第20話 私だけに見える闇
「……はっ?」
それは聖女になっても何も変わらないと思っていた次の日の朝のことだった。
寝ぼけ眼を何度も擦る。
やっぱりこれは見間違いなんかじゃない。
「ちょっと、これ、嘘。ねえジュネ、ちょっと来て! 早く!」
「はいはい、お呼びになりましたか。お嬢様。ああ、今日の新聞ですね。今日も相変わらず婚約破棄がネタに……」
「いいからちゃんと見て!」
「はぶっ」
新聞紙を広げ、とある記事の一面をジュネの顔面に押し付ける。
「どう、何が見える?」
「何がって、いつも通りですよ。『裏通りの男爵令嬢リム氏、婚約破棄!』、ここ最近のよくあるニュースじゃないですか」
「それだけ?」
「それだけって……それだけですが」
そう言ってジュネは、天井の光にすかしたり、ひっくり返したり、何度もその記事を確認した。
「じゃあやっぱり見えてないのね」
「さっきから何を言ってるんです、お嬢様」
珍しくジュネが困惑している。
私は新聞記事を指し示し、真顔で彼女に告げた。
「私にはここに、黒いもやが見える」
「もや……」
「そう、もや」
新聞記事の一文一文に、怨念のようにとりまいている黒い影。
私にはそれが見える。
「他の記事は?」
「いつも通り」
つまり見えるのは、婚約破棄を伝える記事だけ。
「もしかして、それが聖女の力……?」
「そうかもしれない」
ネインの闇魔法に反応した経緯から考えても、それはあり得る話だ。
「確かめてみたいから、過去の新聞も持ってきて頂戴」
「分かりました!」
それからジュネは、屋敷にある、ありとあらゆる新聞を運んできた。
「どうですかお嬢様?」
「やっぱり予想通り」
婚約破棄の記事にだけ、黒いもやがかかって見えた。
それが危険であるかのように、おどろおどろしく渦巻いている。
そして気になったことがもう一つ。
「このもや、日に日に力が強まっている」
先月よりも先週、三日前よりも昨日。それは今日に近づくほどに、色濃く強く表れている。
特に今日の記事に至っては、気を抜けば記事がもやで覆いつくされてしまいそうなほどに。
「もしこれが、最近あちこちで頻発している婚約破棄騒動の原因だとしたら……」
「今日の記事を読んだら最後、婚約破棄のオンパレードかもしれませんね」
そうすると当然気になるのは自分の婚約者なわけで。
「……レクター、大丈夫かしら」
そんな心配をした矢先だった。
「お嬢様、セイラお嬢様大変です!」
ジュネと瓜二つの顔。
ネインが息を切らして部屋の扉を叩いた。
「レクター様が、突然、倒れました!」
嫌な予感が……的中してしまった。
「レクター様が今朝新聞を読んでいたら、具合が悪いと言い出して……それで……」
途切れ途切れになりながら、それでも必死に説明しようとするネイン。
額には汗を浮かべている。
「まあ飲みなよ」
ジュネが水を差しだした。
「……ありがとう」
彼がそれを口に含む。
一口飲んだところを確認してから、私達は再び話を続けた。
「それで、命の方は大丈夫なのよね?」
「……はい」
彼はコクリとうなずいた。
命に問題はないのに重い表情。きっとまだ何かある。
「しかし」
ネインは言いにくそうに口を開いた。
「うわごとの様に『婚約破棄を』と呟いています」
婚約破棄を。
つまりそれは。
「あまり、良い感じではなさそうですね」
「そうね」
恐らくレクターの中で、婚約破棄とそれを拒む心が拮抗している。その暗示に抗おうとすればするほど、自身の心を苦しめている。
このままでは、命の方に問題は無くても、精神の方に異常をきたしてしまいそうだ。
「どうします? 今すぐお見舞いに……」
「それは後」
ジュネの提案を私はひとまず棄却する。
「今はそれよりも先にやることがある」
「あ、それってもしかして」
「決まってるじゃない」
これは選択ではない。
明確に私の中にある決定事項。
レクターに対するお見舞いよりも大切な、私の明確な決意。
「決まってるって一体何が……?」
ネインが首を傾げた。
無理もない。彼はついさっきここに来たばかりだ。
「まあ落ち着いて、お嬢様の話の続きを聞きたまえ」
ジュネが彼の肩にポンと手を乗せた。
私は頷く。
決意は決して揺るがない。
「新聞社に乗り込むわ」
「へえ、なるほど。原因の新聞社に……えっ? …………えっ?」
二回ほど聞き返し、それから彼は沈黙した。
それから数十秒後。
「……えっ、えーっと……新聞社? 乗り込む?」
ようやく言葉を飲み込んだネインが私の言葉を復唱する。
「そう。この記事を世間一般に広めた大本に直接話を付けなくちゃ」
そう言ってネインの前に婚約破棄が大きく特集された記事を叩きつけた。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「何?」
「別にこの記事はただ世間一般で起こった事実を掲載しているだけで、婚約破棄に直接影響を与えている訳じゃ無いのではないかと。婚約破棄というのは、最終的には本人の意思になりますし。これじゃあただの言いがかり……」
「ちっちっち、甘いな~ネイン」
彼の言葉にすかさずジュネが立ちはだかった。
「な、なんだよ、ジュネ」
「君はお嬢様のお考えが一つも理解出来てない」
「はぁ? お前だっていう程、別に」
マウントを取る姉に不快な表情を浮かべるネイン。
明らかに面白がっている。
「とーりーあーえーず」
にらみ合う二人を私は素手で引き剥がした。
「事情は準備しながら説明するから、ネインさんにはその話をレクターに伝えて欲しいの」
「わ、分かりました」
「ジュネは例の新聞社の場所を調べて。あと馬車の手配」
「お任せを~」
さあこれですべてが終わる。
長い長い婚約破棄騒動に、今度こそ私は終止符を打つのだ。
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