できます。とはいえ、夜の街道はそれほど安全な場所ではありません。馬車に乗っていれば心配ないと言えるようなものではないことは、ユスティアさんもご存じでしょう」

 整備された街道であっても、街から離れるほど、盗賊や魔物に遭遇する危険が高まる。夜中に街道を移動することなど、自殺行為とは言わないまでも、推奨されるようなことではなかった。

「私がいれば安全です。それに、夜通し移動しようという訳ではありませんから。証明になるか分かりませんが、お見せしましょう」


 ユスティアが手を叩くと、童話の挿絵に描かれるような可愛らしい姿の小動物が四匹、姿を現した。彼らは執事やメイドのような服を着て、二足歩行している。四匹は手分けしてフローレンスの鞄を持ち上げた。

「召喚術ですか」

「ええ。彼らは〈お手伝い係〉です。簡単な雑用しかできませんが、その分、害もないので気軽に呼び出せます。ちなみに、個々の名前は、ねずみくん、いぬくん、ねこちゃん、羊さんです。個別に呼ぶことは、ほとんどないんですけどね」

 フローレンスは返答に迷った。言及していいものなのか、判断がつかなかった。それを察したのか、ユスティアの方からその点に触れたため、彼女は大人しく説明を聞いた。妙に早口になっていることには、気づかないふりをした。

「言っておきますが、私が彼らの名前を決めた訳ではありません。これは彼らの自己認識の問題で、召喚術を含む異界魔術全般に言えることですが、別の時空からこの世界に顕現する際、世界によってその存在が規定されます。そこに名称や呼称が含まれる場合もあり、それは軽々しく扱っていいものではありません。つまり、彼らに名前を付けたのは世界そのものであって、私ではないんです」


 まくし立てるユスティアの表情に変化はなかったが、頬に朱が差していた。

「可愛らしい名前を付けていると思われることが恥ずかしいなら、彼らの名前を言わなければよかったのでは?」

「それは彼らに悪いと言うか……」

〈お手伝い係〉の小動物たちは、邪気のない瞳でユスティアを見上げていた。

「とにかく、今日のうちに近郊まで出ます。護衛役を召喚できるから問題ないんです。分かりましたか?」

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