第95話 【Mission on the Tokyo Bay】

1月4日。


万九郎は、まるでサラリーマンの仕事始めのように、この日から出勤しています。


午前8:30に、浦ノ崎別邸の門まで言ったら、サングラスに


「おはようございます、ワカ。お嬢から、楠久の例の場所まで行くようにと、言伝(コトヅテ)を頂いています。なお、汽車で行くようにとのことです」


汽車というのは、この場合、松浦鉄道のことです。


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万九郎は、松浦鉄道の福島口駅で、汽車を待っています。


福島口駅は、浦ノ崎駅の1つ長崎側、佐賀県の西の端にある駅です。


この駅が、浦ノ崎別邸からも、万九郎の自宅からも、最寄りになります。


この駅は、万九郎の家の隣りにある回漕店から、福島行きの船に乗る人と、福島から来て汽車に乗る人のために、作られたものです。


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駅の造りは、とても貧相です。


雨と直射日光を遮るための粗末な駅舎と、木造のベンチ、そしてトイレしか、ありません。


幸い、今日も天気が良く、今は引き潮とは言え凪いでおり、冷たい風が吹いていないため、待っているのは、あまり苦痛ではありません、


さっきから万九郎は、iPhoneで白猫プロジェクトをやっています。


万九郎は、目を画面に釘付けにして、夢中でプレイしています。


ぷぉーん


「お、汽車がトンネルから出たな。今日の白猫プロジェクトは、ここまでだ。残念だが」


万九郎は、立ち上がりました。


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楠久には、すぐに着きました。


料金は、乗った距離に関係なく、一律100円です。


佳菜に指示されたのは、以前、坂口さんと一緒に行った、あの不思議な世界への入口、すなわち改札みたいなのが並んでいる建物の前です。


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改札みたいなものの、前まで来ました。


「ワカ。お嬢は、すでに内部でお待ちです」


サングラスが、そう言いました。


「分かった。ありがとう」


万九郎は、すぐに改札みたいなものを通過します。


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「ワカ。お嬢は、西九州自動車道の楠久ジャンクションで、お待ちです」


別のサングラスが、言いました。


「了解。ありがとう」


(高速使うなら、なぜ汽車で越させたのだろう?)


万九郎の中に、少しだけ不安が、頭を持ち上げました。


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さっそく、楠久ジャンクションまで行きます。


(おっ、あれは佳菜の、真っ赤なコブラ)


ジャンクション入口の、小規模な駐車場に、確かに佳菜の、真っ赤なコブラが、停まっています。


(コブラを使うミッション?)


万九郎は、戸惑いながら、真っ赤なコブラに近寄りました。


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「やっと、来たわね。遅刻よ」


「浦ノ崎別邸には、午前8:30に着いたんだが」


「言い訳無用。サングラス、例のものを」


コブラの影からサングラスが現れ。


「ワカ。これを着てください」


と、スーツ入れに入った服を、手渡します。


「これに着替えないとダメな仕事ってことか」


「それについては、お嬢に聞いてください。着替えは、そこの公衆トイレで」


「お、おう」


そういうことなら、是非はありません。


万九郎は、渡されたスーツ入れを持って、公衆トイレに入りました。


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トイレに入ると、スーツ入れを開けてみました。


立派なスーツの上下が、入っています。


濃紺なのは、いわゆるリクルートスーツと同様ですが、仕立てが違います。


さっそく着替えて、手洗い所の鏡の前に立つと、恰幅のいいナイスガイが、そこにいました。


「スーツとか着るの初めてだけど、スーツの質がいいと、着こなしてる感じが出るものだな」


万九郎は、そう思いました。


毎年4月になると、新人社会人がデビューしますが、彼らはスーツに「着せられている」感じで、見て即、新人だと分かります。


だいたい半年ぐらい経って、やっとスーツに馴染むのです。


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万九郎は、コブラが停まっているところまで、戻ってきました。


