夏の扉
鯖缶/東雲ひかさ
第1話
アパートの窓枠に寄りかかって煙草を吸っていた。
茜の夏空がより失意の色を濃くする。
景色を遮るようにたなびく煙を見ているとふと、小学四年生の時分の記憶が思い起こされた。
たった一度しかない四年生の夏休みをあの大学生に捧げたと見るなら些か勿体ない気もするが経験としては十分、貴重な夏休みと言えるだろう。
そう言えば、あの大学生も私と同じ銘柄の煙草を吸っていたような気がする。
「マルボロ、か」
○
私の地元――子供時代をのびのびと過ごしたのは掛け値なく田舎だった。はたして田舎がプラスのベクトルかは微妙なので掛け値という表現が正しいかは確かではないが。
のびのび過ごすというのも考え物で僕は時間にルーズになった。沖縄県人ではないのだからと自分でも思ってしまう。他意はない。
それに田舎育ちが虫が得意だろうなんていう偏見であったり理想があるかもしれないが、それは大きな間違いだ。虫が多すぎれば虫が嫌いになる。
日本人は古来より押してダメなら引いてみろと、離れている時間の機微を重んじてきた。
ずっと「僕はここに居るよう」と部屋に居られたり、街灯に無闇に群がってみたり、ぽつんとある自販機にも群がり購入を妨害してみたり、夜通し鳴いてみたり、こうもずっと押されっぱなしでは嫌いになるなと言うほうが間違いだ。
心安まるのは冬しかない。初冬にはユキムシというフシギ生物が舞ってはいるが、あれはカワイイ。
今でこそ、虫が嫌いだと胸を張って言えるものの、昔は町中を駆け回り、生態系を破壊せんと森を横行闊歩していたものだ。
○
地元の町は段々畑のように下と上に二分されていた。
上が高野、下が下原。なんとも覚えやすい。
私は高野に住んでいた。
高野と下原を行き来するのは中々骨が折れた。
町の端まで行って回り込むようにして行き来するか、高野と下原、真ん中を繋ぐようにする細く長い階段を使うしかなかった。
その日は下原の友人宅に行くため階段を使っていた。
流石に町の端まで行っていられない。町の端に住んでいるわけでもない限り、大体の人は階段を使っていた。
階段は木々が生い茂る中を突っ切るように作られていて昼日中でも薄暗い。それは燦々とする夏日でも同じだった。
私はそれが怖かった。階段に入るまでは肌を焼くほどの日が僕を照らしているというのに、一歩階段に踏み入ればそれはなくなってしまう。
それは別世界に迷い込んだように。
丸い木漏れ日だけが辛うじて太陽の存在を示してくれる。
それにこの階段はその昔は参道だったらしい。階段の中腹あたりに昔は神社があったようだ。私が生まれた頃より前に奉遷されたようで神社は既になかったのだが、名残なのか路肩に小さな祠はあった。
その祠に関しての噂が私の肝を冷やしていた。どんな都市伝説だったかはまるで忘れてしまったが。
そんなこともあって、その階段を通るときはできるだけ早足で、下を向いて、何も考えないようにしていた。
人とすれ違うこともままあるが田舎は顔見知りが多い。知り合いでなくとも字の通り、顔を知らないということはない。だから人とすれ違うと安心したものだ。
人が見えると私は顔を上げ、詰まった息を大きく大気と入れ替える。
その日も人が居た、と私は意気揚々と顔を上げた。
けれど神社の中腹あたり、祠の場所――横の腰掛石にまるで知らない男がぼけらと煙草を吸って座っていた。
私は吸い込んだ息を肺に詰めたままに地面を穴が開くほどに見て、より早足になっていた。
知らない人間がそこまで怖くないのはわかっているが相乗効果というやつだった。
「なぁ」
男の目の前を通り過ぎるそのとき、男が声をかけてきた。
「な、何だよ、おっさん」
おっさんと悪態をついたのは最大限の威嚇であり、特段男はおっさんということはなく、どちらかと言えばお兄さんだった――としても小学四年生にしてみればそれはおっさんであった。
「やっぱり失礼だな。ガキは。俺はまだ大学生のお兄さんだ」
お兄さんやお兄ちゃんはなくとも、兄ちゃんあたりに着地するのはできたと思う。けれど男はお兄さんを自称し始めたので、言うところの『ガキ』の反骨精神でその機会は永久に失われた。
「それで何だよ、おっさん」
普通なら無視して通り過ぎればいいと、そう思う。
けれど田舎育ちで大事なところの警戒心が薄れていたのか、はたまたやはりガキの反骨精神か、悪態をつきながらも会話を続けた。
「ここら辺、何の虫が捕れる」
男は私の背負っている虫取り編みを指さしてぶっきらぼうに言った。
「……蝉とかだよ」
「カブトムシとかは?」
「捕れるけど罠を仕掛けて夜にだよ。おっさん、知らないとかここら辺のやつじゃないな」
私は田舎の負の側面――そういう視線を男に向けていたと思う。仲間意識の裏返し、寧ろこちらが表側かもしれない仲間外れの意識の視線。
