第25話 月夜の夜会
◇
フィオナに来たルバート伯爵との縁談は、婚約のための詳細な条件の詰めに入っていた。
持参金、支度金、将来生まれるであろう子が相続するもの、相続しないもの、フィオナの個人資産の扱い。
そういう資産に関するものの他に、婚姻に伴う契約事項も定めなければならない。お互いの愛人の扱いの規定は必須だとフィオナは考えているし、ルバート伯爵家側も、後継者を産むまでは愛人は禁止したいと主張するのは当然。
それなりに揉めて時間がかかるだろう。
フィオナはそう予想していたが、交渉に立ち会っているシリルは呑気に笑った。
「僕も、もう少し苦労すると思っていたんだけどね。びっくりするくらい何もないんだよ」
「何もないって、どういうこと?」
「もう、そのままだよ。……こういうところで話すことじゃないけど、本当にすごいんだ」
今夜の姉弟はヘルドア侯爵主催の夜会に来ている。少し離れたところでは、若い男女が目を輝かせながら二人をちらちらと見ている。
いつも通りの光景だ。
すっかり慣れてしまったシリルは、和やかな苦笑を姉に向けた。
「ルバート伯爵は、姉さんと結婚できるなら、愛人は持たないと宣誓してもいい、なんて言ってるんだよ。あそこまで惚れ込んでいるなんて思わなかったな」
「……とても素敵なことに聞こえるけれど、それでは、私が子を産めなかった時が困るのではないかしら?」
「うん、僕たちもそう思ったから、早まるなと止めたよ。でもあの人は、出生についてはいろいろ言われてきたから、そのせいかもしれないね。女伯の子だから、父親が誰であろうと問題ないはずなんだけど」
ルバート伯爵には、前国王の庶子の噂があった。
成長して顔立ちが父親に似てきたことで消えているが、そのことが一般の貴族にはない考え方に繋がっているのかもしれない。
ひとまずそう納得したフィオナは、ルバート伯爵の家族構成を思い浮かべながら首を傾げた。
「つまり……弟か、弟の子を後継者にするつもりなのかしら」
「そういうことだろうね。あ、もちろん、そうなった場合の姉さんの地位と財産についての事項も充実しているんだ。あの父上が、その検討で手一杯なくらい盛りだくさんなんだよ。姉さんは個人所有の領地が多いから、その辺の心配は全くいらないんだけどね」
ふうっと大きく息を吐き、シリルは通りかかった給仕を呼び止める。飲み物を受け取って、中身が葡萄酒であることを確かめてから姉を振り返った。
「普通の葡萄酒だけど、姉さんも飲む?」
「私はいらないわ。それより、向こうに珍しいフルーツがあったから見に行ってみるわね」
「あ、だったら僕も行くよ」
「シリルはここにいていいわよ。今夜は情報収集に来ているのでしょう? 私はあちらの方々をお誘いして見るから。……皆さん、私と一緒に軽食コーナーに行ってくださるかしら?」
「フィオナお姉様のお誘いなら、喜んで!」
声をかけられた年若い令嬢たちは、頬を染めてこくこくと頷く。
フィオナが柔らかく微笑んで歩き始めると、周辺の他の令嬢たちも嬉しそうに後に従った。
「はは……令嬢たちを根こそぎ連れていっちゃったよ……」
シリルが苦笑いを浮かべながらつぶやく。
一方、残されてしまった若い男性たちも落ち着かない。お目当ての令嬢を追うべきかとそわそわした末に、さり気なさを装って移動した。
フィオナとその一行が訪れた軽食コーナーは、あっという間に賑やかな場所になった。
すぐに主催者のヘルドア侯爵が飛んで来て、並べている果物の説明を始める。領地の特産物のようで、これから王都で売り出すつもりのようだ。
もちろん、そういう意図は織り込み済み。
微笑みを保ったフィオナは、興味の赴くままに果物を食べていく。
