この地下牢から、脱出して

篠目薊

第1話

 五点減点。ポイントがまた減った。ポイントは、貯まれば貯まるほど良いことがある。例えば、冷たい水仕事の免除。例えば、辛い掃除の時間の軽減。例えば、その日の食糧。しかし、この子は今日、入ってはいけない調理室に忍びこみ盗み食いをしようとしたらしい。だから、五点減点。別に、本人が自首したわけではない。調理室の管理人が(話によると管理人がいつも昼寝をしている時間帯に忍び込んだようだが)直接見たわけではない。それを見ていたという一人の男児が、そう、施設長に報告しただけだ。もちろん自分はそんなこと、やっていなかった。その時は、部屋を片付けていた。同室の子供達から押し付けられた仕事だったが。施設長にそのことを言ったが、耳を傾けようとはしてくれなかった。男児からの、確かさなど微塵も無い情報。施設長は確かめようともしなかった、信憑性などほぼ皆無の情報。それによって、今日、自分の席に夕食は用意されていない。

 ……まただ。これで、四十三回目。ああ、でもこの間は朝食抜きに、廊下掃除までさせられた。雑巾を入れたバケツは、中に入った水で不気味な程重かった。その水は、手の指を千切ろうとしてくるかのように冷たかった。手は氷のように冷たく、真っ赤になった。もう過ぎた過去の出来事が脳裏をよぎる。あの時より、マシか。

 しかし、夕食抜きはとても辛かった。

 一人、部屋に帰り、冷たいベッドに身を投げ出した。日は完全に落ちていて、部屋の中は真っ暗だ。何も、見えない。しかし、電気をつけようとはしなかった。付けたら付けたで、電気代がどうとかでまた減点される。そしたらまたご飯にありつけない。電気をつけたことを誰かに知られでもしたら。自分で自分の首を絞めるような馬鹿な真似、死んでもしてやるものかと思った。

 この施設では、誰かの違反行為や失敗したことを施設長に報告すると、ポイントが貰える仕組みになっていた。ポイントが多くなると、いいことがあるというのは、先ほど述べた通りだ。そして、自分が周りの子より小さく、弱いことは誰よりも承知していた。だから、自分がいい点数稼ぎの獲物であることも。心の優しい子供なんて、一人もいなかった。皆、点数稼ぎに躍起になっている。誰かの罪を告発しようと、目をいつもギラギラとさせている、まるで、飢えた獣。自分は、そのなかでいつも殺されかけている、弱い獣の一匹なのか。

 悔し涙が目に浮かんだ。それが眼窩の淵から溢れそうになる。それもまた悔しくて、黒い天井を思い切り睨んだ。目が痛くなるまで、じっと天井を睨みつける。何も見えない。目にうつるのは、ただの黒、黒、黒。果たして自分が目を開いているのか閉じているのかわからなくなる。

 もう、こんなところにはいたくなかった。しかし、外に出て一人で生きていくことなんて不可能だ。まだ自分が子供であることは、認めざるを得ない。死ぬのは絶対に嫌だった。しかしここにはいたくない。でもここでないと生きられない。

 嫌だ、嫌だ、いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだ。辛いのは、痛いのはもういやだ。思うように掃除が出来なくて、お馴染みのご飯抜きに折檻までされた。その時の痛みを思い出し、身体が勝手に震えた。話したこともない奴から覚えのない罪をなすりつけられ、皆の見ている前で怒鳴られ、頬を何度も叩かれた。その時の悔しさと恥ずかしさのごっちゃになった感情を思い出し、目の前の暗闇が霞んだように思えた。

 もういやだ。ここには、いたくない。眠気で回らなくなった頭の中、そのことばかりを反芻する。もういやだ、ここにはいたくない。誰か……誰か僕を攫って行ってくれないか。皆の知らないうちに、こっそりと。施設の奴らが違和感に気づいた時、僕はすでにここに居ないんだ。いや、あいつらは違和感なんて感じないのかもしれない。むしろ厄介払いが一人できたと喜ぶのかもしれない。それとも、得点稼ぎの道具を失ってがっかりするのかな。いずれにしろ、自分がいてもいなくてもそれほど変わらない存在であることは確かだった。それだっていいさ。僕は、僕は……。その時、頭の中に微かに電流が走ったように思った。“僕”という一人称は、少しでも自分を強く見せたくてわざと使っていたものだ。皆から見くびられ、獲物にされているあたり、この強がりは機能しなかったようだ。それを無念に思う気持ちが怒涛のように押し寄せた。再び涙が盛り上がる。それを堪えたくて目を閉じたが、逆効果だったようで、溢れたソレが、枕を濡らした。

