木星
五分ごとに設定していたアラームが、スマホで鳴った。重たい瞼を開けて、設定していた時間のスイッチを切ってから、ベッドを出る。一階のリビングに降りると、京子ちゃんが朝ごはんを食べていた。
「おはよう明里ちゃん」
「おはよう、昨日遅かったのに、今日も早く出社するの?」
「いまやっているプロジェクトが、大掛かりでね。もうすぐで終わるんだけど、これが成功すれば、だいぶ楽になるの。あと少しの辛抱かな」
「そっか、がんばってね」
「ありがとう、私もう家出るから、明里ちゃん。気をつけて学校行くんだよ」
「はーい、行ってらっしゃい」
大人になるというのは大変なものだ。数年前は、早く大人になりたいと思っていた。それに時がすぐに流れないかな、と心を弾ませながら待っていた。けれども、大人の年齢に近づいて行くにつれて、それが嫌になっていくのはどうしてなのだろう? 見たくないものばかりが、よく見えるようになって来たからだろうか。そんなことを言っても、わたしは時間の流れに逆らうことはできないのだけれど。
昨日、ひびが多く入っている通学路には大量の目玉が溢れていたのに、そんなことはなかったかのように、そこは綺麗に片付けられていた。私は幻覚でも見ていたのだろうか。だが、ネットの記事達がそれは現実だ、と示している。
下駄箱で靴を履き替えて教室へ行った。いつも通りの騒がしい声が教室の扉越しに聞こえてくる。葵は、いつもホームルームの十五分前くらいに来るから、それまで私は授業の準備をしたり本を読んだりして時間を潰している。八時を過ぎると、少しずつ教室にいる生徒の数も増えて行く。ホームルームの十五分前に、葵は普段通り教室の扉を開ける。荷物を置くと、私の方に駆け寄って来た。
「おはよう」
「おはよ〜、今日遅刻しかけて焦った〜」
「よかったね、遅刻しなくて。なんで遅刻しかけたの?」
「なんかね、なかなか前髪が上手く巻けなくてギリギリまで粘ってたの。まぁ、いつも乗ってる電車には間に合ったからいいんだけどね」
葵と話している最中に、他クラスの女子が教室の扉を開けて、葵の名前を呼んだ。葵は話に行ったのに、一分も経たないうちに戻って来た。
「ごめん、今日委員会あるらしいの。遅くなりそうだから、先に帰っていいよ」
「分かった、じゃあ今日は先に帰るね」
「ごめんね〜」
もうすぐ先生が教室に入って来る時間になったから、葵は自分の席に戻った。先生が来たのは、葵がちょうど席に着いた時だった。今日も時間通りにホームルームが始まった。もうすぐ夏休みだから、計画を立てろと言っている。夏休みといっても、取り立ててやることはない。計画を立ててもバカらしいので、そんなものは立てないだろう。それにこんな面倒臭いものはない。夏休みは、何か問題を起こさなければ大丈夫だろう。
今日の時間割にある授業は、そんなにきつくなかったおかげで他の日よりも一日が早く流れて行ったように感じる。葵は、委員会の集まりに参加してしまったから、私はひとりで帰ることになった。電車に乗っている時、メッセージアプリから通知がきたのに気がついた。昨日より帰りは遅くなりそうだから夕食はいらない、と京子ちゃんが知らせて来た。課題が出ていなかったから、今日は好きな映画でも観ながら、夕食を食べよう。ファーストフードでも買って帰ろうかな、と思いながら電車を降りた。
ハンバーガーの袋を抱えながら、鍵を開けた。もう見飽きた薄暗い静かな玄関が、わたしを迎えてくれた。
わたしは自分の部屋に行くと、昨日の夜、机に乱雑に置いていた目玉の横に、両手で収まるほど小さい段ボール箱が置かれていた。昨日机に触れたのは、鞄から目玉を出して机に置いた時だけだから、身に何も覚えがない。一度、開けてみよう。わたしは箱の端に指をかけた。
そこには耳がふたつ入っていた。
耳は皮膚のようなもので、綺麗に覆われていた。これは誰かの耳を切り落としたものなのだろうか? 箱が飛び上がりそうな速さで手を引っ込めると、私は後退りしてしまった。こんなに気持ちの悪いものは、もう他にはない。
京子ちゃんが悪戯したのだろうか。わたしよりも先に会社に出て行ったし、こんな幼稚なことを楽しむ人でもない。特に変わったことは、朝には何も無かった。だから、昨日のような不可解な事件が起きるわけはない。写真を撮って、メッセージと一緒に葵にそれを送ることにした。「葵も耳を見つけたの?」。メッセージを送ると、すぐに既読が付き返信が来た。「まだ電車に乗ってるから家に帰ったら見てみる」と手短に言い添えていた。冗談だと思われているのだろうか? まるで気の抜けたような返事だった。粟立つ腕で気色の悪い目玉と耳をゴミ箱に突っ込み、袋の口をきつく締めた。
なぜ、昨日と同じような不可解な出来事が、連続で起きているのだろう? ネットで細かく調べてみたが、こんなことが起きているのは、私の他にいないようだ。夢でも見ているのだろうか? リビングの壁に掛けてある時計は、一秒ずつ進んでいるし、スマホのメッセージアプリの画面だって、二時間ほど前に来た京子ちゃんのメッセージと、さっきわたしが驚いた時に送ったメッセージが表示されているだけだ。これは紛れもない現実だろう。映画を流したままのテレビを放っておいて、わたしは自分の部屋に戻って、口を縛ったゴミ袋をもう一度開いてみた。やはりそこにはまだ、変わりなく耳と目玉が入っていた。これは現実なのだ。変わったことがいざ起こってしまうと、歓迎するよりも、むしろ当惑してしまうようだ。混乱した頭を整理した方がいいだろう。わたしは、リビングに置きっぱなしのゴミを片付けて、テレビ番組を消すと、自分の部屋に閉じこもった。
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