Case:A 夫の選択

A-1

* 東 康介こうすけ


 数日前


「ねぇ、あなたからも言ってよ」

「なんだ藪から棒に。言ってよって、そもそも誰に何を言うんだ」

 朝食の準備を終えた涼子がわざわざ洗面所にまでやって来た。俺は鏡を見ながらネクタイを締めている最中だったので手を止めなかったのだが、それが気に喰わないのか涼子は声をとがらせる。

「前から言ってるじゃない。涼介りょうすけの塾のことよ。あの子、最近どんどん成績が落ちてるから塾にでも通わせた方がいいんじゃないかと思って」

「本人にやる気が無ければ塾なんて通わせたところで無駄足だろう」

「でもこのまま何もしないと進路にも影響するし……」

 眉尻を下げる妻と鏡越しに目が合う。『分かった。俺からも一度言ってみるよ』という言葉を待っているような、はっきり言ってやり辛い眼差しだ。


「お前は言ったのか?」

「え?」

 聞こえなかったわけではないだろうが、俺は振り返って涼子を直接視界に入れながら言った。

「お前は涼介に言ったのかと訊いているんだ」

「言ったわよ。でもあの子、生返事ばかりでちっとも言うことを聞いてくれないんだもの」

「甘やかしすぎたツケだな」

 言い返される前に足を前に出すと、涼子は勝手知ったると言わんばかりに後ろに下がって道を開けた。貴重な朝の時間を無駄にしたくないので助かる。そうしてリビングへ向かいながら時計を眺めるともう六時になろうとしていた。いつもより数分遅くなってしまったらしい。

 それでイライラしたわけではないが、俺の口調は少々突き放すようなものとなった。


「お前は優しすぎるんだ。涼介は中二で反抗期真っ盛りだろう。何でもかんでも親の言うことに反発したくなる年頃なんだよ。一度くらいガツンと言って鼻面を折ったほうが良いんじゃないのか」

「だからそれをあなたにお願いしたいのよ」

「俺はいつも仕事で帰りが遅い。アイツが起きる前に家を出て、眠ったあとに帰る。土日だって出張やらなんやらで家を空けることが多い。必然的に涼介のことはお前に任せがちになるんだから仕方がないだろ」

「でも……」

「涼介を妊娠した時、お互いにそれぞれの役目を全うしようと誓ったじゃないか。俺はお前たちのために金を稼ぐ。お前はこの家を守る」

「今はそんな亭主関白が通用する時代じゃないのよ? 隣の橋本さんだって旦那さんが週末は子どもの面倒を見てくれるから随分助かってるって言うし」

 俺は湯気を立てる味噌汁を一口飲み、誤魔化すように溜め息を吐いた。こうすれば飲み物を飲んだあとに自然と漏らす息だと装えるからだ。人前、特に家族の前では溜め息を吐かないように意識してきた俺なりの処世術。それを涼子は知っているだろうか。


「時代に対応するだなんだ言って、実際は時代に後追いしてるだけだろう。そんな奴は大して稼げん。その橋本さんの旦那なんて最たる例じゃないか。親から譲り受けたマイホームがあるだけで、車はオンボロの中古ミニバン。そもそも家だってぼちぼちリフォームが必要な代物だろう。スーツや私服は見るからに安物。唯一の趣味が子育てだってだけだろう。育休が取りやすいのも会社で大した役職に就いてないからだ」

 俺は無言で白米をかき込む。こんな話などしたくない。もっと大事なことがあるのだ。

 だが妻は今の話で気分を害したのか、湯飲みを叩きつけるように置いた。熱い茶が辺りに散らばり、涼子の手にも降りかかる。

「……火傷、するぞ」

「あなたはいつもそう」

「……何がだ」

「そうやって自分の役目だけを果たしていれば良いと思ってる。自分が努力して高い地位を手にしたから、そうじゃない周りの人たちを見下しても良いとさえ思ってる。本当は涼介が産まれたのだって喜んでないくせに!」

「そんなことはない」

「あるわよ。ある……」

「その証拠はどこにある」

「あなたはさっき、『涼介を妊娠した時』って言った。子どもが出来たことを喜んでたら『授かった』って言うのが普通じゃないの?」

 泣き出しそうな涼子の顔を見て俺は箸を置いた。更年期障害という歳でもないのに涼子は感情の起伏が激しい。もう子どもではないのだから落ち着いてほしいと思うのは決して傲慢ではないだろう。

 まさか妊娠か授かったの違い程度でこうも責められるとはな。しかし時間は有限。金では買えない貴重なものだ。朝は特に。言い合っている時間などない。もう会社に行かなくては。

「ちょっとあなた……ご飯は?」

「今日はもういい」

「でも朝ごはんはしっかり摂らなくちゃ。元気だって出ないし、頭が回らないっていつも言ってたじゃない」

「途中で何か買うさ。一日くらい平気だ」

 言いながら内心で後悔もしていた。今日くらいゆっくり話を聞けば良いじゃないか、と。


 俺はいつも就業時刻より一時間以上も早く出勤している。通勤に使っている電車が人身事故に巻き込まれたり、何らかのトラブルで遅延が生じても間に合うように。そのおかげで今まで遅刻したことは無い。