 いつしか、眠りこんでいた。


 しかし、朝は確実にやってくる。気だるい光とともに、現実を突きつけるべく日光が上った。

 一部屋に一つ置かれた大きな目覚まし時計がけたたましく鳴り響き、子供達は起床し、行動を開始する。顔を洗い身支度をし、食堂に集まった子供達の数は約六十。彼らは一斉に、今度は食事の用意をし始める。

 自分の皿に料理を盛り付けようと、列を成した彼らの中に、その子供もいた。オドオドと周りを見渡し、自分に害がなされることが無いか確認する。前に、すれ違いざまにスープをかけられたことがあったのだ(勿論、相手は施設長に「こいつからぶつかってきた」と嘘を言い、自分は減点され、そいつは加点された)。幸い、その日は無事に席まで辿り着け、朝食にありつくことができた。ビクビクしていたのがバカらしくなるくらい、何もない食事時間だった。だが、何もないと油断しているのが一番危ない。思わぬところで害を受けるかも知れない。何か、勘のようなものでそう感じていた。

 明日あたり、危ないかもね。

 自分の身に降りかからないかもしれない損害を真剣な顔で考え、そんな自分がおかしくて、自嘲気味な笑いが口元に浮かんだ。


 その日の、朝食も終わろうかという頃だった。空になった食器の並ぶ長机の向こう側、自分と向かうように座った少年等からの会話が聞こえてきた。食事中は喋るなという施設長に見咎められないようにする為か、かろうじて聞き取れるほどの小声だった。聞き耳を立てた訳ではないが、会話の内容が耳の中に滑り込んでくる。

「なあ、新しく発売されたゲーム知ってる?」

「知ってる知ってる……学校のクラスのやつがさ、先生に無断で持ってきてた」

「バレなかったのか?」

「バレなかったよ。……少し貸してもらったんだ」

「どうだった?」

「んー……まあまあ面白かったよ。でもちょっと難しかったかな」

「難しいのか……」

どんなゲームなんだ?とその少年が問うたのが聞こえてきた。何故か、とても気になった。話の続きが聞きたくて耳をそばだてる。

「まず……七人のキャラクターがいて、自分の好きなように攻撃と守備の人数を決められるんだ。そいつらを動かして、モンスターを倒していくんだよ。簡単そうだけど、七人もいるから動かすのが難しくってさ……。で、最終的にボスキャラを倒したら終わり。ゲームクリア」

「……それだけ?」

がっかりしたような声がテーブルに落ちた。説明していた少年は、慌てたように話を続ける。

「それだけじゃ無い。キャラクターは何人もいて、その中から好きな七人を選べるんだ。それに、ステージはたくさんあって、仲間にしたモンスターとか、実際に倒したモンスターの数とかでその結果が変わってくる。だから、何通りもある結果を全てやり尽くすまで、何回もトライできる……最高だろ?」

「まじか……俺もやってみたいな」

「今度そいつに頼んでみるよ」

「ゲームの名前は?」

「“ダンジョン・ナル”」

 ……“ダンジョン・ナル”?それがゲームの名前なのか?なんとなく気になった。目線を下げ、服の袖で机に飛んだスープを拭うふりをしながら、話の続きを聞こうとする。だが、その後は、ゲームの名前がダサいだの先生にバレた時の対処法はどうするだの、その子供にはどうでもいい話ばかりだった。やがて、「いくら欲しくても、この施設にいる限り、俺達はそのゲームを手に入れることはできない」という結論に至り、その会話は終了した。食事時間終了のチャイムが、同時に響き渡った。

 食器を片付け、学校に行くべく廊下に溢れかえった子供達の間を縫うようにして、自室に戻る。途中、「邪魔だよ、ノロマ」と誰かにどつかれたこと以外は、いたって大きないざこざもなく、部屋にたどり着いた。ベッドのところに用意してあったバックパックを背負い、帽子を被ろうとして、

(あれ?)

