九話 只人の幸せ知るが故


 さて。それから急いで一本だたらに別れを告げて家に直帰した迫多は、パジャマに着替え、さも寝てました風に布団に入ったところで気が抜けて、なんとうっかり知恵熱を出した。新しい友達とも出会い、これから更に中学校の異変を解決するため頑張るぞ! というところではあったが、如何せん想装多用の反動に耐えきれなかったようだ。


 いつもの起きる時間に、様子を見にやってきた母親には、昨日遅くまで出歩いていたからだと怒られた。本来そこに因果関係はないはずなのに、今回ばかりは当たらずとも遠からずである。何せ、想装なんてものに触れるようになったのは、間違いなく昨日ユイノメタチノカミを起こしてしまったからなので。

 とはいえそんな事情知られているはずがない。だから迫多は母へ反論したかったのだが、思ったより口が回らず……結局無言で縋稔中へ欠席の電話が掛けられるのを見守る羽目になった。


「うぅ……」


 そしてユイノメタチノカミは、そんな迫多をただ見つめている。午前中も、今もずっとだ。

 別に面白くなんてない。心配しているか、と言われるとそれもあまりしっくり来ない。でも、迫多がこのまま黙ったままの未来を想像すると、釈然としなかった。


 だって迫多には、まだまだ利用価値がある。たまによくわからない説教をしてくるところや、生意気な口を聞くところは気に食わないけれど、従順なだけよりは張り合いがあっていい。目覚めてすぐ、ぽんと目の前にあったにしては有能なおもちゃだ。


(けど……そうだった。人間って脆いのね)


 ユイノメタチノカミは人間が嫌いじゃない。面と向かって大切だとか愛してるだとか、そんなこと言う気は起きないが、ちゃんと、守り神をやってあげる程度には好きだった。おもちゃにするには脆すぎるけど、それでも。


 薄ぼんやりと煙に包まれた己の過去と、熱や頭痛にうなされる迫多が何故か噛み合って、ほんの少しだけ記憶が蘇る。


 広い屋敷、一人眠る幼い少女。彼女の義姉達は仕事があって、仕方ないから私が傍にいてあげていた。かみさま、ありがとうございます。なんて、呂律の回らない舌で言って、少女は微笑んだ。

 その頃の私はもう、そんなこと言ってもらえるような存在じゃなかったのに。


「………………」


 あれはいったい、いつの思い出だろうか。なんてことない、日差しの暖かい良き日だったのは覚えている。ああでも……ダメそうだ。

 いつの間に村は姿を変えたのか。それすらもユイノメタチノカミにはわからないのだから。


「……ニュータウン、ねえ……」


 ユイノメタチノカミはため息をつく。そろそろ眺めるのもやめにしよう。みかげと違って、迫多は自分がそばに居てあげる必要もない。


「……あら?」


 そこまで思考して、ふと気づいた。


 みかげとは、誰だろう?


 考えてみても、ユイノメタチノカミはやっぱり何も思い出せない。おそらく、はるか昔に看病をしてやった少女のことだ。そう、そのはず。けれど、それ以上のことは一つも出てこない。

 それどころか、記憶を取り戻そうと努力するほど、逆にどんどん忘れていってしまいそうで、なんだかやけにもどかしかった。


――――――


 それから少しして、ふと迫多が目を覚ました。


「……? あー……ユイノメタチノカミ……」

「あら起きたの? お寝坊さん」


 自分の部屋といささかミスマッチな灰色の姿を視界に捉え、迫多はおもむろに起き上がる。氷枕はすっかりぬるい。効力のなくなった額の冷却ジェルシートを剥がして捨てた。


「おはよ」


 伸びをして、そう声をかければ、ユイノメタチノカミはこてんと首を傾げる。


「案外元気そうね?」

「んー……まあ、寝たしな。まだ眠いけど」


 発言を裏付けるかのようにあくびが出た。小学生の時なんか、卒業式で皆勤賞の表彰をされたくらい健康優良児なものだから、熱を出したのは久々だ。

 思い返せば、母親も珍しく驚いていたように思う。勉強机の上に置かれたりんごのすりおろしを見て、怒りが先に来るんだからなあ、と迫多はぼやいた。


 立ち上がれば、足元がおぼつかなくて僅かにバランスが崩れる。それでもなんとか歩く迫多を見て、ユイノメタチノカミはそのまま無様に転んでも良かったのに、と八つ当たりのように思った。


「迫多ー? 霧華ちゃん来てくれたからね!」


 どうにか皿を手に取ったところで、階下から声が響く。ベッドにぼふり、座り直した迫多は、それを耳にしてあからさまに嫌な顔をした。


「あいつ来たのかよ……」

「嫌な相手なの?」


 一方ユイノメタチノカミの表情は少し明るくなる。性格が悪いので、迫多をからかう材料はいくらあっても楽しいのだ。


「嫌って言うか……」

「何がイヤなの?」

「うわっ、きっか!」


 しかし、迫多がユイノメタチノカミに返事をしようとした瞬間、扉が開いた。そこに立っていたのは、一人の少女だ。


 学校帰りなのだろう。縋稔中学校指定の紺色のジャンパースカートと白いシャツで現れた彼女の名は、遠残とおざん霧華きりか。胸元を彩る制服の赤いリボンのように、きっちりとした性格の真面目な少女だ。


