第5話 太陽に出会う
これは、彼が小学生の頃の話―――
庵原凛太朗には、6歳年が離れた姉がいる。凛太郎は、アメリカでデザイナーとして働く母親と暮らし、姉は商社に勤める父親と共に日本で生活をしていた。その理由もあって、凛太郎と姉の仲は、良いとは言い難く、“家族の関係にある2人”と言った方が適当であるような間柄だった。
幼い頃に喧嘩をした経験はもちろんなく、数ヶ月会わないこともよくあった。離れて住んでいる割には、互いが互いの住む場所に片親と共に行き、家族の時間を過ごすことはあったが、それは、似たような環境下における家族に比べればの話であってのことだ。
時折、凛太郎は、電話をしている母に代わってもらい姉と電話をすることがあったが、どういった会話をすることが正しいのか全くわからなかった。結局、昨日食べた食べ物は何か、など、特に興味があるわけではない話題を出し、その場をやり過ごした。実際会うことと顔を見ることなく話すのは、違って、電話という話さざるを得ない手段においては、気恥ずかしい、という気持ちが強くあった。これは、まだ凛太朗自身が未熟で、また、いろいろな感情を持ち合わせる子どもだったからかもしれない。
そして、凛太郎は、小学5年生になる年の春に、生まれて初めて両親が揃った環境で暮らすことが決まった。凛太朗は、そのことを母に伝えられると、待ち望んでいたはずであったが、実際の感想として、そのような喜びの感情は生まれなかった。彼にとっては、他人の常識の範疇に自分自身も納まった、と淡白で大人びたた心持ちだった。
彼にとって日本で家族で暮らすことは、アメリカで暮らすことよりもずっと幸せなことだと当然のように考えていた。
アメリカにいる頃は、母親との時間以外は、習い事かベビーシッターと過ごすことが多かった。友達は、通っていた学校にはいたが、プライベートまで遊ぶような関係には至らなかった。否、例え友達が凛太朗を誘ったとしても、彼の放課後の予定は毎日決まっていたし、そんな凛太朗の生活リズムを凛太朗の周囲の者はわかっていたので、無理に誘うことも、否定する者もいなかった。
それぞれが自由で、利口だった。一方、凛太朗といえば、後ろめたいような気持ちもあったが、片親だから、仕方がないことで、育った環境の違いだと思い込み、母親に学友との時間を取りたいなどと提案することはなかった。実際、凛太朗にとっては、年上のベビーシッターと話す方が性に合っていたというのも理由の1つだ。
日本で暮らすことによって、父や姉との関わりが当たり前に増えることに対して、期待をしていた。今まで母親だけだった大人が二人も増えるのだ。凛太朗は、“大人”に対しては、強い憧れを持っていたのだ。
期待を胸に秘め、日本で暮らし始めてしばらくした頃、凛太朗は“子ども”の残酷さを思い知るのだった。
彼がアメリカで過ごした生活は、他人からは不幸で淋しいように思われるかもしれないが、日本よりはずっと平和で、幸せな日々だったのだ。
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