第32話 ひざまずく男


 ローグラン侯爵は端整な口元を固く引き結び、わずかに緑色を帯びた目でフィオナを見つめている。


 ……また、フィオナの心臓が大きく跳ねる。密かな高揚を悟られたくなくて、冷ややかな微笑みで押し隠した。


 ローグラン侯爵はフィオナの前で足を止めた。

 まだ迷いがあるのか、目を伏せて大きく息を吐く。しかしそれで覚悟を決めたようで、ゆっくりと片膝を床につけた。


 夜会の会場の真ん中だ。多くの貴族たちが見ている。

 周囲がさらにざわつく中、ローグラン侯爵は優雅に床に広がるフィオナのドレスの裾を拾い上げ、恭しく口付けをした。


「……この後に、あなたに求婚すればいいのか?」


 顔を伏せたまま、ローグラン侯爵は小さくつぶやく。

 周囲の貴族たちには聞こえていないだろう。隣に立つシリルにだけは聞こえているが、麗しい微笑みは崩さなかった。

 フィオナは弟の腕から手を離し、ひらりと扇子を開いた。


「あら、私はその前に『愛を乞え』と申し上げましたわよ? お父様の話では、みじめであればあるほど盛り上がるんですって。そうよね、シリル?」

「えっ? うん、まあ、父上はそう言っていたけど、できる範囲でいいと思うなぁ……」

「シリルは誰の味方をしているのよ。せっかくですもの。ローグラン侯爵には派手にやっていただきたいわ」

「断られる前提で、私にそこまで道化に徹しろと?」

「心を偽ることは慣れているでしょう? 私をがっかりさせないで」

「…………そうだな。心を偽ることは慣れている。あなたの名誉のためにしろというのなら、私は忠誠を裏切ってでもあなたにかしずこう。だが…………俺は本心を伝えることには慣れていないんだ」


 床を見つめ、ローグラン侯爵は自嘲する様に笑い、発音がわずかに変わる。南部の訛りだ。初めて聞くその発音はどこか耳に心地よい。

 フィオナの耳に余韻が残る。扇子の動きがいつの間にか止まっていた。


 やがてローグラン侯爵はかすかなため息をつき、しっかりと顔を上げた。白い目にもう迷いはない。

 微笑みを保つフィオナを見つめる顔にいつもの笑みはなく、真剣な顔をしていた。


「フィオナ嬢。若く輝かしいあなたを愛している。裏切りと偽りしか纏えない愚かな私に慈悲を与えてほしい。我がローグランをあなたに捧げてもいい。……あなたを妻に迎えたい」


 はっきりとした言葉に、周囲の貴族たちは息を呑んだ。

 再燃したばかりの噂を思い出し、フィオナの表情を探ろうとし、反応を待つ。


 周囲がじれるほど、フィオナは反応を示さない。無言のままひざまずく男を見ていた。

 やがて……フィオナは微笑んだ。

 艶やかでいながら優しげな笑みに、ローグラン侯爵もつられたように表情が緩む。傷跡の残る口元が笑みの形になりかけた時、紅で彩られた美しい唇が動いた。



「————あなただけはお断りよ」



 短い言葉だった。微笑みは変わらないのに、緑白の目を見下す眼差しは冷たい。

 ローグラン侯爵の表情が一瞬で強張った。

 空気を失って水に溺れているかのように顔がわずかに歪んだ。呼吸が乱れ、やがて大きく息を吐いてうつむく。


 カーバイン公爵が発案した台本通りの展開で進んでいた。

 しかし……ローグラン侯爵は本当に深く傷つき、絶望したように見えた。顔を伏せながら、震える手を握り締めていた。何かを押さえ込むように唇を固く引き結ぶ。

 青い顔を伏せたまま立ち上がろうとしたとき、フィオナが微笑みながら再び口を開いた。


「ねえ、ローグラン侯爵。言葉を間違えているわ。あなたがいうべきだったのは『後妻になってくれ』でしょう? 意図的に伏せたのなら、意外に不誠実な人でがっかりだわ」

「え、姉さん、その話は……!」


 周囲に目を配りながら、シリルが慌てる。

 しかし弟の小声を聞き流し、フィオナはすっと笑みを消した。


「領地で妻を迎えていた事実を伏せたまま、私に『妻に迎えたい』だなんて……亡くなった女性にも失礼よ」


 静かな口調なのに、声は氷のように硬く冷たい。

 フィオナは冷静だった。妻だった女性の素性は語らず、ただ領地にいる頃に結婚していたのだと匂わせる言葉を選んでいる。

 成り行きを見守っている貴族たちには、それで十分だった。

 爵位を持つ貴族は、結婚は早いことが多い。やはり妻はいたのか、と思うだけだ。

 フィオナは周囲の騒めきを聞きながら、片膝をついている男を睨みつけ、素っ気なく一歩離れた。


「私は、誰かの身代わりにはなる気はありません」

「……あなたが、身代わり?」


 ふと目を上げたローグラン侯爵は、なぜか驚いた顔をする。

 それから再び顔を伏せた。

 肩が震えている。よく見ると笑っていた。薄い笑みではなく、堪えきれずに声を上げて。


「ローグラン侯爵! なぜ笑うの?!」

「思いもよらない誤解だな! フィオナ嬢、あなたはあの人とは全く違う。姿としては、確かに似ているところがある。初めてお会いした頃は雰囲気も似ていた。だが、今は全く違う。あなたは決してあきらめないから」

「それが何だというの!?」

「褒めているのだよ。常に前を向いて、冷静に、ときに我を忘れながら、立ちふさがる壁で進めなくなっても、必ず前に進むための道を探す。普通ならうつむいてしまうときでも、次の瞬間には最良を探そうとする。……あなたほど強くまぶしい人はいない」


 ローグラン侯爵は顔を上げた。

 冷ややかで酷薄な笑みではなく、暗い絶望の目でもなく……優しいほど穏やかな顔だった。


「最初はあの人の面影のある子供に同情し、害悪を排除するだけだった。だが、いつからか目を奪われていた。あなたと話をするのは楽しかったよ。私を憎んで冷たく睨んでいるのに、レモンの話に興味を隠せないあなたはとても可愛らしかった」

「レ、レモンのことは今は関係ないでしょう!」

「私にはとても大切な思い出だ。……あの瞬間、叶わぬ夢を見てしまったほどに」


 微笑みながらローグラン侯爵は立ち上がった。

 目元に落ちてきた癖のある黒髪をかきあげ、口をギュッと引き結んだフィオナに丁寧な礼をした。


「今までのお詫びに、私の個人所有の領地を献上しよう。後日書類をお送りする。それでお別れだ」


 顔を上げたローグラン侯爵は、フィオナを見つめた。

 どちらかといえば小柄で、でもそれを感じさせない美しい姿勢と毅然とした態度。強い意志を象徴するはっきりとした目つき。それら全てを目に焼き付けているようだ。


 しかしすぐに目を逸らし、背を向ける。

 求婚を断られた不幸な男にしては堂々とした態度で、フィオナから離れ、夜会の会場も後にした。

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