リタルダンドの姫

ウミバチ

リタルダンドの姫

 覚えている。あの時の彼女の恍惚とした表情を。

 今でも鮮明に覚えている。終わって直後、鳥肌を鎮めながら吸って吐いた息の味を。

 覚えている。

 その日は、決して大きいとは言えない市民ホールで、姉に付き合わされる形で劇の発表会に来ていた。僕は正直、そういった劇とかは興味がないし、乗り気ではなかった。

 しかし、舞台にやってきた彼女にすべて狂わされたのだ。

 囚われの姫。そんな役だったと思う。思う、というのは内容をほとんど記憶していないからだ。脚本はオリジナルだったそうだが、別に悪くなかったように思う。でも、彼女の演技は台本を破壊するほど強烈なものだった。

 彼女は舞台上、いや観客席、いやきっとホールのロビーまで支配した。何もかも貫き、浄化する。そして、たぶん一番浄化されたのは僕だ。恥ずかしながら、当時の僕は愚かで、非常に穢れた存在だったのだ。それが一瞬にして救済、あるいは心をぶち壊された。



 僕は彼女を追いかけた。

 彼女のいる小さな劇団に赴いた。その団は会館の名前を借りて『ひまわり団』と名乗っていた。

 扉を開けて、僕が第一声、「雑用をさせてください!」と叫ぶから、みんな一様にこちらをみて、口をぽかんと開けて。それから、大きな声で笑われた。

 団のみんなは、老若男女さまざまだったが、面白いやつだ、と快く受け入れてくれた。そして、僕はその中に彼女の姿を認めた。彼女はよく見たらわかるが、ぱっと見ではあの歌姫とは思えないようであった。とても美人なことは間違いないが、舞台でのきらきらは背負っていない。

 僕はそれでも堂々と話しかけに行った。この場にやって来た時から、だいぶ変人なので、今さら緊張するも何もない、と思っていたのだが。

「あ、の。僕、あなたの演技をみて、その」

 びっくりするほど緊張した。急に、さっきまで頬に感じていたあの冬の空気感が溶け、熱を帯びて顔から全身に伝わる。

 彼女はシューズの紐を結ぶ手を止め、ゆっくりと僕を見上げた。

 セミロングの黒髪がさらりと少しだけ揺れて、ついでに僕の心もいたずらに揺らす。大きな瞳がうっすらと潤んで、僕の目を細めさせた。

「きれい」

 思わず漏れ出た言葉に、彼女は微笑み、

「そんなことないの。本当にね」

 と応える。お世辞に謙遜という流れの会話ではない、僕の本音に彼女も本音で返したような気がした。

「きみ、私の歌を聞いて、ここまで来てくれたの?」

「あ、はいっ!」

「そう。嬉しい。ありがとう」

 後々知ることになるが、この時彼女は僕の一つ上の高校二年生だったそうだ。ただ、彼女はそうは思えない、凛とした声に丁寧な話し方であった。



 それから、雑用として、毎週火曜日にひまわり団に通う生活が続いた。といっても、団は常に人手不足だそうで、僕はたまに裏方も手伝った。新しい世界は、優しくて、複雑で、挑戦できることも多かった。しかも、その世界にはいつも彼女がいる。僕にとって、いつの間にか、火曜日がかけがえのない時間になっていた。

 劇についてもっと知りたい。もっと関わりたい。もっと団の力になりたい。

 あふれ出す気持ちは、ふとした、例えば学校の帰り道なんかに、口から零れ落ちそうなほどだった。

 僕らは一つ上の学年に上がった。

 僕は勝手に期待していた。

 彼女はきっと、大学で演劇を学び、ゆくゆくは大舞台に立つのだ、と。

 そして、僕もその大学を目指し、一緒に学びたい、と。


「私、辞めるから」


 彼女は決まって、レッスンの後に自主練習をした。それに僕はよく付き合った。

 そして、その台詞は一曲歌い終わって、唐突に僕を襲った。

「アドリブ?」

 僕は何も飲み込めないで、舞台の彼女に投げかけた。

「違うわ」


「夢を諦めるのはこの辺がちょうどいいの」「大学では普通の、そうね、保育とかに進んで、普通に就職を目指すわ」「才能なんてないもの、私」「舞台で食べていける保証なんてどこにもないじゃない?」

「本当の理由は、そのどれでもないんですね」

「どういうこと?」

「僕はずっとあなたの演技を見てきました。だから、わかります。建前みたいな感じがするんです。演技というか嘘っぽく聞こえました」

「見破られるなんて、私は大根役者になりさがったのね。いいえ、元からそうだわ。だって、」


 そして、彼女は本当に舞台を降りた。




『だって、演技が怖いんだもの。誰かになるのが怖いのよ』

 夏を前に消えた彼女は、最後に苦しそうに笑った。

 十数年経った今でも、脳裏にその人間じみた表情がこびりついて離れない。特に、今日はより思い出されるようだ。なぜだろう。ああ、きっと昨日、照明の仕事でヘマしてよく眠れなかったからだ。疲れているのだろうな。


 子供に強く手を引かれる。

 今日は幼稚園の見学だ。いくつか回ったが、まだ決めきれないので、とにかくもっとみてみようということになった。

 幼稚園の中はきれいにされていて、印象はとてもいい。緑も比較的多めだし、娘も楽しそうだ。なによりも妻が「いいんじゃない」と何回も言っている。

「そうだなあ、ここを第一希望に―」

 僕がそう言いかけた瞬間、さらりとした黒髪が僕の横を追い越していった。ショートヘアの端正な顔をした女性は振り返って、

「あら、ご見学ですか? どうぞごゆっくり」

 と一声かけていった。

 帰り道。僕は、

「やっぱり今日の幼稚園はやめようか」

 と言った。妻は不思議そうに「なんでよ」と返す。僕は適当に笑って、

「いや、授業料とか高かったしさ、ね?」

 と同意を求めた。むっとして、妻は僕の顔を覗き込む。

「それ、建前でしょ」


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リタルダンドの姫 ウミバチ @umibachi

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