第31話 道化


「カーバインは、我がローグランを滅ぼすつもりか?」

「ははは。いやだな。僕たちは、別に滅亡まで望むつもりはありませんよ」


 シリルが穏やかに答えたが、それをやんわりと否定するように、フィオナが声を上げて笑った。


「ローグラン侯爵ともあろう人が、察しが悪いわね! あなたは私の婚約を散々壊してきたでしょう? カーバインが、何事もなかったように見逃すと思っていましたの?」


 フィオナは艶然と笑いながら表情を消した白翡翠の目を見上げ、唇の端をすっと吊り上げた。


「カーバインの女は、おとなしくはありませんわよ? その覚悟があって懺悔をしたのではなくて?」

「相応の覚悟はしている。だが、私は当主だ。ローグランを滅ぼされるのを黙って見ているつもりはない」

「そうね、そうでなければつまらないわ。でもこちらも黙って引けないのよ。私の縁談がまた壊れてしまいそうだから」


 そう言ってフィオナがため息をつくと、黒髪の侯爵はまた眉を動かした。

 しかしすぐには何も言わず、手紙をポケットに戻す。口を開いたのは、小さく息を吐いてからだった。


「あなたの縁談を壊すつもりはない。ルバート伯爵には私から説明しておこう」

「そんなことをしなくても、もっと効果的な方法があるそうですわよ?」


 フィオナは扇子を開いて、首を少し傾げる。

 背に流している銀髪がさらりと動き、幾筋か肩からこぼれ落ち、ローグラン侯爵の目は、銀色の髪の動きを一瞬追った。


 この男は、いつもフィオナの銀髪を最初に見ていた。

 亡き妻と似た銀髪を見つめ、全く違っているであろうエメラルドグリーンの目と顔を見て、それから口元を歪めながら薄く笑っていた。

 何も言わず、無関心を装い、でも賞賛するように。


 フィオナは今更そう気付く。

 ……なんて腹立たしい。

 フィオナは、しかし内心の乱れを全く感じさせない微笑みのまま、扇子を閉じる。

 優雅に立ち上がり、ローグラン侯爵を見上げながらそっと囁いた。


「父は、あなたに道化を演じさせるだけで収めよ、と言うの」

「……道化?」

「この場でひざまずいて、できるだけみじめに私に愛を乞い、結婚してほしいとすがりついてくださる? もちろん私はお断りしますけれど」

「それは……どういう茶番だ?」

「単純な交換条件よ。誇り高いローグランの当主が、この場で屈辱的な道化を演じること。それだけでカーバインは兵を収めます。あなたの引退も求めません」


 眉をひそめたローグラン侯爵は、黙り込む。

 その間も、頭の中ではさまざまな計算がされているだろう。

 緑色を帯びた白い目がフィオナを見つめ、やがて傷跡のある口元が笑みの形をとる。途端に、いつもの余裕のある表情が戻っていた。


「私が拒むとは考えないのか? 我がローグランは、そう簡単に滅ぼされるものではないぞ」

「容易い相手ではないのはよく理解しています。でも、カーバインが抱えている兵も腰抜ではないの。……ローグランをすり潰すまで耐えてくれるでしょう」


 フィオナは弟を見遣る。

 姉の意図を察したシリルは、姉の前に立って腕を差し出した。フィオナは優雅に腕に手をかけ、ローグラン侯爵に流し目を送る。


「考える時間を少し差し上げるけれど、すぐに決めてくださるかしら。私、これから主催者に挨拶をしに行きます。私が広間を横切る間に選択してくださる? 何事もなく向こうの壁に着いてしまったら、ローグランは滅びるでしょう」


 フィオナは感情が読めない白翡翠のような目を見上げ、そっと囁いた。


「誇りを捨てて、愛を乞いながら拒まれるみじめな男を演じるか、誇りを選んで一族もろとも滅ぼされるか。好きな方を選んでくださいませ。……それから、あなたが誰の依頼を受けたのかは聞かないわ」


 扇子を閉じ、フィオナは前へと向き直る。

 シリルはローグラン侯爵に軽い目礼を送り、姉と共に歩き始めた。




 夜会の会場は静かだった。

 気にしていないふりをするための、表面だけの会話を続ける貴族すらいない。美しいカーバイン家の姉弟を見つめ、進む道を開け、それからまだ立ち尽くしているローグラン侯爵をちらちらと見ていた。


「……あの男、動かないみたいね」

「やっぱり条件が厳しすぎたんじゃないかなぁ。あの人、騎士だったんだろう? そういう人にひざまずけ、なんてとんでもない要求だと思うよ。当主としても、無様な姿を晒すわけにはいかないし」

「シリル、あなたはあの男の味方なの?」

「味方というわけじゃないけどね。僕も、人前で跪けなんて言われたら突っぱねそうだなぁと思って。姉さんだって、僕や父上がひざまずく屈辱より全面戦争を取るだろう?」

「……そうかもしれないわね。でも私が代わりにしろと言われれば、いくらでもひざまずけるわよ。カーバインを守れるのなら、簡単なことだもの!」

「あ、うん、姉さんならそうかもしれないね。……そういうところ、姉さんは強いなぁ……」


 シリルは感嘆のため息をつく。

 しかしその足取りは、顔見知りへの挨拶のために僅かに緩んでいた。

 おそらく、足を緩めるために細やかに挨拶をしているのだろう。

 そろそろ広間の真ん中に差し掛かろうとしている。このまま向こうの壁までたどり着くと、ローグランは一族諸共の滅亡となる。


 ローグラン侯爵はまだ動かない。

 誇り高い騎士上がりと言っても、そのくらいの打算はできる人物だと思っていた。だがこのまま騎士として、領主としての体面を選ぶのなら……正直、がっかりだ。

 笑顔に紛らわせながら、フィオナは密かにため息をついた。


 しかし再び目をあげた時、夜会の中にざわめきが起こった。

 道を開けながらカーバイン家の姉弟を見ていた貴族たちが、全員別のところを見ている。姉弟たちの背後——元いた場所の方向だ。

 フィオナの心臓が、どくりと跳ねる。

 きっと、期待しているのだ。……あの男に屈辱を与える瞬間を。


「フィオナ嬢」


 期待通りの、低い声が呼び止める。気のせいでなければ、いつもより固い。

 シリルが足を止め、フィオナも元来た方向を振り返りながら微笑む。ローグラン侯爵が少し青い顔で歩いて来るところだった。

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