帽子がないことに気づいた。初めて自分の金で買った、お気に入りのキャップだった。

 一旦バックパックを下ろし、周りを探す。寝床の中。ベッドの下。果ては、バックパックの中にまで手を突っ込んで探した。しかし見つからない。いつも、荷物の近くに置いてあるのに。その日に限って、無い。

 その時、部屋のドアが開き、三人の少女が連れ立って入ってきた。皆、その子供より二、三歳は年上だった。一番背の高い少女が、最初に部屋の中を探し回る子供に気づいた。

「……何やってんの」

 声を掛けられると思っていなかったのだろう、ビクン、と肩を震わせた子供は、青い顔で振り返った。

「あ、あの……いつもの……帽子が、無くて、」

「ああ。あの格好悪いキャップ?」

 彼女の言葉に、後ろにいた二人の少女が、堪え切れないと言ったようにゲラゲラと笑った。

 お気に入りの帽子を格好悪いと言われて、一瞬間は気を落とした子供だったが、すぐに、

「僕のキャップさ……どこにあるのか……知ってたり、しない?」

と聞き直した。さらに少女等の笑い声が大きくなる。顔が熱く、赤くなったのがはっきりと分かった。情けなくも震えてしまった自分の声が恥ずかしくて、涙が出そうになる。それを必死に堪えた。今度は成功した。

「あんたのやつか知らないけどさ、この帽子なら持ってるよ」

 彼女は、今まで後ろ手に持っていた、赤い何かを子供に向かって差し出した。子供はそれを見て、息を呑んだ。

 くったりとして、埃まみれの赤い物体。それは、間違いなく子供が探していた代物だった。しかし、まだ使い始めてそれほど経っていないはずなのに、いつもよりみすぼらしく見える。それもそのはず、鮮やかな赤い色で素敵だったキャップは、今やぺしゃんこに潰れ、埃に塗れて汚れ、その上靴裏の痕までくっきりと付いているのだから。大方、同室の彼女達の仕業だろう。

「……ひどい……」

「はぁ⁉︎」

思わずつぶやいた子供の、その小さな声を聞き逃さず、彼女はくってかかった。

「何?文句あんの?あんたが邪魔くさいところにこんな物いつも置いとくからでしょう⁉︎全部自分のせいなのに、その言い方は何なのよ⁉︎」

「そんな……僕は」

「五月蝿い!」

よほど子供の言い方が癪に障ったのだろう、このくらいの出来事ですっかり逆上した彼女は、子供の左頬を打っていた。ものすごい音が部屋中に鳴り響いた。気づけば、子供は床に臥していた。金臭い味が口の中に広がる。

「あんたさぁ‼︎いつもオドオドしてキョロキョロしててムカつくんだよ!『私は弱いです』って自分から言ってるようなものじゃないか‼︎なのに毎回被害者みたいな顔しやがって!それにいつも自分のこと“僕”とか言ってて!気持ち悪いんだよ‼︎見てるこっちがイライラすんだよ‼︎」

俯いたままの子供に、悪言が降り注いだ。

「あんたなんかあんたなんか……本当に、この部屋にもこの施設にも要らないんだから!」

「ねぇ、ちょっと。言い過ぎだって」

別の少女が嗜めた。それで、やっと彼女は口をつぐんだ。それがなければ、未だに罵詈雑言のオンパレードは続いていただろう。

「……こんな汚い物要らない。こんなに汚れているのに、これが欲しいの?信じらんない!欲しければ、自分で取りに行けば?」

言いながら、彼女はその薄汚れたキャップを、窓の外に投げ捨てた。

「あ……」

「あんたら、学校行くよ。こんなガキに構ってる暇ないよ。グズグズしてたらまた遅刻する」

床にへたり込んだままの子供には目もくれず、自分のバックパックを背負った彼女は、後ろの二人を急かしながら部屋を出て行った。急に静かになった部屋の中、子供だけが取り残された。

 帽子は、施設の庭の、植え込みの中に落ちていた。


「ねぇーえ、その左のほっぺどうしたの?」

その日の、放課後のことだった。

 同じクラスの友人に話しかけられ、子供は、束の間のおしゃべりに興じていた。

「真っ赤じゃん。先生にも聞かれてたのに、あんたってば、『大丈夫です』の一点張りでさ。……あんた今日さ、滑り込みセーフだったじゃん。帽子もなんかヨレてるしさ。そのことと関係ある?何かあった?」

