第3話 幸せの頂と底

 今日という一日は特別なもので、最も幸せな一日の一つになるはずだった。


 最愛の彼……萩原悠輝が意識不明で救急車で病院に運ばれるまでは。


 ―――――


 柏原沙織にとって世界は退屈で、色褪せて見えていた。そんな毎日に色をつけたのが”ゆうくん”。

 まだ沙織が幼稚園の時。彼女はすでに大人顔負けの頭脳と運動能力を持っていて、幼稚園の生活はとても暇で、いつも時間を弄んでいた。

 人は自分が理解できないものをを排斥したがる。多くの幼稚園児にとって、いや大人にとっても沙織という少女は理解し難いものだった。ゆえに彼女はいつしか一人きりになっていて、周りには誰もいなくなっていた。

 それでも沙織は良かった。沙織にとってもほとんどの人間は自分と異なる理解できないものだったから。

 しかし、沙織にとって幸運だったのは沙織と言う少女以上の化け物が存在したことだろう。それが”ゆうくん”である。

 二人が仲良くなるのは必然だった。いつも二人は一緒だった。世界には二人しかいないような錯覚さえ覚えるほどに。そして、大人並みの成熟した精神を持つ二人はいつしか互いに惹かれあっていった。周囲から孤立していた沙織にとって、”ゆうくん”が唯一の存在であり、やがて彼に依存していく。

 

 そんな最中、沙織と”ゆうくん”の関係を徹底的なまでに切る事件が起きてしまう。

 それが、放火殺人事件。


 犯人の動機は沙織。

 沙織の容姿は当時からとても美しく、清らかだった。しかし、それが仇になる。

 道で”ゆうくん”と歩いていた沙織をとある大学生が見つけた。それは大学生にとってまさに最高にして最低の一日だったのだ。

 「天使だ……」

 大学生がそう呟き、隣にいた男の子に嫉妬する。

 初対面にも関わらず。


 その数日後、事件は起きてしまう。


 事件当日、沙織は”ゆうくん”の誕生日パーティーを”ゆうくん”の家で楽しんでいた。

 その最中庭に現れる怪しげな男。

 その男はいきなりガソリンを撒いて、火を放った。

 たちまち家は燃え上がった。


 火は6時間燃え続けた。

 家は全焼。

 この火事で沙織は頸にひどい火傷を負い、一時は心肺停止で死ぬ寸前まで行った。

 ”ゆうくん”の家族は全員死亡。焼け跡から遺体で発見された。

 男は沙織を抱いているところを発見され、現行犯逮捕。

 なんの因果か沙織だけ生き残ってしまったのだ。


 沙織が目を覚ました時には病院で、そこで事件の顛末を聞いた。

 当然、沙織は病んだ。どうしようもないほどに。


 後日葬式が行われる。遺体は火事で焼けていたため、先に火葬してから、葬式を行った。

 

 沙織は葬式では涙を流せなかった。だが半狂乱になって暴れ出したため、会場から追い出される。

 彼女の心はもう壊れてしまっていた。その感情の器はもう底が空いて、溜まることなく流れ出していく。


 そして、完全に壊れた心と毎日のように見る幻覚の果てに”ゆうくん”はまだ生きていて、それを周りの大人が隠していると思い込み、一人で”ゆうくん”を探し始める。

 その様はとても痛々しいもので、救いようがないものだった


 ―――――


 眠りこんだ悠輝を抱きしめた沙織。


「ごめんね。許して」


 涙ぐみ、許しを乞う。

 

 高校の入学式で、彼は沙織からひどく目立って見えた。実際には地味で、その他多数と変わらないのにも関わらず。

 そんな彼が気になり、目で追いかけ始める。


 それは一目惚れだったのかもしれない。沙織にとって人生二度目の恋だった。

 ”ゆうくん”に一生を捧げるつもりだった沙織だったが、もうとっくに心は限界だった。心の防衛機能によって沙織は依存先を探していた。そして、新たな恋を始めて、沙織も一歩進む。そう思われた。