けれど男はそれに慣れているのか、顔色ひとつ変えずに答えた。
「いや、こっから出て一人暮らししてんだ。そんで数年ぶりに帰って来たんだ。虫はちゃんといるみたいだな」
私は適当に相槌を打って「虫がいなくなるわけないだろ」と句点が如く悪態をついた。
このときの悪態はもしかすると男に対してではなく、虫に対してであって虫嫌いの前兆――片鱗だったのかもしれない。
「そうか。なぁお前、小遣い、欲しくないか」
男はそれまでの表情を崩し、ニヤリと薄気味悪く、寧ろ気持ち悪く笑った。
「ひ、人攫いかっ、おっさんっ。身代金なのかっ」
私は後退りして叫んだ。逃げればいいものを。
「確かに、大学生は金がない。お前も骨身に染みて、それを味わうことになるだろう」
「それじゃあ、妙なカニバリズムになってるぞ」
男は少し笑って「むつかしい言葉を知ってるなぁ」と言った。
そして「でもなぁ、見たところお前の家はそんな金持ちじゃない」と言った――いや、看破した。
「な、何故わかる」
「その服、お下がりだろう。袖がよれよれだ。それに補修の後だらけだ。上に二人はいるだろう?」
見事な推理だった。その通り、私には二人、年子の兄がいて私が着ているのはお下がりのお下がり、もはや服の形に布片を繋ぎ合わせているようなものだった。
今でなら、前衛的なファッションだと嘯けるかもしれない。
「す、すげぇ」
私は素直に感嘆した。今思えば、男と出身は同じなのだから私の家のことを知っていてもおかしくはない。そんな子供騙しだったのかもしれない。
けれどそのときは謎の探偵ブームが狭い巷で巻き起こっており、私はまんまと騙された。
「極めつけは……」
「極めつけは?」
「勘だ」
私は何だか梯子を外されたような心持ちになった。
騙された上に騙されたような状態だ。
男はじとーっと見る私を横目に煙草を携帯灰皿に捻じ込みながら笑っていた。
○
私は男の隣に座った。煙草が煙かったのを覚えている。
「どっか行くんじゃなかったのか」
男は煙草を燻らせながら言った。
「まぁ、別にいいさ。少しくらい遅れても話せば許してくれる。それに誘ってきたおっさんが悪いわけで、俺は悪くない」
「乗ってくるほうも乗ってくるほうだと思うけどなぁ。守銭奴め」
男はクククと、悪い大人――悪代官風に笑った。
男曰く、世はカミキリムシビジネスの時代らしい。
害虫と言うとどんなのものを思い浮かべるだろうか。アバウトにこんなの、というのはあるだろう。最近では、バッタの蝗害なんかが話題になった。
けれど農家の宿敵とはそいつらではなかった。
そう、カミキリムシである。
東アジアから渡来し、木々を食い荒らし、枯らしまくる虫。正式名称をクビアカツヤカミキリと言う。
桜の木やモモの木、ウメの木などを枯らしまくっている。
モモ農家はそいつらを見ると我を失い、ただ枯らされたモモの木の遣る瀬なさと憎しみと怒りを胸に、半狂乱になり殺戮のことしか考えられなくなるらしい。
非常に恐ろしい虫である。
因みに実際に木々を枯らしているのは、木の中に寄生したカミキリの幼虫らしい。
そしてそれがどうしてビジネスに繋がるのかというと「農協はそいつらに懸賞金をかけてる。ウォンテッドだ。首ひとつにつき、五十円だ」らしい。
そして男は一夏のカミキリ狩り――首狩族にならないかという誘いを持ち出した。
私はお金に惹かれたのも確かにあるが、面白そうと強く思って私はそれを受け入れた。
「友達を呼んでもいいぞ」
「いい」
私は友達を呼ばなかった。
男は話していて信用できる――何というか他人の気がしなかった。しかし本当にカミキリが捕れるのかは別問題だったし、私は楽しければそれでいいのだが友達はそうはいかないかもしれない。巻き込むのは憚られた。
「そう言って、分け前が減るからじゃないのか?」
「そんなんじゃない」
否定をすると何となく自分が悪いことをしているような気がしてくる。
善悪でなくとも体裁が悪いというだけで悪人であるような扱いを受ける。全く困ったものだ。
「まぁ、いいけど。いつ行こうか」
「? 近くにないのか、狩り場」
「お前こそここら辺のやつじゃないなぁ。お前は近くに桜並木とかモモの果樹園を見たことあるのか」
「うるさい」
私は意趣返しを見事にかっくらった。
「それよりさ、なんで俺を誘うんだよ。やっぱり、誘拐か」
私は思わず話題を変えた。
「違うって言ってるだろ」
「言ってない。俺の家に金はないと言っただけだ」
「同じことだろう」
男は一息ついて続けた。
「ちょっと悲しいことがあってな。童心に返りたくなったんだよ」
「童心?」
「そ、地元に戻って子供みたいに遊びたくなったわけ」
「ふーん」
悲しいことがなんなのか気になりはしたが子供ながらの気遣いで聞くのはしなかった。
そして男は立ち上がり一方的に「明日、この時間にここに来い」と言って立ち去った。