「……ちょっと、同じ部屋の子と朝もめちゃって」

「ふーん……そっか」

大丈夫?と彼女は心配そうにこちらの顔を覗き込んできた。澄んだ視線が痛かった。この子には、今までに何回も嘘をついてきたが、今回もまた、僕は嘘つきにならないといけないらしい。大丈夫だよ、と明るい声で返した。まるで、何もなかったかのように。本当は、張られたところはまだ熱く痛んでいた。でも、自分の『家』の事情だ、友達に心配をかける訳にはいかない。

(本当は、まだすごく痛いんだけど)

「無理しないでよ。いつでもあんたの話聞けるからね。辛いことあったら何でも言ってよね」

「うん。ありがとう」

「そんな沈んだ顔しないでよ……そうだ!今日一緒に帰ってさ、その後私ん家でゲームしない?」

「ゲーム?いいの?」

「いいよいいよ!この間新発売で売られてたやつでさ、私の弟が親に買ってもらってた。一回私もやってみたんだけど難しくて。最高三人でプレイできるらしいから、誰かと連携プレイしてみたかったんだよね。七人もプレイヤーを動かすんだけど、これが難しいんだよ。そういえば、あんた指先器用だったよね?手先が器用なあんたにはうってつけじゃない?」

新発売。難しいゲーム。七人のプレイヤー。それって、もしかして。

「“ダンジョン・ナル”?」

「そうそれ‼︎何で、知ってーー」

その時だった。ヴン、と機械音のようなものが彼女のポケットから響いた。ハッとした彼女は、すぐにポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出した。今流行りの最新型の機種だった。

「ちょっと待ってーー」

 メールを読み始めた彼女の顔が、徐々に曇ってゆく。小声で、「うわ」とか、「まじか」とか呟きながら、指を忙しく動かしている。返信しているのだろうか。やがて、顔を上げ、申し訳なさそうな声で、

「ごめん。この後、部活が急に入っちゃったみたい」

「え……」

「その……今日は一緒に帰れないし、ゲームも出来ない」

「そっか。分かった」

 言ってから、がっかりした気持ちが表に出てしまっていなかっただろうか、と心配になる。それを隠そうとして、なおさら明るい声で、

「部活、頑張ってきてね」

と言った。彼女は、バスケ部だった。

「本当にごめん。こっちから誘ったのに」

「いいの。誘ってくれてありがとう」

 その友人は、何度も謝りながら、慌てて荷物をまとめ教室を飛び出して行った。

 ……神様って理不尽。

 神を信じているわけではないが、その時ばかりはそう感じた。

 子供はまた一人になった。


 学校を出ると、空は鉛色に曇っていた。厚い雲が重そうに空を埋め尽くし、肌に絡みつくような風が吹く。今にも雨が降ってきそうだった。湿っぽい空気が嫌で、子供は駆けだそうとした。だが、勢い良く踏み出した足を、直ぐに力なく下げてしまう。あの場所に帰ってからの苦痛を見越してのことだった。施設に帰ったら、また。何をされるか分かったもんじゃない。十分も走れば、『家』はすぐそこだった。恐怖と憂鬱が、頭の中を駆けていった。子供はそのまま、今にも止まりそうな程ゆっくりと歩き出した。下校する生徒達が次々と子供を追い越していった。それでも子供はそのスピードのまま歩き続ける。からかうように、ジメジメとした風が、体にまとわりつき、ほどけていった。

 こんな速さでも、体は確実に前に進んでいて、施設に近づいている。あの、忌まわしい場所に。やがて、道の途中に、小さな公園が見えてきた。それが目に入り、ますます施設に帰りたくないという気持ちが強くなる。

 ……寄り道してしまおうか。

 どうせ、自分はいてもいなくても変わらない存在だ。門限まであと一時間、時刻ぎりぎりで帰ったって誰にもとがめられないだろう。誰かを困らせることもない。あそこには帰りたくない、出来るだけ帰り着く時間を引き伸ばしたいという、それだけの気持ちだった。今は、その口実ができて、少しだけ安心していた。

 子供は、さっきよりかは幾分か軽い足取りで、その小さな公園に入っていった。誰かが、僕のことを、どこか別のところへ連れて行ってくれないかという、淡い希望と共に。


 その公園は、散歩用の道があるだけで、遊具などは一切なかった。昼間はよく近所の老人達が出入りしていたが、今は午後で、日が傾いてきているせいか、一人も見受けられない。いるのは自分だけだ。