「スーツがいいと、一応、社会人に見えるのね」


佳菜が、言いました。


万九郎は、何も言いません。


ただ、唖然としています。


今日の佳菜の格好が、凄いのです。


赤のワンピースは肩出しで、下も股下10cmぐらいしか、ありません。


しかも、身体の線がはっきりとして、正直言って、煽情的です。


下半身は、ワンピースの下が、黒いパンティーストッキングに包まれ、膝小僧のない、完璧過ぎる両脚です。


靴は、とても質のいいことが、万九郎にも一目で分かる、赤のハイヒールです。


上半身には、ワンピースの上に、同じく赤い、ショートスーツ型のジャケットを、羽織っています。


性を主張しながらも、上品。


完璧。完璧すぎます。


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万九郎は佳菜の姿を、食い入るように見ています。


佳菜は、平然としています。


男性から、そのような視線を向けられることに、とっくの昔に慣れているのです。


「万九郎」


「・・」


「あなた、私に同じことを二度、言わせるつもり?」


「あっ、すまん」


「あそこに、サングラスの事務所があるわ。そこで、今回のミッションについて説明するから」


「分かった」


スススっと歩いていっていまう佳菜に送れまいと、万九郎も、事務所がある建物の方に向かいます。


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サングラスの事務所の中は、綺麗に整頓されていました。


佳菜は、50インチ以上はある大型モニターの方に行くと、


「そこに座って」


と、会社のミーティングルームなどで見かける、パイプ型で背もたれのある椅子を、指さしました。


万九郎は、言われた通りに座ります。


「今回の舞台は、東京湾の沖合に浮かぶ豪華客船、ダイヤモンド・プリンセス。この船の乗客の中に、とても強い魔族か、それに類するものが、紛れ込んでいると、信頼できる筋から報告を貰ったの」


「魔族か・・」


「魔族かどうかは、今の時点では、断言できないけど、乗客たちに良からぬ影響を及ぼしているのは、事実よ」


「良からぬ影響?」


「これを見て」


佳菜は、自分のiPhoneを軽く操作して、巨大モニターに動画を再生し始めました。


「この船は元々、いわゆる上級国民たちの娯楽の場として、ごく限られた人たちだけに知られていたわ」


上級国民とは、一部の政治家、成功した事業家、巨大な土地を有する、極少数の地主、その他、各業界の最上位の成功者のことです。


万九郎には、もちろん、関係のない世界です。


「彼ら、彼女らが、ギャンブルや性的な秘め事を楽しむ場所だったの」


「だった?」


「しばらく前から、Enlightenment(敢えて訳すなら『啓蒙』)と呼ばれる、新種の麻薬が、この船で取引され、使われるようになったのよ」


「麻薬!?」


万九郎は、アメリカに滞在していたことがありますが、麻薬とは全く、縁がありません。


「私も、麻薬と聞いて、わざわざ松浦家が対応する必要があるのか、考えたわ」


「ああ」


「でも、その根源に、魔族らしき者が絡んでいるとなると、もはや警察も公安も、対応できない。だから今回は私が、あなたのパートナーをすることに、したのよ」


(なるほど)


松浦家の次期当主である佳菜が、直々にミッションに参加することが、万九郎には不思議でしたが、納得できました。


「次に、ここから出発する理由」


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「ダイヤモンド・プリンセスは、東京湾の沖合、アクアラインよりは東に停泊しているわ。一般人は、どこからも視認できない場所」


「この船に行くには、お台場の近く、東京国際グループ・ターミナル駅の少し先にある埠頭(フトウ)に、決められた時間の範囲内に到着する必要があるの」


「私たちのような初見(あるいは一見)には、厳しいドレスコードが適用されるわ。当然、そこに行く車にも、説得力が必要なの」


「なるほど。だからコブラと、この服装ってわけか」


「船の乗客たちの格好も、似たようなものよ。もっとエゲツナイのも覚悟して。さっきの動画では見せなかったけど、Enlightenmentを服用した彼ら、彼女らは、もはや性に飢えた獣よ」


