第9話 高尚なゲーム
「そう言えば僕達の紹介をしていなかったね」
と男がタクシーの助手席から後ろに乗る恵理子に振り返った。
「僕は大崎孝夫。で彼女が理恵子、佐伯理恵子。あっ。もう自己紹介は済んでいるか」
今更ながら恵理子は二人に挨拶をした。
「私は高津恵理子です」と言った。
いったいこの二人の関係は何なんだろうと思った。
はじめは夫婦かと思った、でも別々の姓だった。
だったらただ単につきあっているだけか、その割に二人には不思議な距離感がある。
恋愛感情とは違う何かでつながっているような。
連れて行かれたのは、高層ホテルのツインの部屋だった。
いかがわしいホテルならその場で帰ろうと思ったが、いかにも高そうなシティーホテルだ。部屋の中は鏡台のところにいくつかの化粧品が置いてあったり、テーブルに雑誌があったりと、今チャックインしたのではなく、昨日から泊まっていた、というより、下手をするとここに住んでいるような様相だった。
そしてさらにこの二人の事が分らなくなった。
もの凄い金持ちなのか。
窓辺にテーブル、それを囲うように四つの椅子、その一つに恵理子が座る。
「ほら、見てご覧なさい」と言って理恵子はアルバムを持ってきた。
その中にあったのはどれも理恵子のヌードだった。
そしてそれは素人のカップルか趣味で撮ったというレベルの物ではなく、明らかに写真というものを意識した。
作品だった。
そこには理恵子の全てが写し出されていた。
なのに、そこに写し出された物は、性器すらも卑猥な物ではなく、むしろ美しかった。
そして芸術というのはこういう物なのかと思わされる。
これが本来の芸術というなら、モザイクやぼかしが、いかにナンセンスで、芸術そのものを冒涜しているかが分かる。
恵理子はその写真を見てそんな風に思った。
「綺麗」と恵理子の口から感嘆の声が漏れる。
「でしょう。あなたがもし裸になった事が恥ずかしいなんて、少しでも思っていたとしたら、バチが当たるわよ。
だってあの天才坂本真市は、あなたの肉体を芸術にまでに高めてくれたのよ。
今あなたが綺麗と言ってくれた物の、数段上の写真を撮られたのよ。
感謝こそすれ恥ずかしいなんて」
なんとなくそんな理恵子の言葉に恵理子は救われたように思った。
ここに来てよかったと恵理子は思い始めていた。
「ヌードは決して卑猥な物ではない。
この理恵子の写真は理恵子の全てをさらけ出している。
そこは誰しも隠すことを是とする、人の最も恥ずべきところだ。
普段決して見ることの出来ないもの。
そこを見せることが、恥ずべきことと君は思うかもしれない。
でもこの理恵子の写真に淫靡な感情なんて入り込む隙間なんてない。
ただただ美しい。それだけだ」
「私もそう思います。この写真は本当にただ、ただ美しい」
「それが芸術なんだと僕は思う」
恵理子は深く共感した。
ここに来てよかったと心の底から思った。
「そうだ、せっかく来たんだから、遊んで行くかい」孝夫が思い出したように言う。
「遊ぶって」
「とても高尚なゲームよ」と理恵子が言う。
「ゲーム」
「そうイマジネーション。想像することが出来ないと、成り立たないゲームよ」
「それはいったい」
「演技し合うゲームとでも言うかな。シュチレーションとそこに自分の感情をリンクさせる。いかに自分の感情をコントロール出来るかにかかっている遊び」
「なんだかよく分らないですけれど」戸惑う恵理子の表情を理恵子は見逃さない。
「例えば、テレビとか映画を見ているでしょう。
その時に悲しい場面があって、でも自分に降りかかった事ではないから、悲しくはない。でもその内容を自分に起こったこととして悲しむの、分かるかしら」
「そんなこと出来るんですか」
「そこはいかにその登場人物に感情移入を出来るか、それはあなたにかかっているわ」
「でも出来たら、その感情を我が物として感じられるよ」
「同じように喜び、同じようにかなしむのよ」孝夫の言葉に、さらに理恵子が、かぶせてくる。
「それは楽しい遊びなんですか」恵理子の懐疑的な問いに孝夫が優しく微笑む。
「手を出し手ごらん」と孝夫が言う。言われるままに恵理子は手を出した。
「何をするんですか」
「今君は、手を縛られている。あたかも縛られているかのように。自分でやってごらん」
「自分で」
「そう、それも想像だよ」恵理子は手を後ろにまわし。
拘束されているかのように手を握った。