その後、友人の家に行くと遅れたことを咎められながらも笑って許してもらえた。
そして下原を走り、跳ね回った。
散会のときに明日も遊ぼうと誘われたが用があると丁重に断った。
友人はまるで気遣いのできないやつだったので、ずけずけとしつこく用はなんだと言ってきた。
私は半ば無視して家に帰った。
今思えば、なんやかんやと理由付けはできるものの、友人を誘わなかった理由はあの大学生に友人を会わせたくなかった――合わせてはいけないような気がしていた。全くの勘のようなものだが。
それに付随して親にも、同居している祖父母にも言わなかった。
全く、知らぬ人に着いていくのもそうだが、それを黙っているなど危険極まりない。
何となく私は男を信用できていたから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
信用できていたのは田舎の人間の正とも負ともとれない人を見る目の適当さからだろうか。
私は思い返しながら、田舎のせいにしてはいけないなと思った。
そうして、まぁ結局は子供であって、好奇心の奴隷だったのだろうと、そう結論づけた。
○
翌日、私は昨日と同じ時間――九時頃に、祠の前へと赴いた。
男はいるのだろうかと心配になりつつも、夏休みで暇だし、友人の誘いは断っていたしで行くしかなかった。
男はやはり煙草を吸って、さも当然のような雰囲気で石腰掛に座っていた。
祠の隣にいるので、薄目かつ遠目に見れば天狗っぽく見えなくもない。まぁ天狗のイメージは煙草からで、実際の天狗には何ら関係ないのだが。
「よう」
男は手を上げて言った。
「いたのか」
「何だ、来ないと思ってたのか」
「そんなに信用されてると思ったのか」
「まぁ、少なくとも俺はお前が来ると信じていたぞ。約束したしな」
「あれは約束と言わない」
私は早速毒づいた。男はニカニカ笑って、煙草を携帯灰皿に捻じ込んだ。
よく見ると男はカジュアルな恰好には不釣り合いに見える大きなリュックを背負っていた。
「大荷物だな」
かく言う私は短パンに半袖、網に虫籠、そして雀の涙ほどの駄賃を持つのみで他は何も持っていなかった。
「まぁ、少し遠くに行くわけだしな」
男はおもむろにリュックを前に持ってきてあれこれと中をまさぐり始めた。そしてひとつの菓子を取り出した。
「おお、ビッグバンチョコじゃんか」
それは私が生まれた頃からあり、今でも愛食している菓子だった。愛食という言葉があるかは知らないが。
言わずもがな、当時の私は狂ったように、親が許す限りそれを貪食していた。
私の目は男の持つビッグバンチョコを見て爛々と光っていただろう。
「お前、これが好きだろ?」
そう言って男は私に向かってビッグバンチョコの箱を投げた。
私はびっくりしながらキャッチした。
「なんで好きなの知ってんだ」
私はすぐ訊いた。
きっとその時の私はチョコの箱を凝視していただろうし、バレてもおかしくはないだろう。
けれど男の好きだろ? と言うのがあまりに決めつけていて、そもそも私のためにチョコを持ってきたような言い方で子供の私にしてみれば、やはり探偵のように思えた。
「推理か? 推理なのか?」
「勘だ」
男は淡々と言った。
がっくしきている私は「なんでそんなわかってるように言うんだよ」と疑問というか文句を言った。
「勘でも推理でも、決めつけたように言うとビビって白状してくれるときがある。今のお前みたいにな」
そう男はニヤニヤしながら言った。
私は自分がよい例になっていたのもあって妙に納得した。
そう言えばフィクションの探偵も「この中に犯人がいる!」なんて当たり前のことをさも衝撃の事実風に言って皆をビビらせていたな、と思ったりもした。
そして私はビッグバンチョコを開けて食べ始めた。
その名の通り、ビッグバンチョコは粒の大きなボール状のチョコだ。それが箱の中にいくつか入っている。偶に大きすぎて箱から出ないなんてこともあった。
どうやって箱に入ったのかは永遠の謎だ。
「なぁ、なんか小さくないかこのビッグバンチョコ」
「それはお前が大きくなったからだ」
「だとしてもこれなんか小さいよ。俺、ほぼ毎日食ってるからわかる」
その日貰ったチョコは明らかに小さかった。だとしても貰っておきながら言うべきことじゃないが。
その後、別のビッグバンチョコを食べたときは大きさに違和感を感じなかったし何だったのかはわからない。
勘違いだとは思えないのだが。
「まぁ、小さい日もあるんじゃないか」
男は意に介さず、適当に私をあしらった。
○
その後、駅に向かった。
駅までは歩いて三十分くらいだった。
「あ。切符を買わなきゃか」
男は改札にそのまま入ろうとして間抜けに声をあげた。
「そりゃそうだろ」
そう言った私も電車に乗るのは初めてですっかり切符のことは忘れていた。