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「それで、この埠頭に、時間通りに行くためには、飛行機や高速道路、ましてや首都高なんて使ってられないわ。だから、私たちは、ここから行くのよ」


「よく、分からないんだが」


「仕方ないわ。あなたは、人類の中でも格別に優秀だけど、普通の地球人だもの」


「というとことは・・」


「お祖母様とお母様が作った、この不思議な世界には、空間と時間を操作する仕組みがあるの」


「そんなことを、俺に言ってしまって、いいのか?」


「それを起動できるのは、松浦家の者だけよ」


「そうか。しかし・・空間、つまり距離なら俺でも、テレポートでどうにかできそうだが、時間に干渉するとか、とてつもないな」


「これは、お祖母様の母星でも、極秘扱いだったらしいわ」


「だろうな。時間に干渉するのは、よく分からないが、かなりリスクを伴いそうだ」


「これ以上、詳しい話をする気はないし、私には、できないわ。さっそく、今回のミッションを開始しましょう」


「おう」


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佳菜のコブラに、乗り込みます。


運転席は当然、佳菜。


万九郎は、助手席に座りました。


佳菜が、キーをハンドルの中央に差し入れ、エンジンを始動させます。


直後、右手でギアを操作し、コブラが発進しました。


西九州自動車道に合流するまでは、緩やかな速度です。


いったん合流すると、また佳菜はギアを連続的に操作して、あっという間に、とんでもない速度で、走り始めました。


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(対向車が、全くいないな)


(西九州自動車道は松浦領だけど、不思議な世界だからできることね)


2人は、声を出さずに意思疎通しています。


(さっき、時間に干渉すると言ったが・・)


(お母様が、例のLaputaから持ち込んだ仕組みを使うだけよ。私も正直、どのような物理則で実現されるのか、分からないわ)


(佳菜でもか・・)


(時間に干渉するって。要するにタイムマシンでしょ。タイムマシンを作れたのは、宇宙でも極一部の星だけだって、お祖母様が言ってたわ)


(ドクは?)


(あれは映画の話で、あの車、エイドリアンで実際にタイムトラベルしたのを、私たちは誰も見ていないわ)


(そういや、そうか)


(お祖母様でも、詳しい原理は分からないそうよ。そんなものを使うのは、今回一度きりよ。お祖母様は二度と、許さないでしょう)


(それほどの、ものか)


(それほどの物よ。地球生まれの異星人である私でさえ分からないんだから、地球には早すぎるのよ。地球は、知的生命体の進化レベルでは最下位らしいから)


(そうか・・)


宇宙のことは、万九郎には、分かりません。


「まあ、俺にできることを、するだけだ」


「そうね」


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今日の天気は、快晴です。


1月初旬だというのに、風が冷たくないです。


「この車はオープンカーなのに、快適だな」


「そういうものよ」


2人を乗せたコブラが、真っ直ぐな西九州自動車道を、爆走しています。


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「おっ!?」


万九郎は、思わず、声を上げました。


つい1ナノ秒前まで、真っ赤なコブラは、朝の晴天の九州自動車道を走っていました。


それが今は、夜になっています。明るいのは、道路の左右の照明だけです。


「どうなってるんだ、こりゃ?」


「時間に干渉した結果よ。さっきまでは午前10:25、今は午後8:25。国道8号を走っているわ。右手がお台場、少し先が潮風公園。もう少ししたら左折して、東京クルーズ・ターミナル駅を過ぎたところで、また左折。これで例の埠頭に、制限時間の20:30~20:45までに着けるはずよ」


佳菜が、当たり前のことのように、言いました。


(お台場か・・)


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万九郎は、関東の国立大学に行きましたが、茨城県南西部でした。


