第3話  テレビ

テレビには誰も逆らうことが出来ない。

それは放送という完璧な武器を持っている。

テレビに節度のある表現があったのはもう昔の話だ。

そこに操作が入っているかは分らない、でも操作をすることは可能だ、報道はその最たる物だ。

どう報道するかで、その対象は善にも悪にもなる。

そしてそういう批判をかわすために、テレビは真実という物にこだわる。それが真実でさえあれば、何でも許される。

そういう考え方に節度はなくなった。

何年か前に誘拐事件が起こって、女子高生が殺された。

お金だけをとって、女子高生は帰ってこなかった。

そしてその数日後に女子高生は遺体で発見された。

死亡推定時刻は誘拐直後だった。

犯人は女子高生を殺したあとに、身代金の要求をしてきていたのだ。

女子高生の遺体がテレビに放映されてしまった。

それは明らかな放送事故であった。

ところがテレビはそれを逆手にとった。

さすがにそれ以上、女子高生の遺体が放映されることはなかったが、生前の生き生きとした写真や、どれほど素直でいい娘だったか特集を組んで放映され続けた。

そのせいで犯人への怒りが最高潮に達し、かなりの人々がにわか警察官となり、犯人捜しに奔走した。

おかげでこの種の事件としては異例の早さで犯人が逮捕された。

犯人の生い立ちなど同情すべき点も多々あり、さらに反省の色が大きく、十五年くらいの判決が言い渡されるだろうと思われていた。

ところが国民の声という圧力により犯人は死刑になった。

それを扇動したのはテレビだった。

テレビは本来なら十五年くらいの懲役を死刑にする力をもった事になる。

それからテレビは事実を伝えることが使命にとなった。

国民の意思を統一して正義を振りかざす。

それは、かつて新聞が担っていたことだ。

今はテレビに取って代わられて、テレビは何でも出来るようになった。

でも、だからこそテレビは真実だろうという事を伝えることが指命となった。

真実を伝えるために、自主規制と言う言葉は死語になり、誰も増長するテレビに逆らうことは出来なくなった。

たとえそれが真実でなかったとしても、誰も意義を唱えられない。

それからテレビの暴力的な報道は当たり前になった。

被害者、加害者をモザイクなし実名での報道は当たり前になり、それ批判しようものなら犯人をかばっているとか、犯人と何かつながりがあるのではと言われる。

無遠慮なテレビクルーに文句を言えば本末転倒、暴言被害者といわれ、あたかも加害者のような扱いを受ける。

誰もそんなテレビの報道という力に逆らえなくなっていた。

だから恵理子はこの天才坂本の写真撮影を拒否することなど出来なった。

拒否したら最後何を言われるか分らない。



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