第9話

 同じ学校にいるのに、文化祭の喧騒が遠くに感じられる。

 それと同じように、目の前にいる横川先生も別世界の人のようだ。職員室に怒号が轟く。

「おい、北川っ‼︎聞いてるのか」

 当たり前のように平手が飛んでくる。もう倒れはしなかった。

「すみません」

 自分が何に謝っているのか分からない。確かにプログラムにはなかったが、夏目先生の許可を得て演奏しようとしたのだ。

 横川先生は異物のように優花とハルカを睨んでいる。

 その顔を見た瞬間、優花は拳を強く握り、体を震わせた。なぜこんな奴に、ピアノを邪魔されなければならないのか。

 優花は怒りに任せ、演奏の正当性を訴えた。だがしゃべっている間に、横川先生の目の色が変わっていく。自分が正しいことを一ミリも疑わず、何で優花やハルカが理解しないのか分からないと言いたげな表情だ。

 優花が話し終えると、横川先生が迫ってきた。

 先生は、歯を強く噛み締め顔を震わせている。そしてそのまま優花を突き飛ばした。

 優花は右手をつきそうになったが、慌てて引っ込める。そのせいで、腰を強打した。

「お前たち、頭冷やしてよく考えろ‼︎」

 そう言うと、横川先生は職員室を去っていった。

 風が強く吹きつけている。灰色の厚い雲が、世界を暗くしていた。

 やがてどれほどの時間が経っただろうか。

 優花は徐に涙を流す。

「もうピアノなんて弾きたくない」

 それは本心ではない。でも気づけば口からこぼれ落ちていた。この言葉はある種のSOSだ。

 そしてハルカはそれを感じ取ったらしい。優花の手をとって、職員室から引っ張り出した。

 外で待っていたゆうとにアイコンタクトを送り、装飾された廊下を進んでいく。

 辿り着いたのは音楽室だ。しかし文化祭で使われてない部屋は施錠されている。そのため扉には鍵がかかっていた。

 でもハルカとゆうとは全く気にしていないようである。

 そのとき、ハルカは徐にポケットを弄った。そして中から古く錆びた鍵を取り出す。優花はそれを見て思い出した。

 それは、ハルカの部屋にある青いお皿にあった鍵だ。

 ハルカがそれを音楽室の扉へ差し込む。やがてガチャリという音が鳴った。

 3人は中に入り、グランドピアノに近づいていく。ハルカが黒い椅子に腰掛け、優花とゆうとは地面に腰を下ろした。

 ハルカが穏やかに鍵盤を撫で始める。なめらかな音の伸びが心地よい。優花は窓の外を眺めた。すると、隣の棟の屋上が見える。そこも、立ち入りが禁止されていて殺風景だ。ハルカのピアノがそんな景色を慰めているように聞こえる。

 やがて体育座りをしていた優花は、自分の膝に顔を埋めた。そうやって顔に蓋をしていないと、涙が溢れてしまいそうだ。

 脳裏にあのテールライトが浮かぶ。

(私はあれほど輝いてはいなかったのだ)

 だからピアノを演奏する資格なんてなかったのかもしれない。やっぱり、あの壊れた電子ピアノが自分を象徴しているような気がしてきた。

 膝を抱え込む手に、力を込める。

 もうどうでも良くなった。優花の光は淡すぎたのかもしれない。もう高望みはしないでおこう。大勢の前でピアノを弾き、みんなを感動させたい。そんなことは求めないと決めた。

 これを諦めると言うのだろうか。それでもいい気がする。優花は疲れたのだった。

 将来はピアニストになれたらと考えていたけれど、無理みたい。これからどうしようか。

 そんなことを考えていると、ゆうとが立ち上がった。

 優花は顔を上げる。ゆうとは優花に微笑みかけると、ハルカに向かって頷き、音楽室を出ていった。

 ハルカと二人っきりになる。

 そこでハルカは演奏をやめた。その瞬間、音楽室に静寂が降りる。優花は考え事をしていて、ハルカのピアノを聴いていなかった。

 申し訳ないと謝ろうとした時、ハルカが先に口を開く。

「何で私がこの部屋の鍵を持ってるか、気にならなかった?」

「もちろん、気になったけど………」

 そこでハルカは一拍置く。風が窓を撫でるヒューっという音が、ドラムロールの役割を果たした。

「実はね、私とゆうとは空き巣なんだ」

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