学生の時に、稀に東京に出ることもありましたが、東京には基本的に、あまり詳しくありません。


東京に出る用事というのも、3カ月に1回ぐらいの割合で、吉原に行っていたのが、ほとんどです。


書籍は、大学図書館で探し、大抵、見つかりました。

大学院になると、まだ日本語化されていない開発関係の書籍を探すため、秋葉原や紀伊国屋に行くことも、ありました。


二位田原1佐による猛訓練の後、アメリカに渡って、エトランゼ(étranger)として傭兵式のトレーニングを2年弱、みっちり受けたせいで、大学入学が他の学生より2年遅く、それにより恋人どころか友人も、1人もいなかったのです。


アルバイトで貯めたお金を風俗に使うのは、むしろ健全でした。


その結果、万九郎の東京に関する知識は、主に東京の東側についてのものです。


お台場など、名前は聞いたことはありましたが、自分には関係のない、綺羅びやかな成功者たちが行く場所だと、思っていました。


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東京クルーズ・ターミナル駅の出口が、一瞬、見えたと思ったら、コブラが左折しました。


「すぐに埠頭に着くわ。降りた後、何があっても、平常心で対応して」


「分かった」


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コブラが、駐車場に入りました。


佳菜は、駐車場の端の方にコブラを入れると、停車しました。


「行くわよ」


「ああ」


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ドアを開けてコブラから出ると、夜なのにサングラスを掛けている男が2人、いました。


「今日の月は」


男の1人が、言います。


「十六夜(イザヨイ)」


佳菜が、応じました。


(下弦の月が出ているが、合言葉なのだな)


万九郎は、そう思いました。


「おい、連れて行け」


もう1人の男が、佳菜と万九郎に近づき、


「ついて来い」


それだけ言うと、スタスタと歩き出しました。


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暗黒の夜の海に、船が浮いています。


(中型のクルーザーか)


「今日の新参は、今のところ、あんたら2人だけだ。船室に入れ」


男は、それだけ言うと、立ち去りました。


「悪趣味ね」


「ヤクザか、そのフロントだな。サングラス部隊には、とても入れんだろ」


「当然よ。サングラスは例外なく、一流大学を出て、松浦家傘下の証券会社で海外送りになって、優秀な成績を残した者が、佐世保の米海軍の縁故で、アメリカの空軍に入隊して、そして生き残った者たちだけで構成されているわ」


「ああ。そう言えば、そういう話だったな」


「サングラスを数人、先にダイヤモンド・プリンセスに潜入させているわ」


「そうなのか」


「私たちが泊まる部屋も、確保済みよ」


「至れり尽くせりだな」


「それが、彼らの仕事。私たちは、彼らがやれないことを、やることになるわ」


「やれるだけのことは、やるつもりだ」


佳菜と万九郎が話をしているうちに、クルーザーが発進しました。


どうやら、今日の新参は、2人だけのようです。


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船室では、佳菜は何も、言いません。


万九郎も、未体験のミッションに、必然的に寡黙になっています。


そして、20分ぐらいが過ぎた頃、


「出てこい」


船室の外から、声が聞こえました。


佳菜と万九郎は、粛々と船室を出て、船の甲板(デッキ)に出ました。


そして、前方を見ると、もうクルーザーは豪華客船に十分に近づいていました。


真っ黒で冷たい海の上に、真っ黒で巨大な鉄の塊が、聳(ソビ)え立っています。


船上は灯りで綺羅びやかはずなのに、ただ波と風と、クルーザーの、低いエンジン音が聞こえるだけです。


とんでもないサイズの、黒金のゴーレムが、内部で魔力を循環させながら、じっとしているようにも見えます。


少なくとも、万九郎は、そのような印象を持ちました。


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バサッ


上からロープラダー(避難用などに用いられる、柔らかい梯子)が、投げ下ろされたようです。


「これで乗り込め」


ガラの悪いサングラスの男が、言いました。


(飛翔魔導なら一瞬だが、こちらの能力を知られるわけにも行かないか)