男は券売機の前で財布をいじくり始めた。私は傍らで待っていたのだが、何故か男は切符をすぐ買おうとしなかった。
「何やってんだ? 買わないのか」
「使えるお金を探してるの」
「どゆこと」
「俺の財布は冥銭でいっぱいなんだよ」
「めいせん?」
「ほら、人が死んだときに棺桶に入れるお金だよ。こんがり焼いた後、お金だけ戻ってくる」
「あー」
私は変な風に返事をした。なんでだよとツッコむべきなのだが、昨日聞いていた悲しいことが関係――原因なのかと思ってツッコめなかった。
「別に昨日のあれ、人が死んだわけじゃないからな。彼女に振られただけだ」
男は微妙な受け答えから私の心情を見透かしたようだった。
じゃあ何の冗談だよと言う前に男は切符を私の分まで買っていて、お礼を言うので手一杯になって言えなかった。
○
駅を三つ跨いで降りるとそこは隣町の果てだった。
電車の車窓から見ると別世界のように見えていた景色も駅から出ると何となく知っている風景に見えてくる。そして隣町のシンボルの時計塔が見えると、種明かしした手品のような空虚感にとらわれた。
「なんだぁ」
私は不満げな声を出した。
「もっと遠くに行くのかと思ってたよ」
「まぁまぁ。知ってる町でも知らない場所は沢山あるんだ。退屈はしないさ」
男はそう言って私をたしなめる。
線路の高架沿いを歩き、商店街を抜け、大通りに出て、裏に入り、抜けるとそこは川沿いの堤防だった。
よく見ると電車から見えた川だった。
見渡しして見ると川の向こう岸の奥、川に沿うように高架が見えた。
「おっさん、わざと遠回りしたのか」
「まぁな。でも楽しかったろ。知ってるようで知らない町を歩くのは」
私は無言で頷いた。
確かに、高架下に家があるなんて知らなかったし、商店街の肉屋のコロッケもおいしかった。買ってもらったものは余計においしく感じる。大通りは真っ直ぐずっと奥まで続いていて、その奥には時計塔が聳え立っているのが心強く思えた。裏通りには猫たちがにゃんにゃ、にゃんにゃ、と言っていて可愛かった。
そしてそれら全て楽しかった。
「んじゃ、行くか」
そう言って男は堤防を進み始めた。
「なぁ、どこ行くんだ?」
男は堤防の奥を指さして「木が並んでるだろ。桜だ」と言った。
「じゃあ、あそこにいるのか」
「うむ」
桜の木の付け根に来ると男はしゃがみ込んだ。
「見てみろ」
男は木の根元に散乱している木屑を拾い上げて言った。
「何これ」
「カミキリの幼虫が食い荒らした木の食べカスだ。んで、食われすぎるとこいつは枯れる」
男は木の幹を掌で叩いて言った。
私は何となく青葉の茂る梢を見上げた。
「あ」
私は木の幹に虫を見つけて声をあげた。
長い触角があってよく見る、頭、胸、腹と綺麗に分かれるカミキリの形だった。
ただ普通のカミキリと一目で違うとわかるのは、胸にあたる部分が真っ赤だった。干からびたグミの実が挟まってるみたいだと思った。
私は立ち上がって手に取った。
「おお」
カミキリは親指と人差し指の間で身じろぎして、足をうごうごさせている。
「よく持てるなぁ」
男は感嘆したように言った。
「おっさん掴めないのか」
「大人になると何でか掴めなくなる」
「それなのに誘ったのか……」
私は虫籠にカミキリを仕舞った。
男も立ち上がり、思い出したようにリュックをまさぐって紐のついた水筒を取り出して私に渡してきた。
「熱中症になるといけないからな」
そう言って男はもう一つ水筒を取り出して首に掛けた。
私は水分を取るわけでなく、中身を確認するために一口飲んでみた。中身は麦茶でワクワクを返せと思った。
カミキリは一本の木に一匹は必ずいた。少なくとも一匹なので二、三匹はざらだった。
そうこうしているうちに私の持ってきた虫籠も男の持ってきた虫籠もパンパンになった。
それを見ながら河川敷に座って川の水を足でちゃぷちゃぷさせていた。
男の腕時計を見せて貰うと十二時を回ったところで桜並木に着いてから二時間も経っていなかった。
「うわぁ。なんか気持ち悪いな」
虫籠の中のカミキリ達はひっきりなしに蠢いており、形容するならば虫団子と言うのがぴったりだと思った。
その様相は虫が好きだった当時の私でもあまり見ていたいとは思えないものだった。
男のほうはもはや見ていなかった。
そして蠢く彼らを見て、私はやっとカミキリが生きているのに気づいた。
「なぁ。こいつらって害虫なんだよな」
「ん? あぁ、そうだな」
「それじゃ、こいつら皆、殺しちまうってことだろ。なんか、可哀想だな」
男は私を見たまま黙った。そして俯いて何か考え込むようにした。
当然だと思う。
法律上は成人している今の私でも、なんと言えばいいのか口籠もってしまうだろう。
このときの男も同じような気持ちだったのだろうと、今ならわかる。
