第26話 腑抜けた男


「ごきげんよう。いい夜ですわね。……ローグラン侯爵」


 いつも通りの柔らかな声で声をかける。フィオナの美しい顔に浮かぶのは、艶やかな毒を含んだ微笑みだ。

 ローグラン侯爵は、ハッとしたように顔を動かした。

 虚ろだった白い目が一瞬で緊張を帯びた冷ややかなものに変わり、フィオナに目を向けながら右手がわずかに動き、誰であるかに気づいたのか、すぐに驚愕に染まる。

 一瞬手が動いた先にあるのは、左腕の袖口。夜会にふさわしく帯剣していない代わりに、何か武器を仕込んでいるのだろう。

 よりによって、それをフィオナの目の前でやってしまった。完全に虚をつかれた証だ。


 ……不敵すぎて腹が立つローグラン侯爵が、あんなに動揺している。

 フィオナは、深い満足を覚えた。

 思い切り嘲笑いたい衝動に駆られながら、それを抑えて静かに微笑む。そして、慌てたように立ち上がった男の前で足を止めた。


「久しぶりにお会いしたのに、少しも嬉しそうな顔をしてくれませんのね。二ヶ月ぶりかしら? 次の婚約者候補のことで頭がいっぱいで、私のことなんてどうでも良くなったのかもしれませんわね」