万九郎が、そう思っている間にも、佳菜はさっさと、ロープラダーを器用に登っていきます。


(佳菜も、同じ考えか)


万九郎も、ロープラダーに手をかけると、力強く登って行きます。


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ロープラダーを登り終えると、豪華客船全部の柵を握って、一気にダイヤモンド・プリンセスのデッキに降り立ちました。


もちろん、音は立てていません。


すでに、佳菜もいます。


海風が、冷たいです。


月が、出ています。


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「お嬢、ワカ。サングラスあの12号、ぽの257号です。今回のミッションで、この船に先行して侵入し、斥候として活動してきました」


サングラスがいきなり現れたので、万九郎は内心、少し驚きました。


「現状を報告しなさい」


「はい。今のところ、計画通りです。お二人の客室も、それぞれ別に確保しています」


「それぞれの客室に案内して」


「御意」


(御意)


万九郎も思わず、心の中で、言ったのです。


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万九郎は、サングラスの1人の後を、続いて歩いています。


「俺には、サングラスの見分けが付かないんだが、あんたはどっちのサングラスだっけ?」


「ぽの257号ですよ、一目瞭然じゃないですか」


「いや・・そうなのか?」


「そうですよ。ワカも、我々と長くいると、自然に分かるようになります」


「そういう、ものか」


「はい」


(サル山の猿みたいな話だな)


と、万九郎は思いましたが、もちろん口に出して言ったりしません。


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「こちらです」


ぽの257号が、立ち止まって、言いました。


「ほう」


白い壁に、木製の立派なドアが、上品です。


ドアには、取手(トッテ)らしきものが、ありません。


代わりに、万九郎の胸より低い位置に、数字が並んだボードがあります。


「キーワードを入力すると、ドアは自動で開きます」


ぽの257号はそう言うと、片手の指でささっと、いくつかの数字を押しました。


「137582」


「そうです」


「了解。覚えたよ」


そう言う間にも、ドアが引き戸式に開いていきます。


「豪華客船で、このタイプのドアは、珍しいんじゃないか?」


「ダイヤモンド・プリンセスは、船籍はイギリスですが、造られたのは日本なんですよ」


「なるほど」


「では、中に入って、確認してください」


「うん」


万九郎は、そう言うと、客室の中に、足を踏み入れました。


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「おう・・」


万九郎は、思わず、溜め息を漏らしていました。


壁は清潔感溢れる白。床は、高級感溢れる絨毯。


それ以外は、ほとんどが木製です。


それらを照らす照明は、間接照明になっており、とても目に優しいです。


「これは・・贅沢だな」


「お嬢の客室は、もっと凄いですよ。最高級の客室ですから」


「まあ、佳菜なら当然か。俺には、これでも十分過ぎる」


「ここはリビングです。寝室、ダイニング、キッチンは当然、別にあります。風呂とトイレも凄いですよ」


ぽの257号は万九郎を、それらの部屋に案内しました。


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「一時的とは言え、1人で住むのが申し訳なくなるほど、贅沢だな」


「この船の客にとっては、これでも普通なのでしょう」


「上級国民か」


「ワカや我々とは、普段から住んでいる世界が、違うのだと思います」


「そうだな。で、この後のスケジュールは、決まっているのか?」


「お嬢は、この船の各所に潜入させているサングラスたちからの報告を、まとめていらっしゃいます」


「そうか。まだ21:30だから、俺は、この船の中を、少し見に行くが、いいか?夜中までには、ここに戻るつもりだが」


「はい。お嬢に、そのように伝えます」


「では、行って来る」


「ご武運を」


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自分の船室を出て、しばらく歩いていると、綺麗な白い壁に、地下鉄にあるような現在位置入りの地図が埋め込まれていました。


地図の背面の照明があり、とても見やすい作りです。


万九郎は、その地図でエレベーターの場所を確認し、そこに最短距離で歩いて行きます。


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エレベーターのドアが、3つ並んで設置されている場所に、来ました。