令嬢たちはその美味しそうな表情にうっとりとし、若い男たちは口紅で彩られた薄い唇の動きに扇情的な色香を感じて思わず見惚れた。
「フィオナ嬢、我が領の誇る果物はいかがかな?」
「とても美味しいわ。皆様も、ぜひ召し上がってみて」
フィオナは周囲を見ながら微笑む。
シリルがこの場にいれば、演技を超えた満足そうな微笑みにますます苦笑を深めただろう。だが、この場にいる人々はフィオナの素顔を知らない。単純に美しい公爵令嬢の微笑みに心奪われ、フィオナが褒めた果物に興味を抱く。
信奉者たちは、群がるように果物を食べ比べ始めた。
楽しげな笑い声が広がり、控えめだった令嬢も若い男性たちと気楽に会話をしている。
果物のテーブルを巡っていく過程でさらに出会いが生まれ、会話が弾む。フィオナが満足して皿を置いた頃には、早くもいい雰囲気の男女がちらほら出現し始めていた。
しかし、今夜のフィオナには心から微笑む余裕がある。
今度の縁談は極めて順調。
シリルの言葉を聞く限り、ルバート伯爵がこれから運命的な出会いをするとは思えない。
このまま契約条件が整えば、遠くないうちに婚約、そして結婚となるはずだ。
(「結婚できない女」なんて不名誉なことを言われるのも終わるわね)
そう考えると、目の前の若い男女の盛り上がりも微笑ましく思えた。
でも、フィオナは……ふとため息をついた。
周囲の若々しい熱気に当てられたせいか、少し風にあたりたい気分になっている。
そっと人混みを離れ、涼しい風が吹く窓辺へと向かった。
少し離れただけなのに、静かな夜の気配をたっぷりと感じる。
外は刈り込んだ庭木が整然と並ぶ中庭だ。所々にベンチが置いてあるが、夜会が始まったばかりのせいか、まだ中庭を散策する人はいない。
照明はほとんどない。しかし暗くもない。今夜は満月。足元にくっきりとした影ができるくらいに十分に明るいのだ。
月の光に誘われるように、フィオナは外に出た。
風が心地よく、晴れた夜空に輝く月は夜闇に目が慣れるとまぶしいくらいだ。
賑やかで楽しげな音楽も、中庭ではあまり聞こえない。木々の葉がさらさらと鳴っていた。
月を見上げながらゆっくりと歩いていたフィオナは、ベンチに誰かが座っていることに気付いた。
華美な衣装に身を包んでいるから、夜会の客のはずだ。ベンチの背に身を預け、月を眺めている。
誰かを待っているのか、一人の時間を楽しんでいるいるのか。
いずれにしろ、邪魔をするつもりはない。そっと離れようとしたフィオナは、何気なくその人物の顔を見て、足を止めてしまった。
ベンチに座っているのは、黒髪の男だった。
長い手足は無造作に投げ出され、広い肩は老人のように力がなく見える。だが、フィオナはあの男を知っている。
ローグラン侯爵だ。
だが、まるで別人のように覇気がない。
白翡翠のような目は月を見ているはずなのに、月を見ていない。はるか過去を彷徨っているように虚ろだった。
……あれは、見てはいけないもの姿だ。
見ぬふりをして立ち去るべきだ。声をかけることははばかられる。
相手に気づいて反射的に目を吊り上げかけていたのに、フィオナは戸惑ってしまう。だが離れかけた足は、結局ベンチへと向かった。
突き動かしたのは、好奇心だった。
(声をかけたら、あの男はどんな反応をするかしら)
慌てるだろうか。
弱みを握られたと青ざめるだろうか。
それとも……いつものように薄く微笑むだろうか。
フィオナがゆっくりと近付いても、ローグラン侯爵は動かない。
それが何だか腹立たしい。フィオナは唇を引き結び、それからスッと背筋を伸ばした。
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