「んー。たかが虫だって言ってしまってもいいと思うんだよ」
「うん」
男はなんとも真面目な顔をするので、私も野暮なツッコミはせず聞こうと居住まいを正した。
「あぁー、なんかむつかしい話も疲れる。まぁ、お前が可哀想だと思うならそれがいいと思う。そういう命との向き合い方をすれば」
なんとも拍子抜けな演説だったが何となく理解した気になった。
「でもこいつらは、殺すしかないのか」
「んーまぁでも、こいつらもこいつらで悪いことしてるしなぁ。外国から連れてきたのは人間だけどさ」
「誰かが悪にならなければならないのか」
私はそのときテレビで流れていたアニメの受け売りの台詞を言った。
「ははっ、そゆこと」
男はほくそ笑んで言った。
「でも今日のこれは報酬がある。言わば仕事だ。仕事というのは嫌なことをするから報酬がもらえるのだ」
○
虫団子を持ったまま公共機関を使うわけにはいかないので歩いて農業に向かった。
今ではクビアカツヤカミキリは特定外来生物に指定されているそうで、生きているまま持ち運ぶと罰則になるらしい。時代は細かなところでも変わる。
農協までは一時間と少しかかった。
農協のおじさんが殺虫剤で蠢く虫団子を鮮やかに動かなくしていく。
なんとも、惨かった。けれど目を逸らしてはいけない気がした。目を逸らしたくなかった。
それは男も同じようだった。
おじさんがカミキリを勘定し終えると男に五千円札を手渡した。
「おお!」
私は思わず声を上げてしまった。
「占めて百匹もいたらしいな」
私達はお礼を言って、農協を出た。
「ほら」
来た道を戻りながら男は私にさっきの五千円札手渡してきた。
「え?」
「報酬だ」
「おっさんはいいのかよ」
「ガキからお金取るほどガキじゃないからな」
そんなことを男は言った。
私は受け取った五千円札を透かして見てみた。意味はない。
「あーでも、飯奢ってくれよ。そのお金で」
「ああ。もちろん」
私は近くのラーメン屋に入って味噌ラーメンを二つ頼んだ。味は覚えていないが、美味しかったことだけ覚えている。
そして家に帰った。電車賃も奢らされたな、とも思い返したがただのお返しだった。
その日の夜。
残った三千円と端金を親にバレぬよう机の奥深くに隠し、布団に入った。
そして今日のことを追想した。
五千円のインパクトで失念していた男の話を思い返していた。
思えば、その頃からだったと思う。
虫を敬遠するようになったのは。
何となく虫を捕まえるのも、殺すのも、何をするのも、憚られるようになった。そしてそれを『嫌い』と形容するようになったのは。
だからといって、あの日カミキリを乱獲し、間接的にと言えど殺したのを善い悪いとも言い切ることはしない。
誰がどうとか関係なく、カミキリは外来種というやつで、駆除しなくてはそもそもの生態系が立ち行かなくなる。だから、誰かがしなくてはいけないことだったのだと理解できる。
でも私はズルい人間だったのでそれから逃げた。虫の生死でさえ遠くに置いておきたかった。他の人間にその役目を任せたのだ。
だからその代わり、虫を殺さないようにした。
田舎だったので家に虫は家族の人数以上に湧いて出てくる。
蜘蛛もゴキブリ、ハエも蚊も、家に出た虫は漏れなく外へ逃がした。
私はそういう命との向き合い方を選んだ。
今でもそれは変わらない。
地獄に落ちたとき役に立つんじゃないかと、私かに思っている。
○
それから私は結構な頻度で男と遊んでいた。
約束をするときもあればしないときもある。けれど決まって、男が姿を見せるときは石段の中腹、祠の横にいた。
だから特段の約束は要らないとも言えた。
遊びと言えば、特殊なものはあまりなかった。
だが男は手先が器用で、知識も豊富だった。だから何をするにしてもワンランクの遊び――少し勉強じみたものになっていた。
川釣りをするなら、釣り竿は落ちている手頃な棒に持ってきた釣り糸を結んで作ってしまう。意外と魚が釣れて驚く。
釣りをしている最中も、石の大きさがとか、川の流れがとか、魚がいる場所はとか、色々話してくれた。
魚が釣れれば魚について、雌雄の見分け方とかを教えてくれる。
他にも地層の話やらを話してくれた。私の地元には国内でも有数の巨大な活断層があってそれを見に行ったりした。
私はそれが楽しかった。友達よりも男と遊ぶのを優先していた。それが高じてなのか、だいぶ自然に寄った大学に入ることになった。まぁ、虫からは遠い学部なのだが。
話は戻って、小学四年の夏へ。
八月も中旬頃になったその日も私は祠へ向かった。
男はやはり煙草を吸っている。彼女が吸っていた煙草らしい。
「よお、おっさん」
「今日から盆だろ。家に居な」
男はこちらを見ずに答えた。
「えー。ケチ」
「行事ってのは意味が何かしらあるからやってるんだ。真面目にやってりゃいいことがある」
こちらを向き、ニッと笑って男は言った。