「……これは失礼した。フィオナ嬢」


 ようやく落ち着きを取り戻したのか、ローグラン侯爵は数歩下がってベンチを示す。

 フィオナは優雅に歩き、空いた場所に遠慮なく座った。

 まだどこか硬い顔の男を見上げ、それから男の肩越しに月を見上げた。


「美しい月なのに、あなたは楽しんでいたようには見えなかったわ。今度の婚約者候補はお若いご令嬢だそうね。もしかして、愛人の整理に苦労していらっしゃるの?」


 ローグラン侯爵の次の婚約者候補と噂になっている令嬢は、十代前半らしい。十歳で最初の婚約をしたフィオナにすれば、特に早すぎる年齢ではない。

 ただ、三十歳を超えているのにまだ後継者がいない貴族当主の婚約者としては若すぎる。

 後継者を得ることも、当主の義務とされているのに。

 そんな嘲笑を潜ませて、フィオナは無邪気そうに首を傾げる。耳に飾った銀細工が細かく揺れ、先端の宝石がキラキラと輝く。

 やや固かったローグラン侯爵の表情がわずかに変わり、いつもの隙のない微笑みが薄く浮かんだ。


「お言葉だが、私に愛人などいないよ」

「あら、もしかして、決まった愛人はいないの? 以前のドーバス侯爵家のオーディル様のご同類でしたのね! だからあの方の好みを熟知していたかしら」

「何のことやら」

「カーバインを甘く見ないでくださる? あなたがいろいろ動いていたことは把握していますのよ? ……私の婚約を、とても効率よく壊してくれたことも」


 フィオナは白い目を睨み、それから艶然と微笑んだ。

 ローグラン侯爵は何も答えない。だが、いつものように笑うこともなかった。

 肩すかしの気分だ。だが、よく見ればローグラン侯爵の顔色がいつもより悪い。

 まるで眠れない日が続いているかのような顔だ。声をかける前までの姿は、フィオナが知る不敵な人間らしくはなかったことを思い出す。


 ……この男は、体調を崩しているのかもしれない。フィオナはそう思い至る。

 武人のように体力に自信がありそうな男も、何か病を得ることもあるはずだ。もしそうなら、カーバイン家が付け込む隙が生じていることになる。

 もともと、ローグラン侯爵家は武人の家系だ。軍事力はともかく、はかりごとならカーバイン公爵家に一日の長がある。

 その中心にいる男の動きが鈍ったのなら、シリル一人でも勝てるかもしれない。


 フィオナの脳裏に、ローグラン家の没落の図が過ぎる。今なら、実現は難しくない。叩き潰すチャンスだ。

 そんな心躍る誘惑を、フィオナは扇子をゆったりと動かして押さえ込む。油断をして事を急いても、この男に喉笛を食いちぎられるだけだ。

 かろうじて自制したフィオナの微笑みをじっと見てたローグラン侯爵は、小さく息を吐いた。


「……そういえば、フィオナ嬢に新しい縁談の噂があるようだな」

「あら、そんな噂がありますの?」


 想定内の言葉だ。フィオナは余裕を持って、しかし表向きは驚いた顔をしてみせた。

 もちろん、ローグラン侯爵もそういう反応は予想していたようだ。傷痕の残る口元をわずかに歪め、淡々と言葉を続けた。


「ルバート伯爵は良い人物だ。どんな揺さぶりにもなびかなかった。今度こそ、あなたに結婚祝いを差し上げることになるだろう」


 フィオナは微笑みを保ったまま、扇子を動かす。

 ささやかな風は心地良いのに、急に背筋がヒヤリとした。

 やはり、この男はフィオナの縁談の情報を正確に把握している。そして既に手出しをしようとしたらしい。

 ……なんて腹立たしい。


 だが、フィオナは怒りに我を忘れる前に驚いていた。

 ローグラン侯爵が、暗躍しようとしたことをはっきりと口にしたのだ。そのことに驚いてしまった。

 少し迷い、フィオナは扇子を閉じた。


「それは、あなたがこれまでの悪事を白状した、と解釈していいのかしら?」

「……どうやら、口が滑ったようだな」

「ねえ、もしかして本当に若い妻を持てると浮かれているの? 結婚できる年齢になるのはあと三年はかかるのだから、我が国のためにも、もう少ししっかりしてくださる?」

「それは……フィオナ嬢は意外に私を買ってくれているのかな?」

「少なくとも、王家に忠実な貴族だと思っています」

「それは光栄だ。……だが、三年後にはすでに婚約は解消されているだろう」

「えっ、また解消する前提なの?」


 フィオナは思わず眉をひそめた。

 それからすぐに、微笑みながら言葉を続けた。


「いつまで若いつもりでいるのは見苦しいものですよ。本気で結婚するのなら、いい相手を推薦しましょうか? もちろん、我がカーバイン家や王家に有利になる女性ですけれど」

「……ありがたい申し出だが、私は結婚をするつもりはないのだよ。伯父には娘が二人いて、彼女たちには聡明な子供たちがいるから」


 一瞬苦笑を浮かべ、ローグラン侯爵はさらりと口にする。その言葉の内容に、フィオナは内心驚いた。

 前代のローグラン侯爵のことは知っている。娘しかいなかったから、爵位を甥に譲ったらしいことも確定事項として認識されている。

 だが、ローグラン領の内部のことはわからないことが多い。

 前代ローグラン侯爵の娘は二人いることも、彼女たちに子が複数いることも、きっとシリルだって知らないことだ。

 密かに警戒を強めつつ、フィオナは大袈裟にため息をついてみせた。


「そんなこと、ペラペラと喋っていいの? 腑抜けたふりがお上手ですのね」 

「……腑抜けか。振りだったらよかったのだが、あなたを見ていると、時々、無性に全てを懺悔したくなるのだよ。……今夜は特に」


 ローグラン侯爵はフィオナから目を逸らし、力なく苦笑する。

 それから月を見上げた。


「…………今日は、妻だった人の命日だから」


 ため息そのもののような声だった。

 フィオナは……耳を疑った。だがその言葉の意味をじっくり考え、これまで得てきた情報を頭の中で整理する。


 南部ローグラン領の中のことは、正確には把握できていない。

 だから婚約を繰り返す領主の過去も不明だ。だが……あり得ない話ではなかった。

 この男は今年で三十一歳らしい。

 ならば、侯爵となった時は二十三歳のはず。侯爵となった以降は、婚約と解消を繰り返しているが、それ以前に結婚していたとしてもおかしくはない。

 フィオナは用心深く男を見上げ、シリルが小悪魔のようだと誉めた無邪気な顔を作った。


「懺悔ついでに、亡くなった奥様の話を聞かせてくれるかしら?」

「面白いものではないよ」

「あなたのことは何でも面白いわ。秘密主義のローグラン家の情報ですもの」

「……では、私に命じてください」


 ローグラン侯爵は薄く微笑む。

 いつもの不敵な笑みではなく、静かで暗く、全てを諦めたような抑制的な微笑みだった。


「できれば、いつものあなたより優しい口調で……『ギィール、全てを話しなさい』と」


 緑を帯びた白い目は、まっすぐにフィオナを見ている。

 しかしフィオナは、ローグラン侯爵が自分を見ているとは思えなかった。フィオナに話しかけているようで、でも過去の誰かに語りかけているような……懇願しているような、そんな声だった。

 フィオナは目を閉じた。

 再び目を開いても、やはりローグラン侯爵は静かすぎる微笑みを浮かべている。

 だから、フィオナはゆっくりと扇子を動かす。顔を隠すように広げ、ことさら柔らかく艶やかに微笑んだ。


「いいわよ。お遊びに乗ってあげましょう。——ギィール、私に全てを話しなさい」

「あなたの望むままに」


 ローグラン侯爵は、貴人に対する騎士そのもののような恭しい礼をする。

 そこにいるのは、ローグラン侯爵ではない。かつて誰かに「ギィール」と名を呼ばれ、その人物にかしずいていた男に戻ったかのようだった。


「――昔話をしよう。十二年前……愚かな男が、今のあなたより少し若かった頃の話だ」

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