「想像してごらん。君は誘拐犯に捕らえられた、お金持ちの娘だ。家に帰りたいのに、手を縛られていて帰れない」
「家はお金持ちではありません」
「そこを想像するんだ。それがこのゲームの面白いところであり。難しいことだ。君に出来るかどうかだけれど」
「あなたなら出来ると私は思った」理恵子が優しく話しかけてくる。
「私なら出来る」
恵理子はその言葉を自らに中で反芻した。
出来ると肯定的に言われたことなんてほとんどない。
本当に些細なことなのに、自らを肯定されることはなんて気持ちがいいのだろう。
気持ちが良いと、思った瞬間、孝夫の声が優しく響く。
「さあ想像するんだ。
家に帰りたい、でも帰れない。
これから自分は何をされるのだろう。
暴力を振るわれるのか。
裸にされて、うんと恥ずかしい事をされてしまうのか。
なんてかわいいそうなんだろう。
手を縛られて。
家に帰ることも出来ない。
私はなんてかわいそうなんだろう。さあそう強く思って」
恵理子は言われるがままに、自分はかわいそうと強く思った。
「思いました」
「もっと」
「もっとって、どうやって」
「恵理子はかわいそう。と百回唱えてごらん。
「恵理子はかわいそう。恵理子はかわいそう。恵理子はかわいそう」と恵理子は早口で唱えた」
「早い、もっと感情を込めて」
恵理子は言われるがままに、ゆっくり唱えてゆく。
すると段々自分の事がかわいそうになって来る。
五十回を過ぎる頃には感情が高ぶって行く。
そのせいで縛られているふりをしている恵理子の手が離れる。
「君は縛られているんだよ」
「ごめんなさい」
そして恵理子の手に孝夫が優しくふれる。
そして手早く縄で縛って行く。
「痛い?」孝夫は縄で縛ろうとしているとは思えないほどの優しい声で恵理子に問う。
「いえ」恵理子は乾いた声で答える。
「君はかわいそうだ」
「私は。かわいそう」
「そう君はかわいそう。
家に帰りたいのに帰れない。さあ唱えてごらん君はかわいそうだ」
「私はかわいそう」
「そう恵理子はとてもかわいそうだ」
「恵理子はかわいそう。恵理子はかわいそう。恵理子はかわいそう」
百回を越える頃恵理子の目から涙がこぼれた。
いったいその涙がどういう物なのか恵理子には分らなかった。
なのによく分らない感情にさいなまれて、恵理子は涙を流した。
泣いた恵理子の顔を理恵子が抱きかかえた。
「恵理子、あなたはかわいそう。恵理子、あなたはかわいそう」理恵子の声が優しく響く。
縛られて、不自由な体に、理恵子の声が優しく浸透してくる。
その声は慈愛に満ちて、恵理子を優しく包む、どこかで感じたことがある。
まだ幼いころ、母に抱かれたときの安心感だ。
自然と涙がこぼれる。
なぜ、恵理子は自問する。
なぜ自分はここで涙を流している、何が悲しい。
いえ、悲しいのではない、安心感。
包み込まれる安心感。
しまいに恵理子は嗚咽する。
これも安心感なのか。
そして空気が換わった。
「どうだった」と理恵子が恵理子の首から上を抱きかかえたまま訊ねた。
「どおって」まだ放心状態の恵理子はくぐもった声で答える。
「気持ち良くなかった。感情をさらけ出す事はとても気持ちがいいの、泣いたりするとかえって気持ちの整理がついて落ち着いて、気持ちよくなる。そんな気持ちのよさのため、自分でそれをするの」
「そんな」
「人間はより強意刺激が加わると現在、それまでの辛さはどうでも良くなるの、うんと恥ずかしい思いをすると、普通のことはどうでも良くなる。例えば人前に出て話が出来ない人、まあ大抵は恥ずかしいからなんだけれど。そういう人が比較にならないくらいの恥ずかしい思いをすると、今まで出来なかった事が出来るようになる」
「なんだか、わからないんですけれど」
「じゃあ、うんとはずかしい事をしてみようか」急に孝夫の声が響く。
「えっ」
「大丈夫、ゲームだから」と言って理恵子が恵理子の顔をなでた。
それは目を閉じてという仕草だった。
そして恵理子は目を閉じた。
すると目に何かがあたった。
どうやら自分は目隠しをされているんだと言うことがわかった。
そして縛られていた手が持ち上げられた。
そしてそのまま立ち上がる。
さらに腕は持ち上げられて頭の上まで行く、そして腕が万歳しているように頭の上まで行くと。
「そのままにしてね」と理恵子がいう。
恵理子は自らの意思で腕を上げていなければならなくなる。
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