「んなわけ」
「試しに家に居てみろ。なんかあるから」
私は言うことを聞いた。
私はやはり男を信用していた。それは時を経るごとに、あやふやな信用からちゃんとしたものになっていた。
その信用は男の博識な部分にも乗っかっていた。
だから男の言うことを鵜呑みしてみて、どうなるのか気になって家に帰った。
「ただいまぁ」
家に上がると誰も居ない。
父は仕事だろうが、母と祖母が居ない。いつもなら居間に居るのに。
畑に行ったのだろうか。何となく不安になる。
兄の姿も見えない。遊びに行っているのだろうか。
祖父の部屋に向かう。
祖父は腰を痛めてからあまり外に出ないし、畑仕事などもっての外だ。
祖父の部屋に――襖を開ければそこに祖父が居るはずだ。
「じいちゃん? 入るよ?」
返事はなかった。
おそるおそる襖を開く。
そこに祖父は居た――正しくは倒れていた。
畳の上に息荒く、うつ伏せに倒れていた。
祖父は熱中症になっていた。
私はパニックになり、その場を少し動けなかった。
「きゅ、救急車だ!」
かろうじて私は救急車を呼んだ。五分もしないうちに救急車は到着して、祖父を救急車に乗せた。
私は腰が抜けて、その場にへたりこんでいた。
程なくして祖母と母が戻ってきて、救急隊員が状況を説明してくれた。
祖母が救急車に同乗して病院に向かった。
祖父は発見が早かったので後遺症もなく大事に至らなかった。入院することにはなったが三日で退院した。
男の言うとおり、いいことはあったのかもしれない。その場合、“不幸中の”と枕詞はつくのだが。
それから私はお盆のような行事を大切にするようにした。
家族の誕生日をちゃんと覚えたのもその頃だったと思う。
○
夏休みも一週間ほどで終わろうかという頃。例の気の使えない友人が私を訪ねてきた。遊びにきたらしい。
私は久しぶりに友人と遊ぶことにした。
友人を家に上げて麦茶を出した。
小学四年の青二才では積もる話も何もなく、ゲームをしたりして遊んだ。
そしてすることもなくなってきた頃、友人が言った。
「そういやさ、花子引っ越すんだってよ」
「え?」
花子は同級生だった。
花子とは愛称というか、男子の間では蔑称で、本名ではない。
花屋の娘だからという安直な理由の渾名だった。
私は花ちゃんと呼んでいた。
私は花ちゃんが好きだった。
だから花ちゃんが引っ越すというのは言わずもがなショックだった。
だがこのときは友人の言うことなので鵜呑みにしてはいけないと自分を落ち着けて散会した。
翌日、私は祠に――男のもとに向かった。
どうしていいか進言を受けようと当時は自然に思った。しかし今思えば、袖にされて傷心中のあの男に助言を求めるのはあまり得策でなかったようにも思える。
男はやはり石越掛に座って煙草を吸っていた。
私は隣に座って花ちゃんのことをそれとなく話した。私が花ちゃんが好きだと言うのは伏せて。
「お前、その花ちゃんが好きなのか」
しかし容易く看破されてしまった。
まぁ、これも今思えば当然か。
私は男の問いに静かに首肯した。
「後悔しないようにしたほうがいいと思うぞ」
男はなんとも大人っぽく言った。
「どういうこったよ」
「告白をするのだよ」
「や、いや、無理だよ」
私は狼狽えた。けれど改めて言葉にされるとそうしたいという思いと、怖いという思いがせめぎ合っているのが何だか気持ち悪かった。
私はそれに狼狽えたのかもしれない。
「でもここでその気持ちを断ち切らなければ、一生後悔することになるぞ。経験談だ」
「断ち切るって……。失敗してるじゃんか」
男はハハっと笑って取り合わなかった。
「いつ引っ越すかは聞いたのか?」
「あー……知らない」
「じゃ、それを聞いてくるだけでも行ってこいよ」
「うーん」
私は煮え切らない返事をした。
そんな私を男は急かすように――激励するように私の背中を叩いた。
「とりあえず行ってこい。待ってるから」
私は勇気が出たように錯覚して、祠を後にした。
○
その後五時間。私は家で悶々としていた。
結局、花ちゃんの家を訪ねると思い立ったものの家に一旦戻るかと逃げてそのままでいた。
もう午後五時になろうとしている。まだ外は明るいがすぐ茜色になって暗くなってしまうだろう。
やはり私は花ちゃんに思いを伝えたい。
行くなら今しかない。そう思って重い腰を上げ、ひとまず家の外に出た。
花ちゃんの家には――店には歩いて十数分ですぐ近くだ。
けれど私は遠回りとも言えない回り道をして、存分に時間を使い、花ちゃんの家に向かった。
着いた頃には既に辺りは茜色に染まりきっていた。
店先にはもう花はなかった。それにシャッターも閉まっていた。中に仕舞ったのか、それとも営業自体をもうしていないのか定かではなかった。
まさか、既に引っ越してしまっているのか。
インターホンを押そうにも玄関がどこだかわからない。
