29
「かすり傷程度で良かったよ、僕も行くべきだったな…」
夜になり、仕事を終えて帰宅した
「大した傷じゃありませんので…!」
大丈夫だと言うたま子に、志乃歩は「ごめんね」と、やはり申し訳なさそうに呟く。傷は大した事なくても、怖い思いをさせてしまったと責任を感じてるのかもしれない。
ここはリビングで、皆が集まっていた。
「志乃歩は仕事だったんだ、仕方ないよ。でも
「足音がしなかった。人があの場所に二人も隠れていたとは思えない。幽霊じゃなかったら、化想でしかない」
「…なるほどなー」
姫子は若干頬を引きつらせた。考えれば分かる事だと、野雪にその気がないと分かってはいるが、その単調な言い方が、なんだか馬鹿にされた気分になったようだ。
「たま子さんを人質にして、我々に何か要求したかったのでしょうか」
「やっぱり野雪じゃないか?それか、たま子を連れ去りたいとか?たま子がヤバい秘密知ってたとかさ」
「なんだ、ヤバい秘密って」
「さぁね、たま子は覚えてないんだから」
分かるわけないだろと、姫子がたま子を守るようにその肩を抱き寄せれば、たま子は申し訳なさそうに俯いた。それから、きゅっと膝の上で手が握られるのを見て、「犯人は誰でしょうね…」と黒兎が呟けば、姫子は変わらずたま子の肩を抱いたまま、うーんと唸り、答えた。
「
「
黒兎が、意味ありげにたま子に視線を向けている事に対してだろうか、志乃歩は小さく溜め息を吐いた。
「シンの教徒か、他の勢力か。阿木之亥から追い出された人間はいくらでもいるからね。とりあえず警戒しかないかな、犯人が分からないんじゃ対処出来ないしね」
「…そうですね、術師以外に手を出さなければいいですが」
黒兎は何か思うところがあったようだが、その思いを口にすることはなかった。
そうやって皆が話してる中、野雪はたま子に目を向けた。たま子は落ち着かない様子で、首に貼られた絆創膏に触れると、無意識なのか、絆創膏の端を指で掻いた。
「貼っておかないと、血が出る」
「え?あ…、はい」
声を掛けられ、たま子ははっとした様に顔を上げた。その先で野雪と目が合えば、その真っ直ぐに向けられた視線にたま子は肩を揺らし、そっと絆創膏を撫でつけた。
「たま子の記憶は、あの廃工場から始まってるって言った」
唐突に野雪が言う。たま子は困惑しつつ頷いた。
「たま子は、誰に化想を教わった?」
「…え?」
「今日の術師は手慣れていた。俺達が来ると分かって、あの場所にあらかじめ化想を用意していたみたいだった。それに、その仕掛けがばれないよう、化想を出した元となる紙も、化想の矢で始末された」
化想の矢が後に何も残さずに消えたのは、その化想の本体が弓だからだ。姫子の機関銃の弾丸のように、弾丸となるものが壊れても、機関銃が壊れない限り、化想の元となる紙等は現れない。
「そこまでが準備されてたなら、目的はなんだ。人質を取るにしても、もっと違うやり方が出来た筈だ」
「…何が言いたいの、」
声が震えそうで、それでも虚勢を張って絞り出した声が、耐えきれずたま子の喉奥に吸い込まれていく。
野雪の真っ直ぐとした瞳が、たま子の心の奥を深くを抉ろうとしてるみたいで、怖かった。
野雪は、偽物のシロの化想も、先程のフード男の化想も、その術師も、自分に関係あると思っているのだろうか。
ここで、全て晒されてしまう。そう思ったら、たま子は野雪の瞳を見ていられなかった。視界が揺らぐ、心臓が痛い、心臓が痛いのは、息が出来ないからだ。
「たま!?」
過呼吸になり倒れ込んだたま子に、姫子と志乃歩が血相を変えた。
「黒兎、
「野雪、気をつけろ!たまは不安定なんだ!」
志乃歩の指示に黒兎が慌ててスマホを取り出し、姫子に怒鳴られた野雪はそれでも顔色一つ変えず、必死に呼吸を繰り返すたま子の前にしゃがんだ。
目が合い、ひ、と、たま子の息が途切れる。