 しかし、彼の行動を追っているうちに、彼が”ゆうくん”に重なって見えた。

 結局、彼女の心は十年経った今でも”ゆうくん”に囚われたままなのだ。


 そして、ついに彼=ゆうくんだと決定づけた沙織は”ゆうくん”を取り戻しに行った。


「ゆうくん……好きだよ。今まで何をしていたの?」


 眠り込んだ悠輝を抱きしめながら、声をかける。


 だからこそ、悠輝に”ゆうくん”であることを否定された時、あれほどまでに取り乱したのだ。

 だが、沙織の優れた頭脳と壊れかけた心が見当違いな答えを導き出す。


(ゆうくんはきっと何かの事情があって自分を隠しているんだ)


 その考えに従って沙織は悠輝がゆうくんだと認めるようにデートに誘った。もちろんいく場所は初デートの思い出がある、例の水族館。


「今日のデート楽しかったね。ゆうくん」


 悠輝をベッドまで運んで、寝かせた沙織は今日の思い出に浸っていた。

 悠輝と水族館を巡った時、幼い頃のゆうくんと目の前の悠輝が重なった。何もかもがあの時と似通っていた。


「ごめんね、ほんとは料理なんて用意していなかったの」


 デートが終われば、悠輝と別れなければいけない。それは沙織のトラウマを刺激した。

 

(二度と彼を失ってはいけない)


 その思いが心に浮かんだ瞬間彼女は反射的に悠輝を家に誘っていた。


「ゆうくんは私と一緒なの。一緒じゃなきゃいけないの」


 しばらく悠輝を抱きしめていた沙織は誘惑を振り切り、行動し始めた。

 悠輝が起きた時に出て行かないように家の鍵を閉め、鍵が開かないようロックをかける。

 その上で、悠輝が眠り込んでいるのを確認した後、お風呂へ向かった。


 悠輝を家に迎えた沙織は自分で食べようと準備していたシチューを完成させ、簡単な料理を数品作った。

 しかし、悠輝に帰ってほしくない沙織は禁忌を犯す。

 自分用の睡眠薬を彼のシチューに入れ、その上で眠らせた。

 これが犯罪だと言うのは分かっていたが、ゆうくんと別れるということ以上の苦しみはなく、もし、彼が訴え、沙織から離れようとするならば監禁してしまえばいいとまで本気で考えていた。


 お風呂で今日のことを振り返った沙織は悠輝のことを考え、早く悠輝に触れたくなり、急いでお風呂を出る。


 一通りのスキンケアを終わらせた後、悠輝とベッドに入る沙織。

 悠輝が近くにいることにより、安心してすぐに眠気が襲う。


「おやすみ」



―――――


 目が覚めて目の前に好きな人がいる。寝ぼけてキスしてしまうのは仕方がないと思う。


 そんな言い訳をしながら、朝。沙織は起きて昨日のことを思い出す。


「ゆうくんを家に泊めたんだった」


 いつのまにか彼に抱きしめられており沙織は幸せの絶頂に立つ。


 そんな平和なひととき。だが、この平穏は長くは続かなかった。

 悠輝の手が頸を撫でた瞬間、いきなり彼が苦しみ出した。


「なっあっがぁぁ――」


「ゆうくん!?」


 布団を撥ね飛ばして、沙織が起き上がった。


「痛いっ! 痛いっ! 痛いっ! 痛いっっっっ! あぁぁぁぁ!」


 悠輝は手を頭に当て、苦しむ。


「きゅ、救急車! 救急車呼ばないと!」


 ―――――


 家のロックを解除した沙織は到着した救急隊に気を失った悠輝が運ばれていくのを見ていた。


 再び”ゆうくん”を失ってしまう恐怖に耐えきれず、茫然自失として、立っていた。

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