「こんにちは」
店の前であたふたしていると後ろから声が聞こえた。
「こ、こんにちは」
「あ、夕方だし、もうこんばんはかな」
そう言って声の主は笑った。
花ちゃんだった。
「どうしたの? うちの前で。お花をお買い求め?」
花ちゃんは花屋の娘らしいことを言った。
本当に引っ越してしまうのだろうかと疑ってしまうほど天真爛漫な――私の好きな花ちゃんのままだった。
しおらしくしていたら、なんてのは杞憂だった。
「あ、あのさ! 引っ越すって本当?」
私は声を振り絞った。心臓が痛いほどに早鐘を打っていた。
思いの外、大きな声が出て自分でもびっくりした。
「うん。明日にはもう行くよー」
そう花ちゃんは軽々しく言い放った。その顔には笑顔が浮かんでいた。
「寂しい、とか。ない?」
「うーん。それより、新しい場所が楽しみ!」
おそるおそる聞いた問いも、簡単に否定されてしまった。やはり笑顔だ。
僕は聞かなくてはと焦燥に駆られた。
時間がないのもそうだが、花ちゃんの笑顔を見ているとほんわかして聞きそびれてしまうと思ったからだ。
「は、花ちゃん」
「なあに?」
私はやけっぱちふうに言葉を紡いだ。
「お、俺! 花ちゃんのこと、が、好きだ!」
ここまで言い切ったのはいいものの、この先何を言えばいいのか全く考えていなかった。というより半ば満足していた。
自己満足だ。
気持ちを伝えたいということだけが先行してしまって結局、何がどうなればいいか考えていなかった。
花ちゃんからしてみればとんだ迷惑だ。
私は次の言葉が出なかった。
私は謝ろうと思った。
けれど花ちゃんが口を開くほうが早かった。
「ありがと。でも、私引っ越しちゃうから。うーん。なんて言うか。ごめん、ね?」
「はは、は。そう、だよね」
私はやせ我慢で笑ってみせた。
花ちゃんもころころと笑った。
それを見ていると何となく、振られたというのに、気持ちが晴れやかになるような気がした。
「それじゃあ、さよなら」
私はそれでも居たたまれなくなって駆けだした。
私は階段に――祠に向かった。
息も絶え絶えに男のもとへ向かった。
階段から転げ落ちそうになりながら祠に着いた。だがそこには男の影も形もなかった。
「バカ野郎!」
私は叫んだ。
だがまぁ、五時間以上も座っていろと言うほうがおかしい。
私は階段を駆け上がった。
そして町を走った。
無我夢中だった。
だから途中まで気づかなかった。
違和感があった。いつもの私の知る町じゃないような違和感が。
妙に新しい建物もあれば古い建物もある。
それにアスファルトもやけにひびが入っている。
と言うか今まで気づかなかったのが不思議なくらいに空が青かった。夕暮れの気配など一切なかった。
「あれ、あれ?」
確証はないが確信はあった。
ここは私の知る町ではない。
「こっ、ここから近いのはっ」
私は自分を鼓舞するように独りごちた。
私の知る街ではないがやはり私のよく知る町のようでもあり、道自体はその知っている部類だった。
近いのは花ちゃんの家だった。
不安と気まずさで足が進まない。
おずおずと歩を進める。
曲がり角に来た。曲がれば花ちゃんの家が見える。
呼吸を整えて一歩踏み出した時、曲がり角から人が出てきた。
「おっさん! どこ行ってんだよ!」
それは私を待っていてくれなかった大学生だった。
男は目を丸くして私を見て、すぐにハッとした顔をした。
「ああ、ダメだったか」
そう、ひとこと言った。
安心すると自然と涙が出てきた。
私は男に泣きついて、喚いた。
男に連れられ、いつの間にか私は祠の場所にいた。
石越掛に並んで座った。
黙っていた。黙って座っていた。
私は男に会って何を話したかったのだろうか。
そんなことを考えていると男が口を開いた。
「ダメだったか。やっぱり」
「やっぱりってなんだよ」
私はなけなしの元気で毒づいた。
男は笑っていた。
私はことの顛末を話した。
「そういやさ、俺も今日で大学のほうに戻るんだわ」
「は? どういうことだよおっさん!」
想定していた答えにかすりもせず、男は唐突にそんなことを言った。
「いや、言葉の通りだよ」
「何で言ってくれないんだよ」
「言ってたらお前、多分告白できてなかったろ」
私は押し黙った。確かにその通りだ。
「でもだからって何で今なんだよ」
「じゃあいつ言うんだ」
これまたその通りで黙りこくった。
「……ぐちゃぐちゃだよ、俺」
私は正直な、感想みたいなものをこぼした。
男は完爾と笑っていた。
「だが、これを乗り越えてこそ、また一歩大人に近づくのだよ」
そう、大人じみた適当なことを言った。
「なんで帰んだよ。もっといろよ」
「そう、花ちゃんにも言ったのか?」
「……言ってない。けどおっさんは自分の意志だろ。花ちゃんは違う。それにおっさんこの前、大学の夏休みは二ヶ月あるって言ってたろ」