 お隣の橋本とやらは体調を崩した妻の代わりに子どもを幼稚園に送ってから出勤することがたまにあるので、おそらくその都度遅刻しているのだろう。フレックスタイムを採用している会社かと思ったがそうではないと涼子が言っていた。であれば出世とも無縁なはずだ。

 妻も妻だ。若いうちに無理をしないでいつ無理をするというのだ。これから体は衰えていく一方なのに旦那の足を引っ張って未来の収入を失ってどうする。

 目先の利に囚われるといつか大損する。そんなことも分からないのか。橋本とかいう男が低所得なのも半分は妻のせいじゃないのか。金が無くて苦労するのは遠くない未来の自分たちだろうに。

 私事、私情に流されず、長期的に物事を判断する勤勉な社会人。それが家族を養う勤め人のあるべき姿であり、目指すものだと信じて生きてきた。

 だが、はたしてそれは本心だろうかと最近は考えることが増えた。

 俺は不安定になりがちな涼子と、気難しい年ごろになった涼介の二人と顔を合わせたくなくて無駄に家を早く出て、不必要な残業をしているだけじゃないのか。そうでないと否定出来る材料が充分にあるだろうか。


 やめよう。考え事をしているとタバコが吸いたくなってくる。最近は一日に吸う数がめっきり減っていたのに。まぁ、今さら禁煙したところで大して意味は無い。毎日二箱も買っていた昔の自分が今の俺の有様を知ったら驚くか、やっぱりなと嘲るだろうか。

 今までに掛かったタバコ代はいくらだろうな。ただ、これも半分は投資みたいなものだ。勤めだして間もない頃は喫煙所でたびたび上司と会い、吸っている銘柄が同じであるだけで気に入られ、大事な取引先への外回りなどに同行させてもらえた。そこで新たな発注を取って来た日には上司の機嫌も良く、俺は同期より一歩も二歩も早く出世街道に乗った。

 他にもある。古い世代の上役らは喫煙所で重要な話をすることが多く、事実上の会議室のようなものとなる。そこに居るだけで「今回のプロジェクト。お前がやってみろ」と仕事を回されるのだ。

 もちろん俺の手腕によって結果は左右されるが、そのチャンスを貰えたのはタバコを吸っていたからという、傍から見れば下らないものだろう。

 だが世の中そんなものだ。昇りつめる人間は色々とアンテナを伸ばしている。俺もそうしただけだ。

 それが出来ない奴はいつまで経ってもくすぶったままだ。やれ政治が悪いだの、やれ世の中が悪いだの、外に理由を求めだす。自分が底辺にいる理由を知らないまま憐れに朽ちていく。その考えを理解できる人間は意外と少ない。だから多くの人間が経済的に苦労する。ただの因果応報だ。馬鹿らしい。


 しかし改めて考えてみると、こんな性格では敵を作りやすかっただろうな。若い頃はただひたすら前と上を見て過ごしていたからそれにすら気が付かなかった。なんで今になって客観的に見つめだしたのか自分でも分からない。

「行ってくる」

 靴ベラを使って足を長年親しんだ革靴に滑らせる。その後、妻が俺にカバンを手渡す。何年も繰り返してきた朝のルーティンワークは、順当にいけばまだ十五年ほど繰り返さなくてならない。

 そのはずだった――

「……行ってらっしゃい」

 いつもならその言葉を受けて扉を開ける。だが今日はそうしなかった。普段と違う俺の様子を見て妻は不安げな表情を浮かべた。

「帰ったら話がある」

「話って……今じゃ駄目なの?」

「あぁ、大事な話なんだ。俺にも、君たちにとっても。とても重要なことだ」

 いかん。含みを持たせ過ぎたか。これでは不安を煽っているだけだ。まったく、どうして俺はこうも口下手なんだ。

「ねぇ、せめてどんな話なのかだけでも教えてくれない?」

 出会った時から変わらない迷子になった少女のような瞳を向けられると途端に思考が真っ白となる。つい先刻ヒステリックになりかけた女とは思えない。俺はその瞳に何度も負けてきたんだ。一度くらい勝たせてもらえないだろうか。

 それなら、たまには冗談じみたことを言ってみようか。

「驚いて腰を抜かさないようにな。俺たちももう若くないんだから」

 そう言って扉を開け、俺は涼子の視線から逃れるように背を向けて足早に歩きだしたは良いが、すっかり足に馴染んだはずの革靴が大きくなったように感じて僅かながら違和感を覚えた。ブカブカの靴を履いているようでどうも歩きづらい。駅までのほんの数分でも体が芯から冷える真冬なのだから明日からは暖を取る目的も兼ねて少し厚めの靴下を履いて誤魔化すか。


 気が付くと俺は上着の胸ポケットを漁っていた。しかし目当ての物がないことに気が付くと、今まで堪えていた溜め息を我慢することが出来なかった。

 やはり怒ってしまっただろうか。今までなら俺がタバコを持たないまま家を出ようとすると、すぐに察して持って来てくれたのに。

 生きるということはこんなにも……難儀なものだったか。

 

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