ここに来るまで、誰とも、すれ違いませんでした。


(監視カメラだらけだな。中央制御室でカメラ映像をモニターしているのだろう)


もちろん、万九郎も一切、あやしい素振りは、見せていません。


各エレベーターのドアの横にある上下の三角形の点灯状況を素早く目視し、上の方の階に行くドアの前に立ちます。


そのドアが、開きました。


エレベーターの中には、誰も乗っていません。


(常連は皆、とっくにお楽しみの場所に移動済みだな。まずは、最上階に行くか)


18階の四角いボタンを。押します。


人たるもの、やましいことは、下の方の階でやるに決まっていると、万九郎は思っています。


エレベーターが、上昇し始めました。


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ピーン


エレベーターが18階に着き、扉が開きました。


「スカイ」


どうやら、この階はスカイ・デッキという名前のようです。


(最上階だけあって、昼間に日光を浴びながら、スポーツを楽しむためのデッキか)


22:00に近い今は、誰もいません。


(階段で、1階ずつ見ていくか)


万九郎は、階段を見つけて、1階ずつ下に降り始めました。


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17階も同じく「スカイ」。


16階は「スポーツ」。


どちらも、誰もいませんでした。


15階は「サン」。


フィットネス、エアロビクス、プールなどがある階のようです。


この階にも、誰もいません。


万九郎は、さらに階段を降ります。


14階は「リド」。


この階には、人がまばらですが、いました。


ピザやハンバーガー、アイスクリームなど、軽食を提供している階のようです。


(そう言えば、朝、家で食べてから、何も食っていなかったな)


万九郎は、ハンバーガースタンドに、立ち寄ります。


「ハンバーガー。適当なのを、1つくれ」


そう注文して、カウンターの端の椅子に、座りました。


3分もしないうちに、綺麗でおっぱいが大きい女性が、注文した品を持ってきました。


「どうぞ。デラックスハンバーガーです。コークはミドルサイズを、お持ちしました」


「ありがとう。ところで、レジが見当たらないようだが」


「お客様は当店、初めてのご利用なのですね。この船をご利用になるスペシャルな方々には、この船以外の様々な場所で、当方に多大な利益を齎(モタラ)して頂いております。したがって、当店では、すべての品目を無料で、お楽しみ頂いております」


「なるほど」


上級国民のスペシャルな世界の一端に初めて触れて、万九郎は内心、たじろぎながらも、なんとか応じました。


(いかんな。この船の中では、慣れるまで人との会話は、できる限りやらないようにしよう)


そう思いながら食べたデラックスハンバーガーは、とても美味しかったです。


(さあ、行くか)


空腹を満たした万九郎は、また階段の方に向かいます。


############################


12階「アロハ」。


「ここから、客室エリアなのか」


万九郎は、呟きました。


すでに 22:00を過ぎており、デッキに出ている人は、誰もいません。


万九郎は、さらに階段を下っていきます。


11階、「バハ」。

10階、「カリブ」。

9階、「ドルフィン」。


いずれも、客室デッキでした。


ただ、下に降りるほど、客室もデッキ自体も、贅沢になっているようです。


万九郎は、自分の部屋が「ドルフィン」にあることを確認し、さらに階段を下ります。


8階、「エメラルド」。


この階は。上4階とは明らかに異なっていました。


まず、客室のドアと、隣の客室のドアが、ずいぶん離れています。


当然、客室の中も、とても広いのでしょう。


(上級国民の中でも、格別にスペシャルな層向けってことか。佳菜の客室も、この階だろうな)


「こんなところをウロウロしてたら、目を付けられてしまうな」


万九郎は、このデッキを少しだけ歩いた後、階段に戻ろうと、振り返りました。


「あら、いい男」


そこには、黒のドレスを着た、おっぱいの大きい美人が、顔に微笑みを浮かべて、立っていました。


万九郎は、女と正面で向かい合いました。


(なんという、いやらしい身体だ)