 子供は迷わず、公園の道の途中に置かれているベンチに向かった。このベンチは、曲がりくねった散歩道の、そのカーブした所に設置されている。そのせいで、入口からは座っている人は直接見えない。だから、子供は、(誰にも気づかれずに連れて行ってもらうなら、この場所が最適だ)と、そう考えた。馬鹿げた考えだ、下らない妄想だと分かっている。でも、あの施設から離れられたらどんなに楽だろうかとも思う。

 散歩道を少し歩き、見慣れたベンチが見えてきた。少し暗くなりかけた、午後の公園のベンチ。その上を見て、子供はいささかぎょっとした。

 ベンチに、何か、黒いものが置かれているのだ。直方体の、角ばった何か。見慣れない物を見て一旦は身を引いた子供だったが、恐る恐る、それに近づいた。

「……箱?」

 よく見れば、蓋と、それに添うようにして薄く隙間がある。蓋の部分には、派手に文字が印刷されていた。

「……。……え」

 こんな偶然があっていいものだろうか。

 どうやら、箱の中身はゲーム機らしい。しかし、その印刷された題名が、あろうことか、

「ダンジョン・ナル……」

だったのだ。

 誰かの忘れ物だろうか。まだ新品のようで、何回も使われていないことがわかった。でも、こんなところにこのような大きなものを忘れるだろうか。しかし、このゲームと奇跡的に出会えたことは確かだ。もしまっすぐ『家』に帰っていたら、一生これにはお目にかかれなかったかもしれない。

 触っていいだろうか。辺りを見回す。やはり、誰も居なかった。それどころか、小鳥一羽さえ居ない。静かに木を揺らしながら、風が吹き抜けていくだけだった。

 緊張した手で箱を開く。そこには、真っ黒に輝くゲーム機が鎮座していた。赤、青など色の付いたボタンも、黒いディスプレイも、全く汚れていない。最大三人で遊べるよう、付属の機器が後二つ付いていたが、それらも同様、汚れなど一つもなかった。それどころか、輝いてすら見える。本当に、誰かの忘れ物だろうか。持ち主は、これをここに忘れたことに気づいていないのだろうか。しかし、いずれのことも、今のこの子供には全てどうでもいいことだった。このゲームをやってみたい。今すぐに、プレイヤーを動かしてみたい。子供は、高揚と緊張で震える手で箱に入っていたゲーム機を取り出し、カセットを入れた。ディスプレイがすぐに明るくなり、“ダンジョン・ナル”の文字が表示される。簡単な説明の後、プレイヤー一覧が表示された。プレイヤーは、全部で三十人もいた。その中から、服のデザインとか、それぞれの特性とかで、特に気に入った七人を選ぶ。皆、名前が決まっていて、子供が選んだのは、レイ、アン、リウ、バキ、ソータ、ジン、フリーの七人だった。個性的な名前だと、子供は思った。それに、カラフルな画面の色や、魅力的なキャラクター達に、子供はすぐに虜になった。

 七人を選び終わると、今度は画面が一変し、暗くなった。そのディスプレイに、今度は猫が一匹、登場してくる。しかし、その猫を見た子供は目を剥いた。彼は(その外見からしておそらくオス猫だろう)、自分と同じように服を着て、後ろ二本足で立って、こちらを見つめていたのだ。顔も、本物とはかけ離れていてどこか漫画らしい。

 彼は、そんな子供には目もくれず、喋り出した。と言っても、画面下のフレームに、彼のセリフが文字となって打ち出されてくるだけだったが。

『ようこそ、“ダンジョン・ナル”へ。オレの名前はナル……オリヴァーだ。よろしく』

 ゲームは、彼の自己紹介から始まった。この時点で、このゲームは初期の設定すらされていないことが分かる。つまり、本物の新品なのだ。このゲーム機で一番最初にプレイをしたのはこの子供ということになる。画面を食い入るように見つめる子供は、もちろんそんなことには気づかなかった。音こそ出していなかったが、子供はまるで実際に話しかけられたかのようにウンウンと頷いていた。ゲーム機を触るのも、プレイするのも初めてだった。こんな風に話しかけられるとは思っていなかったのだ。初めての経験に、胸が再び昂まった。