「急に来んなよな」


 ハーフアップに結い上げられた焦げ茶色の髪が揺れる。近づいてくる霧華を無視して、迫多はりんごのすりおろしを頬張った。


「心配してきてあげたんじゃん。ほら、プリント! ここに置くからね」


 一方霧華は自身の鞄から出した、漢字の並ぶプリントを迫多に一度突きつけると、見せたそれを迫多の勉強机の上に置く。

 それから、目に入ったらしいすぐ側の本棚を物色し始めた。迫多がついこの間買った漫画の新刊を見つけると、抜き取りパラパラと捲る。


「……そりゃどーも。帰るときはこれ母さんに渡しといてくれ」


 その様子を特に咎めず見ていた迫多は、けれど代わりと言わんばかりに食べ終わり空になった皿とスプーンを霧華に押し付けた。霧華は「ええ?」と嫌そうな声を出したものの、仕方なく皿を受け取り、漫画を戻す。


 そんな一連の流れに、ユイノメタチノカミは変な二人だ、と評価を下した。もしこの結論を迫多が聞いていれば、俺とお前も大概変な関係だと文句を言ったことだろう。


 しかし、迫多と霧華の妙な距離感。二人のこれには理由があった。彼らは迫多がニュータウンに住み始めた三歳の時から隣同士の家で育ってきた、いわゆる幼なじみなのである。もう少し歳を重ねればまた変わるかもしれないが、少なくとも今の二人の間に遠慮なんてものは殆どない。

 まあもちろん最初は違ったけれど、幼い霧華が焦げ茶の髪と、薄く青が混ざった黒い瞳を馬鹿にされていた時。迫多がそれを庇ってから、二人は一気に打ち解けたのだ。


「まったくもう……とにかくプリントは渡したからね? それ、月曜の国語の宿題なんだから。ちゃんとやってよ!」

「はいはい。お前も忘れんなよ」

「忘れるわけないじゃん、迫多じゃないんだから」

「………………」

「あははっ変な顔」


  迫多にじとりと睨まれながらも、霧華はケラケラ笑った。こんな応酬なんて些細なことだと知っているからだ。それから、迫多がいつも通りなことに安堵して……なんてのもあるかもしれない。心配していたのは事実なので。

 そうこうしているうちに日は沈む。鞄を拾い、皿を片手に自身へ背を向けた霧華を見て、やっとご帰宅かと迫多は肩を下ろした。


 だが、ドアノブへ手を掛けて、そこで霧華の動きは止まる。


「……きっか?」


 不審に思い声をかければ、彼女は振り返ることなく、本音を零した。


「ねえ、迫多。大丈夫?」

「え……」

「その……淀見くんもずっと来ないし、なんかクラスのみんなも先生もピリピリしてて、迫多まで熱だしちゃって……最近、おかしいなって」

「あー……そう、かも……な」


 確かに近頃の学校はおかしい。霧華がそう思っているなんて予想もしていなかったけれど、その気づきは大正解だ。

 迫多はその言葉を受けて、ちらりと空に浮かぶユイノメタチノカミを見上げる。なんてことないすました顔、何を考えているのかさっぱりわからない。


(ほんとのことなんて言えないしなあ……)


 巻き込みたくない気持ちが四割、霧華の性格的に信じてもらえるわけがないと悟っているのが六割といったところだろうか。

 事実迫多ですら、先程目が覚めてユイノメタチノカミの顔を見た瞬間、夢じゃなかったかー……と思ったくらいだ。同じ歳だというのに生意気にも大人びたことを言う、いわゆる現実主義の霧華には、頭までおかしくなったのかと眉をひそめられるのが関の山である。


「あー……まあ、とりあえず俺は大丈夫だよ。学校が変なのは……わかんねえけど、俺達が変わらずいれば、そのうち何とかなるって」


 これはなんの解決にもならない浅い慰めだ。それでも結局、迫多は霧華へそれしか言えなかった。


「そうかな」

「そうだよ」


 格好良く、俺が何とかするよと見栄を張りたいところではあったが、仕方ない。

 ベッドから降りると、迫多は霧華の背中を押した。


「とにかくもう帰んな。で、おばさんに美味しいもの作ってもらって、一旦忘れろ! 来週は俺も行くから」

「……うん。なんかごめんね、迫多。じゃあ、また。ちゃ、ちゃんと来てよ!?」

「はいはい」

「わ、もう! 押さないでよー!」


 グイグイと部屋から追いやるわりに、その力加減は優しかった。


「……よし。行ったな」


  階段の降りる音が聞こえなくなって、やっと一息をつく。やけに静かだったユイノメタチノカミの方へと振り向くと、目に入った彼女は形容しがたい表情をしていた。


「ユイノメタチノカミ? どうしたんだよ」


 不審に思って袖を引けば、ユイノメタチノカミは神妙な顔で迫多へ問うた。

 

「……ねえ、あなたの好きな子って今のでしょう」

「っ! べ、別に好きとかじゃ……」


 嘘だ。図星を突かれたこととそれを認めることの恥ずかしさが二乗でやってきて、口から否定が飛び出しただけである。

 

「そんな馬鹿みたいな誤魔化ししなくても、最初っから見えてたわよお。これでも縁を司るんだから」

「う……そ、そっちこそ、急にそんなこと言ってなんなんだよ!?」


 馬鹿、といつものように迫多を貶しつつも、それ以上揶揄うことは無い。それに迫多は、反論しながらも、あれ? と思った。


(初めて出会った時のこいつなら、もっと……)


  それは虫の知らせ、又は第六感とも言うだろう。そしてその予感は的中する。


「迫多。私、あなたに力を貸してもらうのはやめることにするわあ」


 迫多はどうやら、ユイノメタチノカミに見切りをつけられてしまったらしい。

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