第2話 異端者
ミカエラの執務室を辞したフローレンスは、宿舎に向かって歩いていた。待機しているように言われたが、聖女のために用意された宿舎に残ることができないのは確かなため、いつでも出ていけるように荷物の整理をしておくつもりだった。彼女の持ち物は少なく、荷造りに時間がかかることはない。
人に会う気分ではなく、フローレンスは人気のない通路を選んでいた。そのせいで特に面倒な相手に出会うことになり、彼女は己の不運に溜め息をついた。
向かい側から知人が歩いてきた。フラドラント公爵家の令嬢、イヴリンだった。彼女も聖女の一人であり、その颯爽とした美しい姿は、昨今の教会が聖女に求める役割にはよく合致していた。
イヴリンは一人ではなかった。視界に入った途端にフローレンスの方に向かってきたらしい彼女の背後に隠れ気味だったが、ロゼの姿があった。ロゼはフローレンスにとって、聖女の中では唯一の友人だった。そのロゼとイヴリンが連れ立っているのを見たフローレンスの胸中は、やや複雑だった。
知り合ったときには既に、フローレンスはイヴリンに嫌われていた。
イヴリンは輝かしい笑顔で、嘲りを表現しているようだった。
「あら、どなたかと思えば、元聖女のフローレンスさん。ご機嫌いかが?」
「ご存じでしたか。では、あまりいい気分ではないとお答えしても構いませんね。正直なところ、大して思うこともありませんけれど」
フローレンスは淡々と応じた。
「そう? あなたは聖女という地位にしがみつくことに必死だったように思うわ。こんなことになって、さぞ気を落としているのでしょう?」
「いいえ。わたしはどなたかと違って、身分や地位に対するこだわりなどありません。社会において無意味な仕組みだとは思いませんが、そのようなものに拘泥する人物は、それらに相応しいとは言えないでしょうね」
イヴリンは相変わらず笑顔だったが、額に青筋が浮かんでいた。
「私がそうだと言いたいのかしら?」
「誰があなたのことだと言いました?」
「……まあ、いいわ。何にせよ、これであなたに会わなくてよくなるのだから。本当、清々するわ。以前から、卑しい出自の聖女など認められるべきではないと思っていました。評議会の判断は遅すぎたくらいよ」
フローレンスは大げさに溜め息をついた。
「もう行っても構いませんか。宿舎で待機していないといけないので」
彼女は返事を待たずに立ち去ろうとしたが、イヴリンに行く手を塞がれた。
「待ちなさい。話はまだ終わっていません」
「……何でしょうか」
イヴリンはロゼを手で示した。
「しばらく前からこちらのロゼさんが、私やほかの聖女たちもあなたのように責務を果たすべきですと、何度もおっしゃるのよ。公爵家のご令嬢の言葉ですから、私はともかく、ほかの者たちにとっては不当なほどに強制力があります」
ロゼも公爵家の令嬢であり、家柄で言えばイヴリンとは同格だった。外交的で華やかなイヴリンとは真逆の内気で引っ込み思案な性格のため、とてもそうは見えないが。
「それが何か?」
フローレンスは黙ってうつむいているロゼに視線を向けながら、冷たく言った。イヴリンは肩をすくめた。
「分かりませんか? あなたがやっていたような聖女に相応しくない不快な仕事を強要された者が何人もいて、涙を流しながら何とか耐えていました。ロゼさんがやるように言ったからです。だというのに、そのロゼさんが手本にしていた人が――」
話を聞きながら、フローレンスは自分がやっていたという不快な仕事について考えたが、何のことか分からなかった。怪我人や病人の治療のことか、魔物の討伐に同行して手伝うことか、魔術の解呪や呪詛の浄化のことか。いずれも楽な仕事ではなかったが、彼女はそれらに不快感を持ったことはなかった。
「――このようなことになっては、みなの気持ちの行き場がない。もう誰も、今までのようにロゼさんに接することはできないでしょう。あなたのような人を見習いたがる方ですからね」
フローレンスは言い募ろうとするイヴリンを無視して、ロゼに話しかけた。
「ロゼ。付き合う相手は、もう少し考えて選んだ方がいいわ。決して分かり合えない人だっているんだから」
言い終えると、彼女は足早に立ち去った。今度は呼び止められても応じなかった。
「待ってよ、フローレンス」
一人で追いかけてきたロゼの姿を見て、フローレンスは立ち止まった。彼女の背後には、歩き去るイヴリンの背が見えた。
「私はみんなが嫌がることを強制してなんかいない。ただ、あなたがどれほど立派か伝えたかっただけで……」
「この先、わたしの名前は持ち出さない方がいいわ」
「どうして? あなたは誰よりも献身的に働いてきたのに」
「イヴリンの話を聞いたでしょう。多くの人にとって、わたしは異端なのよ。そのわたしを擁護するようなことを言えば、あなたが糾弾されるわ。わたしのことは切り捨てて」
ロゼはまたうつむき、黙ってしまった。フローレンスは彼女が喋れるようになるのを待った。やがて顔を上げたロゼの表情には、決意が浮かんでいた。
「今日はいつにも増して冷たいじゃないの、フローレンス。本当は優しい人だって知らなかったら、誤解するところよ」
「あなたはいつになく積極的に喋るじゃない。いつもの内気さはどこに行ったの」
「あなたにここを去らせる訳にはいかない」
「評議会の決定よ。わたしを説得しても意味がないわ。それとも、公爵家の権力でも振りかざすの?」
「私にそんなものは使えないわ。知っているでしょう。私は姉妹の中でも一番の出来損ないで、偶然にも〈灯火〉が使えたから聖女になれただけ。私を教会に厄介払いできて、両親はほっとしたはずよ」
「何が言いたいの」
「私と違って、あなたは大勢から必要とされる人よ。これまでに、フローレンスがいなければ助からなかった人がどれほどいたか、分かっているの?」
「そんな人はいないわ。わたしがいなければ、誰かが代わりを務めるもの。〈灯火〉の扱いなんて、練習すれば誰でも上達するわ。それに、ここにはあなたがいる。わたしがいなくなることを心配しなくても、あなたならちゃんとできるわ」
「簡単に言わないで。そもそも、〈灯火〉の扱いを訓練する気のある人がほとんどいないのよ。だから、あなたがいないと――」
フローレンスはロゼの言葉を遮った。
「もうやめて。わたしに何ができたとしても、必要なときに必要な場所にいられなければ、意味はないのよ」
「……ご両親のこと?」
フローレンスの両親は、彼女が仕事でしばらく街を離れていたとき、感染症によって命を落とした。彼女がその場にいれば、二人は救えたはずだった。
「仮にわたしが世界一優秀な人材だったとしても、一人でできることには限界があるの。もし、わたしがいないと困ったことになるというのなら、それは既に手遅れだったのよ」
「どうしても、やめてしまうのね」
「ええ。もう決まったことよ。誰にも変えられないわ」
ロゼは肩を落とした。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「どこに行くことになっても、元気でいてね」
「あなたも。さよなら、ロゼ」
フローレンスはとぼとぼと歩いていくロゼを見送り、宿舎の自室に向かった。
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