 ゲームが始まった。

 そこからの時間は、子供にとって天国のような一時だった。初めての感覚、初めての楽しさ。操作する手は止まらなかった。七人のプレイヤーを動かすのも、その子供は難なくできた。どこか、地下牢のようなところに連れて行かれた七人の子供達の前に、一体のモンスターが現れる。外見こそ気色悪いものだったが、その色彩はとても綺麗で、子供は、倒すのが惜しいとさえ感じたほどだ。しかし、ゲームは、こいつを倒さない限り次のステージへ進めない。あっという間にモンスターを倒し、一ステージをクリアする。すると、さっきの猫が現れ、子供を褒める言葉が表示された。それを読んだ子供の顔がほころぶ。褒められるのなんて、いつ以来だっただろうか。……しかし、次のステージに進めようとした子供は、ハッとして時計を見た。

「……やば……」

 門限、五分前。いつの間にか、数十分の時が経っていた。

 子供は、手の中の黒光りするゲーム機を見つめた。ディスプレイはまだ強い光を放っている。急に、その光を他人事のように冷たく感じた。元はと言えば、このゲーム機は知らない誰かの品だ。(どうすれば……。)その時、機体の右上に、赤い丸ボタンがあることに子供は気づいた。そのボタンの下に、小さく白い文字で、『リセット』と書かれていた。リセットーー全て無かったことに。これしか無い。次に本当の持ち主がこれを見た時、ステージが勝手に進んでいたら困惑するだろう。子供は、慌ててその赤丸ボタンを押した。カチッという、硬い音が周囲に響いた。

 刹那、体がガクンと揺れた。見える景色が回転する。それで、体が傾いていることが分かった。倒れているのだ。公園の、緑の芝生が見えた。それを最後に、次の瞬間、視界がブラックアウトする。何も、見えなくなった。倒れたのなら体のどこかが痛んだはずだが、どこも痛くなかった。どこかに、落ちていく感覚。風は感じなかった。恐怖は無かった。でも、焦った。このままでは、帰ることができない。門限に間に合わなかったら、また何か罰をくらう。子供は困惑した。手足を動かそうとしたが、うまくいかない。子供は、懸命に目を開こうとした。でも、目に映るのは暗闇だけだ。依然として、どこかに落ちていくような、吸い込まれるような感覚は続いている。やがて、それも消えた。


 次に子供が目を覚ました時、そこは知らない場所だった。霞む目を擦る。緑の芝生が足元にあった。公園の芝生だろうか。……違う。公園の、枯れたような芝生では無かった。綺麗な緑色の、健康そうな芝生だ。鮮明な緑が目を打った。

 子供は顔を上げた。そして、目を思い切り見開いた。

「……あ」

 この景色。馴染みの無い風景、初めて来た場所。どこかで見たことがあるように感じた。が、実際、子供はこの景色を知っているのだ。

 何これ。

 だってこれ、僕がさっきまで見ていた景色。

 どこで?公園?……違う。

「これ……ダンジョン・ナルの……」

 ゲームの中の景色。

 子供は、呆然とした顔で周囲を見渡した。青い芝生……というより草原が続いている。空は、抜けるように青かった。深い、綺麗な青だ。あまりに鮮やかで、美しすぎて、ここが現実では無いことを素直に認められた。

 僕は、さっきまでやっていたゲームの中に落ちた。それだけ。

 着ているものまで、変わっていた。さっきのゲームの、最後に自分の名前に決めたキャラクターと同じ格好だった。上着と、シャツと、動きやすそうなズボンと、深いブーツ。そのまま再現されている。

「すごい……」

 僕は、ゲームの中に落ちた。それだけ。

 その時、あることに気づいた子供は、顔をパッと輝かせた。心がどんどん軽くなる。もう、あの場所には、帰らなくてもいいのかもしれない。あの地獄から、僕は抜け出せたのかもしれない。

「やった……」

 嬉しいという気持ちと、安堵の気持ちが混ざった。口元がほころんだ。

 不意に、目の前に影が差した。誰か来たのだとわかる前に声をかけられ、子供は飛び上がった。

「お前、誰?新入り?」

 恐る恐る顔を上げた子供は、その異様な姿を見て、目を丸くした。息が一瞬、詰まる。

(は?)

