誤解です、旦那様…!(1)


 —————————*



「髪留めと眼鏡は、いつか……ちゃんと返すから」


 額から形の良い唇が離れるのと同時に後頭部が大きな手のひらで包まれる。

 エリアーナの滑らかな額に頬を寄せ、レオンが囁いた。


 この状況をはたから見れば、レオンの抱擁を甘んじて受け入れているようにしか見えないだろう……エリアーナの気持ちなんてすっかり除け者にしたままで。


 「!?」


 どん! と音が出そうなほど強く、ぶ厚い胸板を突き離した。

 嫌悪感と怖さが一気に押し寄せて言葉が出ない。ただ目の前にあるものから逃れたくて無我夢中だった。


「……な……に、するの」


 込み上げてくる怒りの感情が抑えきれずに平手を高く上げる。

 思い切りひっぱたいてやろうと思った。なのに——華奢な手首はレオンの手に掴まれてしまう。


「驚かせたのなら謝る。だがエリー・ロワイエ……俺は、本当に」


 蠱惑こわく的なレオンの青い瞳が、今は途方もないほど心許なく揺れている。


 ——そんなレオンが継いだ言葉は突然、甲高い女の声に遮られた。


「レオン……? あなたがレオン・ナイトレイ!? ねぇ、そうでしょう? そうなんでしょうっっ、『魔術学園の貴公子』見つけたぁー!」


 書棚の合間からひょいと顔を覗かせた一人の少女は、無遠慮にずかずかと二人の間に詰め寄った。


 長い黒髪を揺らし、ルビーレッドの瞳を輝かせて。

 胸の前で手を組んで祈りのポーズを決め込み、満面の笑みを浮かべた少女はあっけに取られるレオンをあがめるように見上げる……どうやらエリアーナは彼女の視界に入っていないようだ。


「…………は?」


 レオンはあからさまに目を眇めた。だが少女はおかまいなしに、ぐいぐい迫ってくる。


「ああーっ、やっっっと逢えた! まさか書庫室で出逢えるなんて……。ジルベール王弟陛下はすぐ見つけたのに、生徒会室に毎日通っても逢えなかったのに……!」


 祈りのポーズのまま瞳を輝かせ、少女はレオンをまるで珍しいものでも見るように前から横から後ろから眺めて回る。

 そんな少女の『奇行』にレオンは成すすべもなく、戸惑う青い瞳がエリアーナに助けを求めた。


 「知り合いなの?」と、目だけで尋ねれば、レオンは「まさか!」ふるふるとかぶりを振る。


「もしかして、あなたが……アネット?」


 編入生のアネット・モロー。

 長い黒髪にルビーレッドの瞳を持つ彼女——ジルベール生徒会長にわざわざ世話役を付けようとまでさせた問題児——に違いなかった。

 

「あらいたの? あんた誰? あっ、やだあたし? そう! アネットわぁ、あたし」


「……ちょうど良かった。私はジルベール様からあなたの世話役を仰せつかった十一年生のエリー・ロワイエです。あなたが書庫室で待っていると聞いて、友人のアンと探していたところなのよ」


「ふーん。わざわざ自己紹介してくれちゃったみたいだけど、こっちはの事なんかどうでもいいけどね?」


 ————「あんた」……?

 

 エリアーナにはもうこの時点で明日からの更なる苦悩が透けて見えた。


「それよりもぉー…。やだ、アネットったらぁ。レオンとの遭遇で頭んなかパニクってる?!」


 聞き慣れない語り口調を繰り広げながら鞄の中身をひっくり返す。

 ごちゃごちゃと細かいものを床に広げていたが、その中から何やら薄紙に包まれた小さな塊を手に取ってレオンに差し出した。


「はいこれ! 今回わぁ……チョコレート。だって全然逢えないからさぁ。ずっと鞄んなか入れてたから形くずれちゃったけどぉ……まいっか」


 得体の知れない代物を強引に突きつけられては、もう受け取るしかない。

 指先でつまんだ塊にレオンが顔をしかめると、アネットはその何倍ものしわを眉間に寄せた。


「うわー、うわっ。またしくった———! なんだよ、チョコも違うのかよ……ってコトはぁ、正解は飴玉?」



「「…………………」」


 相当な変わり者をの当たりにした衝撃で、突然の告白とキスの戸惑いなんてどこかへ飛んでいってしまう。

 エリアーナとレオンは呆気に取られたまま、もう一度顔を見合わせるのだった。




 *




「ふぅぅ……」


 さすがに反省すべきだとも思う。

 ため息を吐けば幸せが逃げていくと言ったのは誰だったか。


 ——私ったら、ため息ばかり。


 アネットとのを済ませたアンとともに、三人はレオンと別れて書庫室を出た。

 レオンは名残惜しそうにしていたが、何も知らないアンとアネットの前でレオンとの攻防戦を蒸し返すわけにもいかなかった。


 ようやく帰路に着こうという時、アネットが教場に忘れ物をしたと言い出した。

 アンに付き添いを頼み、遠路を帰らねばならないエリアーナはひとりきりで馬車の待つ厩に向かう中庭の石畳を歩いていた。


 ——急がなきゃ。御者のアルバートさんが待ちくたびれてる。


 眼前に広がる空は群青色から橙色に美しいグラデーションを描き、一番星が輝いている。夕風はほどなく肌寒い夜風に変わるだろう。


 薄い紫がかった銀糸のような髪がさらさらと風に靡いた。

 髪がのは、レオンのせい。


 ——髪留め、結局返してもらえなかった。一つしか持っていない大切な眼鏡も。


 帰り支度が遅くなってしまったのを焦る気持ちのなかで、書庫室でのレオンとのやり取りがむくりと首をもたげてくる。


 —— 本当に、ちゃんと返してくれるのかしら。


 額にキスを落とされた時は驚きと嫌悪感しか湧かなかったけれど。

 ふざけているとしか、思えなかったけれど。

 そのあとに見せたレオンのはどこか悲しそうで、心許なくて——


「ふざけて、たのよね……?」


 額にふれたあたたかさとその感覚はまだ鮮明で、レオンの眼差しと相まってエリアーナの心をほろ苦く揺さぶる。


「きゃ?!」


 大きな木の影から腕が伸びて、手首を取られた。強く引かれ、否応なしに立ち止まる。ふらりと身体が揺らいで目をつむった。


 気付いた時には、茂みの奥の塀を背にして立たされていた——に囲まれるようにして。


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