女は、何もしなくても、ねっとりした色気を発しています。


(身長は、アスカや佳菜と同じくらい。168cmってとこか)


「そんなに警戒しないで。それに、あなた。下の階に向かうつもりなんでしょ。今のままで行くと、いくらあなたでも、あの黒い靄(モヤ)を吸い込んで、自分を失ってしまうわよ」


「黒い靄?」


「あなたたちが、麻薬だと思っているものよ」


「Enlightenmentか?」


「誰が名付けたか知らないけど、なかなか、洒落が効いてるでしょ?」


「あなたは、それが何かを、知っているのか?」


「私は、藍染(アイゾメ)明子よ」


「ああ、すまん。俺は、万(ヨロズ)万九郎という者だ」


「万九郎。いい名前だわ。それで万九郎、今日は一人?」


「ああ。今は、俺一人だ」


「それなら、私の部屋にいらっしゃいな。あれのこと、もっと知りたいんでしょ。私も、あなたのことを、もっと知りたいわ」


「いいのか?」


「女が、誘っているのよ?」


「分かった」


「じゃ、行きましょ。こっちよ」


万九郎は、女、藍染明子の先導に従って、歩き出しました。


############################


「ここよ」


藍染明子が、1つのドアの前で立ち止まり、言いました。


「凄いな」


万九郎は、正直に言いました。


このデッキに入ってから、上の階までは白かった壁が、木製になっています。


絨毯も、格段に質が良くなったのが、万九郎にも分かります。


そして、そのドア。


万九郎の船室のドアと同じように木製ですが、ずっしりとした重みが感じられます。


しかも、1本の木から切り出されているようです。


「凄すぎて、正直、少し気後れしている」


「万九郎の収入は、高くないの?」


「普通のサラリーマンに、毛が生えた程度だ」


「ふーん、不思議ね。とにかく、中に入って」


藍染明子に言われるまま、万九郎は、瀟洒なドアをくぐりました。


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「凄いな」


「また、同じこと言ってるわよ」


「いや。俺の客室でも、俺にはとても贅沢だったんだが、ここは別次元だ」


「そう?」


「なにしろ、広い。天井が、高い。俺には、上級国民の世界は分からないんだが、全てに、とんでもなく金がかかってるということだけは、分かる」


「万九郎が望むなら、今からここに、引っ越してきても、いいのよ」


「魅力的な話だが、俺は今の自分の客室にすら、まだ慣れていないんだ。それに、雇い主の許可が、下りない」


「雇い主?万九郎は、あのときの女と、一緒じゃないの?」


「あのとき?」


「万九郎は、とても強い女と一緒だったでしょ。今の万九郎より強い・・」


「アスカのことか?しかし何故、アスカを知っているんだ?」


「アスカっていうのね、あの女。今回、アスカは、いないの?」


「すまん。詳しいことは、言えないんだ。それより、なぜ藍染さんが、アスカを知っているのか、教えてくれないか?」


「こっちもまだ、詳しいことは言えないのよ。だけど、私は、万九郎の敵じゃないわ。それと、私のことは、明子って呼んで」


「分かった」


############################


「アスカと一緒だったとき、万九郎の存在は、閉じていた。今は緩みがあるから、ここより下の階に、今のままで行くのは、自殺行為なの」


「Enlightenmentの黒い靄が、身体に入ってくると?」


「身体と心、両方が汚染されるのよ」


「・・」


「でも、私が万九郎と一緒に行けば、汚染を回避できるわ」


「一緒に?」


「嫌かしら?」


「俺個人としては、助かる。それに、明子からは悪意は感じられない。ただ」


「ただ?」


「雇い主に一応、連絡しておかないと」


「分かったわ。変更がなければ、明日の午後3時に、この部屋に来て」


「了解した」


その後、iPhoneに互いの電話番号を登録して、万九郎は、明子の客室を辞したのです。


############################


話が長くなりそうですので、ここでいったん、区切ります。
















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