「ネ……ネコが、」

猫が立ってる。ポケットに両手を突っ込んで。立居振る舞いは、人間のそれと何ら変わりはない。

 この猫は、確か、ゲームの登場人物だ。「よろしく」と言ってきた、あの猫だ。驚きすぎて立てない子供を一瞥したその猫は、「お前、どこかであった?」と聞いてきた。あまりに驚きすぎて何も言えない子供は、口をパクパクさせるだけだ。ゲームでは、ただのアニメーションだったし、大きさも小さかったけど、本物(?)は普通の人くらいの身長だった。

 やっぱり、ここは、本当にゲームの中の世界……。途端に、恐怖が子供の体の中を駆け抜けていった。自分は、現実とはかけ離れた場所に来てしまったのだ。もう、帰れないと思った。しかし、それでいいやという気持ちも、子供の中には存在した。帰れないならそれだっていい。施設に二度と行かなくていいなら、このままで良い。半ば放心状態の子供と目線を合わせるように、その猫はしゃがみ込み、子供の顔を覗き込んだ。途端に、目を丸くしたのは今度は彼の方だった。

「お前……あん時の子供じゃねぇか」

「⁉︎」

「立てるか?」

 猫は、へたり込んだままの子供を立たせた。付いていた草を払ってやる。猫は、そのまま子供の手を引いて、歩き出した。猫は、子供より背がずっと高かった。

 歩きながら彼が言う。

「行こうぜ、みんな待ってるよ。早く連れてこいって」

 その言葉を聞いた子供は、ビクンと体を震わせると、怯えた顔を彼の方に向けた。

「どこへ……」

「は?」

「僕をどこへ連れていくの!」

 二人の歩みが止まる。子供は叫んでいた。

「どこに行くの……施設⁉︎施設に帰ろうって言うの⁉︎あの『家』に僕を連れていくの!みんなって誰⁉︎施設の『友達』?部屋のみんな?いやだ‼︎いやだいやだいやだ!あそこには行きたくない!いきたくないよ‼︎」

 子供は絶叫した。あの浮ついた、「もう帰らなくていい」という、楽しい気持ちは完全に消えていた。今は、どこに連れて行かれるかわからないという、恐怖ばかりが頭の中に渦巻いている。猫は慌てて、その子供を宥めた。

「そんな所連れて行きゃしねぇよ。大丈夫だから、ついてこいって」

「いやだ!」

「……」

 その時だった。

「何やってんの?」

 唐突に、少女の声が響いた。

 二人が声のした方に目を向ける。そこには、子供と同じような服を着た一人の少女が立っていた。

「お前……じっとしてろって」

 猫が呆れたように言った。

「だって、すぐ連れてくるって言ったのに全然来ないからじゃん」

 少女は猫を睨みつけた。と、猫の後ろに所在なげに立つ子供を見つけ、少女は嬉しそうに笑った。

「その子が最後の子?初めまして」

 子供は、急に声をかけられて身を縮めた。同室の、あの意地悪な少女達を連想したのだ。しかし、目の前の少女は、彼女等とは違い、はきはきと、しかも優しそうに喋った。

「名前は?」

「え……えと……」

「君の、名前は?私はアン」

「え?アン?」

「そう。早く行こうよ?レイも、ソータも待ってるよ」

「レイ?ソータ……?」

 子供は、困惑して、隣の猫を見上げた。猫は、そんな子供に気づいたのか気づかなかったのか、半ば呆れたような声を出した。

「そういうこと」

「え?」

「お前は、自分がセッテイした世界に、自分から落ちてきたの。本来無いはずのリセットボタンを押したんだろ?リセットボタンがどんな条件で現れるか分からないけどさ、お前の目の前には現れて、お前はそれを押したってわけ。リセットボタンはこの世界への鍵の役割をしてるからな」

 じゃあ、この、自分の隣で喋っている猫は。

「あなたが……ナ、ナル?」

猫がうなずいた。

「そうだ。それはニックネームだがな。本名はオリヴァーだ」

言ってから、猫は傷ついたような顔をした。

「オレの名前、さっき会ったばかりなのにもう忘れたのか⁉︎」

「そういうわけじゃ」

 その時だった。新たな声がその場に交じる。少年の声だった。

「アン!オリヴァー!最後の一人は?」

そう言って姿を表したのは、

「確か……この子がソータ」

 子供は呟いた。

 その少年の後ろから、残りの四人がついてくる。皆、子供がゲームの中で選んだキャラクター達と同じ服装をしていた。

「ああ、あんたが最後の」

「よろしくね!」

皆が、めいめいに挨拶をする。子供は、恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「みんな、わかってると思うけど……あなたの名前は?」