私は半分寂しいのと半分八つ当たりで、男に言葉をぶつけた。
「俺は俺で都合があるからなぁ」
男は私を宥めるでもなくそう言った。
「バカ野郎……」
私は精一杯、悪口未満を言う他なかった。
「ま、また会えるさ」
そう言って男は私の頭をポンポン叩いた。
私はあの似て非なる町に迷い込むことは二度となかった。
そして男と会うこともそれから二度となかった。
○
私は翌日、男の言われた通りに朝早くに花ちゃんの家を訪ねた。
家の前にもう何人か集まっていた。
私は挨拶をしてその一団に混ざった。
程なくして家の中から花ちゃん一家が出てきて、それを私達で囲んでわーきゃー言った。
とは言っても私は最後方で突っ立っていただけなのだが。
花ちゃんは私に気づいていないようだった。
花ちゃん一家は車に乗り込んでいく。
私は何も言えないでいた。やはり何を言えばいいものか分からないでいた。
窓が開いて花ちゃんが顔を出す。
花ちゃんは笑顔だ。
その笑顔をせめてと目に焼き付けていると花ちゃんは僕に気づいた。
そうして僕を見て、確かに僕を見て言った。
「ありがとう。忘れないから」
笑顔でそう言った。
「また、また会えたら、また会おう」
僕はそんな正直な思いを伝えた。
目いっぱいの笑顔で。
○
夕焼けを見ながら、煙草が短くなる頃には回想は終わっていた。
失恋の感傷に浸りながら失恋の思い出を思い起こすことになるとは思わなかった。
まぁ、今回の失恋より、小学四年の失恋のほうが幾分か美しく、人に話せるものだ。
私は何となく実家に帰りたくなった。
私は心配性らしくリュックに要るものから要らないものまで詰め込んで身支度をした。
○
翌朝、何故か眠れずにいた私は始発電車で帰郷することにした。
始発に乗るのは初めての経験だったのだが意外と人が多くて驚いた。
電車を乗り継ぎ、五時間以上かかって故郷に着いた。
そのときにはもう眠気の大群が押し寄せていて、気が気でなかった。
電話をして親に迎えを頼み、来てもらった。
家に着き、その後はふらふらと自室だった場所に行き、埃っぽい布団を引っ張り出して泥のように眠った。
○
不健康な時間――夕暮れに私は起きた。
窓から差し込むオレンジが背徳感と罪悪感で、朝日よりも身に染みる。
背伸びをして目を覚ます。
覚めきらないまま私は居間に向かった。
ご飯の用意がしてあって、部屋に充満する匂いが空腹に響く。
父親と母親が私を心配そうに見ている。
確かに息子が急に帰ってきたと思ったら夕方まで寝ているというのは、中々の異常事態だ。
私はお茶を一杯飲んで眠気覚ましに散歩してくると言った。
外に出ると七月らしく蒸し暑かった。
散歩、とは言ったものの私には明確な目的地があった。
あの祠だ。
何となく行きたくなった。もしかしたらあの大学生がいるかもしれない。
また私の傷心を聞いてもらおう。
それに誰にも話さなかったあの不思議な町の話を聞いて欲しかった。
だってあの町で出会ったのはあの大学生だけなのだから。
正気を失っての勘違いだったのか、それとも本当にあったことだったのか確かめたかった。
階段を降りていく。こんなに道幅が狭かったろうか。
祠が見えてきた。苔の生えた石越掛も見えてきた。
やはり誰もいなかった。
溜め息を吐いて私は石越掛に座った。
そしていつかの大学生のようにマルボロを吸い始めた。
下原側から足音が聞こえてきて私はそちらを向いた。
総白髪のおじいさんだった。
元気のいいリズムで歩いているなと思ったら急に止まって祠の前でしゃがんだ。
私は何となくダメな気がして煙草の火を消そうとした。
「いや、いいよ。私も若い頃は吸った」
おじいさんは笑ってそう言ってくれた。
お言葉に甘えて火は消さなかったが吸いはしなかった。
おじいさんは手を合わせている。
「あの、この祠ってなんの神様が祀られてるんですか?」
私は聞いてみた。
子供の頃から疑問ではあったが遂に誰にも聞くことなくここまで生きてきた。それを今、気まぐれに聞くことにした。
「ん、元々は神社があったんだが……確か縁結びの神様だったかなぁ」
おじいさんはそう親切に教えてくれた。
おじいさんは下原に戻って行った。
縁結びか。知らなかった。
そう言えばこの祠の都市伝説はなんだったか。
失恋がどうとか。
ふと気づくと今度は高野側から足音が聞こえた。
そちらを向く。
子供だった。虫取り網を背負っている。
それを見てあの夏休みの疑問に全て合点がいった。
そして都市伝説の内容も思い出した。
神隠しにあうとかだ。
それはきっと当事者から見れば――時間を飛び越える夏の扉とも取れるだろう。
夏の扉 鯖缶/東雲ひかさ @sabacann
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