「大丈夫、ここは自由だ」
線が引かれ、世界が変わった。
はっとしてたま子が目を開けると、そこは
「…キレイ」
山の上とはいえ、九頭見の屋敷の空でも、ここまでの星空は広がらない。
場所は確実にその場所なのに、見られないものが見れるちぐはぐなこの世界。目の前の星空に圧倒されるたま子には、ここが現実ではないと理解するまでに頭が回らなかった。
優しい風が吹いて、たま子の髪を揺らす。同時に、目の前の世界が変わった。
ここはどこだろう、暗がりで狭い場所、壁がどろりと溶け、足元もぬかるみ、たま子の胸を騒つかせる。
戸惑いの中、不意に話し声が聞こえてそちらに顔を向けると、今より若い志乃歩と、幼い野雪がいた。
志乃歩は今より髪が長く、ラフなシャツとジーンズ姿で、野雪の前にしゃがんでる。幼い野雪は、志乃歩から視線を逸らすように俯いていた。野雪の髪も長く、着ている服はぼろぼろで、どうしてか胸が痛んだ。
「心にね、感情があるのは、何も感じないでいるよりも強くなれるんだよ」
「…何も感じない方が強い」
「どうして、そう思うの?」
「何があっても耐えられる、苦しくない」
「苦しかったら、僕の手を取ればいいよ」
志乃歩は小さな野雪の手を取った。痩せ細った小さな手は冷たく、志乃歩は温めるように撫で擦った。
「楽しくて、悲しくて、苦しくて、辛くて、怒って、嬉しくて、幸せで。色んな気持ちを知った分、強くなれるよ。残念ながら、弱くもなっちゃうけど。誰かの何気ない言葉に傷つくし、気持ちに左右されれば、その分、心は弱くなって化想も揺らぐ。でも、野雪は一人じゃないから。ここには、野雪を恐れる人はいないし、苦しめる人もいない。苦しかったり辛かったりしたら、僕の手を掴めばいい。僕が野雪を守ってあげるよ。僕は君より化想操術師としては弱いけど、でも、野雪の為なら強くなれるんだよ」
「どうして?」
「野雪が好きで、大事だから、僕は守りたいって思うんだ。だから、いつも以上の力も出せる。心がなければ、それ以上なんてものは出せないよ」
志乃歩は、無感情の瞳に微笑み、優しく頭を撫でた。
「自分で見つけてごらん、好きなもの、何でもいいよ。食べ物や場所や、物でも人でも。その為に、色々経験しよう。勉強して、遊んで、その足でさ。野雪はどこにでも行けるよ、もう枷はない。その代わり、今度は自分で判断するんだ、怖かったらすぐに僕の手を引いて。僕らはもう家族なんだから」
優しい眼差しを、野雪は戸惑いながら見つめている。野雪の大きな瞳が、無感情で無関心の瞳が志乃歩を映して、初めて色を持ったように揺らいだ。
瞬間、暗闇の世界に青空が見え、泥濘の中のようだった足元や壁を爽やかな風が浚った。
気づくと澄みきった青空の下、場所は草の香り立つどこかの丘の上に変わり、並び立つ男女の姿が見えたと思ったら、今度は再び屋敷の庭に戻ったりと繰り返していく。
ぐるぐる巡る世界に、これは誰かの化想の世界だと、たま子はようやく気づいた。
それに気づくと、たま子ははっとして振り返り、幼い野雪の姿を探す。
ここは、野雪の化想の世界で、野雪と志乃歩の思い出の中だ。
場所は何度も変わるが、志乃歩と野雪の寄り添う姿は変わらない。二人が先程会話を交わしていたのは、二人が出会った頃の記憶だろうか。
最初に屋敷の庭を見せたのは、たま子を不安にさせない為かもしれないし、野雪にとって帰る場所だからかもしれない。
だが、例えどこにいても、二人の繋いだ手が離れる事はない。
この思い出は、野雪の人生を変えた瞬間なのだろうか。
こんな風に誰かを信じられる事、枷を外し生きられる事、たま子には、それは自分とはかけ離れた遠い世界の出来事のように思えて、ただ目を伏せるだけだった。
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