アンが問うた。オリヴァーも、

「自分の名を名乗るのは基本だ。自己紹介しな」

と子供の背を押した。皆の視線が一斉に子供に集まる。

 子供は、つっかえながら、名乗ろうとした。

「えと……僕は」

「え?僕?君は女の子じゃ無いの?」

 声が聞こえてきた。喋ったのは、バキという名の少年だった。その顔には疑問符。首を傾げている。

「た、確かに女だけど……僕って呼ばないと、自分が弱いことの証明になっちゃうし……」

「君はそのままでいいんだよ?」

「……え?」

「君は弱くも何ともないよ。そう思い込んでただけ。それに、君は本当の君をまだ知らないだけじゃないかなあ?」

 弱いだけの君じゃないって、僕達でこれから証明するんだよ、とその少年は言った。他の五人も、皆、うなずいた。

「僕……いや、私の、名前は、ミミです。これから……よろしくお願いします」

 頭を下げる。

 最後の一人。七人目のプレイヤー。あろうことか、人間の世界から落ちてきた子供。彼女の名前はミミと言った。

 拍手が、その場に満ちた。

(character NO .30  name:free→「自由」)


「ただいまー」

「あ!姉ちゃんお帰り!」

 家の奥から弟が駆けてくる。

「ただいま。どうしたの?」

「姉ちゃん、ゲームしよう!」

「ゲーム?また?」

「いいじゃん、面白いし」

 弟は、スキップをしだした。跳ねながら、弟は話を続ける。

「おれ今日さ、そのゲーム機公園に置いてきちゃったの。友達と公園でやろうとしてさ。まぁ、友達が用事を思い出して帰っちゃったから結局ゲームはできなかったんだけどね」

「ダメじゃない忘れたら!」

 思わず声が高くなった。新品の品なのだ、誰かに盗まれたりしたら勿体無い以外の何者でもない。

「ちゃんと持って帰ってきたもん。あ、そーだ、姉ちゃん知ってる?」

「何を?」

「ゲームに新しいキャラが追加されたの」

「じゃあ、三十一人の中から選べってこと?大変だね」

「選ぶの楽しいじゃん……っていうか、姉ちゃんこないだ貸した時、セーブするの忘れただろ⁉︎」

「……あ」

 確かにそうだ。セーブをしないで電源を切ってしまった気がする。

「ごめん」

「お陰で家で立ち上げたら初期状態に戻ってたんだからな!あと、姉ちゃん、気をつけて欲しいことがあるんだけどさ、ここ」

そう言って、弟は機体の横を指さした。

「ここに、小さく、リセットボタンあるの分かる?この、ちょっと窪んでる、黒いボタンなんだけど」

「うっわ、小さっ」

「押さないと思うけど……これも、絶対押すなよ?」

「分かった分かった、気をつけるってば……ていうか、押そうと思っても押せないよ、そんな小さかったら。それより早くやろうよ」

「いいよ」

 ゲームを立ち上げ、キャラクターを七人、選び直す。セーブを忘れたお詫びに、プレイヤーは弟に選ばせてやることにした。

「誰がいいの?」

「おれは、レイとアンと……ロイもいいけど……アーリヤもいいし……ジュンも捨て難いし……」

 何かぶつぶつと言いながら、弟は楽しそうにプレイヤーを選んでいる。その間、彼女は今日あった出来事をぼんやりと思い返していた。

(やっぱり、ミミには悪いことしちゃったな。ミミ、ちょっとガッカリしてたもんな……。明日。明日こそ部活はなかったはず。もしあっても、休んでやる。明日こそミミとゲームするんだ。朝、学校行ったら誘おう。嬉しいな……久しぶりにミミと遊べる)

「決めた!こいつらにする!」

 弟が、機体を差し出してくる。「誰を選んだの?」それを見た彼女は、眉を顰めた。

「七人目のキャラ……」

「ああ、そいつが今日追加された新しいキャラクターだよ」

 “ミミ”でしょ?と弟は無邪気に聞いてきた。

 外見や雰囲気が、ミミ……彼女そっくりだった。

 こんな偶然が、あって……いいものだろうか。

 見れば見るほど、そのキャラクターはミミによく似ている。

「ミミ……?」

 ヒトが、ゲームの中に入ってしまうなんて、聞いたことがない。それでも、なんだか落ち着かないのは何故だろう。あまりにも彼女に似ているから?それとも……ただの胸騒ぎ?

「……まさかね」

 彼女は、ディスプレイの上から、そっと、“ミミ”の姿を撫でた。

 『ダンジョン・ナル』のゲームが、始まった。







 

 



 


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この地下牢から、脱出して 篠目薊 @Sazami0330

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