第2話 蘭子とスズラン
鈴里蘭子には三人の幼馴染がいる。
始めに購買部の中へ足を踏み入れると、一人の女の子との記憶がよみがえってきた。
彼女とは別のクラスだが、昼ご飯はいつも二人で食べている。二人とも弁当を持参していて、蘭子も音羽も自分で作ってくるくらいに料理上手だった。
でも、
「あっ、そっかぁ……。記憶がないと、そういう影響があるんだね」
記憶喪失になってからの『ワタシ』は、料理がうまく出来なくなってしまった。
だから『ワタシ』は購買部でパンを買うようになり、音羽もそれに合わせて弁当から購買パンに変えてくれたのだ。
「えへへぇ、美味しいねぇ。たまにはパンも良いもんだねっ」
音羽はいつだって明るかった。
少々大袈裟なのではと思うくらいに、笑顔を弾けさせている。
――でも、『ワタシ』は知っている。
ふとした瞬間に、悲しそうな色に染まる彼女の横顔を。
隠そうとしたってバレバレだ。だって、そりゃあそうだろう。大切な幼馴染が記憶喪失になったのだ。寂しくて仕方がないだろうし、早く本当の鈴里蘭子に会いたいと思っているに決まっている。
(ごめんね、古海さん)
だから『ワタシ』は心の中で彼女に謝る。
彼女のためにも、早く記憶を取り戻さなくてはいけない。
その時の『ワタシ』は、確かな焦りに包まれていた。
***
次に向かうのは図書室だ。
思い浮かぶのは、彼――
蘭子と夏輝は幼馴染であり、同じクラスであり、一緒に図書委員も務めている。
カウンターに並んで座り、本の貸出と返却の受付をするのが主な仕事だ。特に難しい作業はなく、記憶をなくした『ワタシ』もすぐに順応することができた。
「大丈夫。思い出すのはゆっくりで良いからね、蘭子」
ただ、一つだけ困ったことがある。
それは夏輝の距離感が妙に近いことだった。
銀髪のパーマがかった髪に、縁なし眼鏡から覗く優しい瞳。頬杖をつきながらこちらを見つめる姿は、ただの幼馴染に対する視線には見えなくて……。
「あの……。もしかして、あなたと蘭子は付き合っていたりするの?」
単刀直入に訊ねたことがある。
その瞬間、夏輝は思い切り身体を仰け反らせた。そんなにわかりやすい反応しなくて良いのに、と。思わず『ワタシ』は心の中で呆れてしまう。
「……い、いや。僕と蘭子はそんな関係じゃないよ」
まるで「まだ、そんな関係じゃないよ」とでも言いたいようだな、と思った。
つまり、蘭子と夏輝の関係は友達以上恋人未満……といったところだろうか。
「そっか」
小さく返事をしながら、『ワタシ』はぎこちなく微笑む。
――だったら尚更、早く記憶を戻さなきゃいけないな。
ちくり、と胸が痛む。
幼馴染達は『ワタシ』ではなく蘭子を求めている。
そんな当たり前の現実に、『ワタシ』は何故か酷く傷付いていた。
***
最後の記憶は昇降口だった。
三人目の幼馴染、
彼は元々、幼馴染の中でもあまり接点がなかった。学校で顔を合わせたら世間話をする程度の関係なのだという。
「あ……。えっと、織部くんだっけ」
だから、初めて空良と二人きりになった途端、『ワタシ』はいつもに増してよそよそしい態度を取ってしまった。
音羽も夏輝も、蘭子の記憶を取り戻そうと積極的に話しかけてくれる。だけど空良は口数が少なくて、体格も良い。そして何より、鋭い三白眼が威圧感を覚えさせていた。
「お前、大丈夫か」
「え?」
「いや。…………随分と辛そうな顔をしていたからな。鈴里蘭子としての記憶を必死に思い出そうとしてるんじゃねぇかって」
でも。それは。だって。
真っ先に思ったのは、彼の言葉を否定しなくてはいけないということだった。でも、頭の中が渦巻いてだんだんと気持ちが悪くなってしまう。
いったい、彼は何を言っているのだろう?
鈴里蘭子としての記憶を必死に思い出そうとしている。――そんなの、偽物の『ワタシ』が一番にやらなければならないことだ。むしろ使命と言っても良い。
なのに、空良は何でもないことのように言い放つ。
「別に良いんじゃねぇか。記憶を取り戻そうってずっと考えてても、お前が辛いだけだろ。……たまには、お前はお前として生きても罰は当たらないんじゃないか」
「…………それって、どういう」
「難しいことだったか? 鈴里蘭子じゃないもう一つの人格を受け入れる時間があっても良いってことだ。……あぁ、呼び名がないと面倒だな」
唖然とする『ワタシ』を置いてきぼりにしたまま、空良は考え込むように瞳を閉じる。
わからない、とはっきり思った。
自分はただの偽物で、蘭子にとっては悪の存在のはずなのに。一刻も早く記憶を取り戻すため、頑張らなきゃいけないはずなのに。
どうしてこんなにも心が軽くなっていくのだろう。
「……スズラン、なんてどうだ。鈴里蘭子だからスズラン」
スズラン。
蘭子の偽物の『ワタシ』――じゃなくて、スズラン。
「スズラン……」
「…………ちょっと安直すぎたか」
「ううん、そんなことない」
自信なさげに眉根を寄せる空良に、『ワタシ』――スズランはすぐに首を横に振る。
しかし、尚も不安なのか「ちょっと待ってろ」とスマートフォンを弄り始めた。そんな彼に、スズランは思わず「ふふっ」と笑ってしまう。
笑うという行為すら、スズランとしては初めてだったような気がした。
「お、見ろスズラン。……これがスズランの花言葉だそうだ」
ちょうど良いんじゃないか、と空良はスマートフォンの画面を見せてくる。
そこに書かれていたのは、
「再び幸せが訪れる……」
という花言葉だった。
見た途端、スズランは真っ先に思ってしまう。「本当に良いのだろうか?」という疑念を。しかし、顔を上げると微笑を浮かべる空良の姿があって、すべてが吹き飛んでしまうような感覚に包まれる。
「辛い時は俺を頼れば良い。世間話だって何だってしてやる。……いつか記憶を取り戻す日が来るまで、何度もスズランになって良いんだ」
「……あなたは、何でそこまで」
「辛くなるくらいだったら、楽しんだ方が良いだろ。…………ただ、そう思っただけだ」
ふわりと、心が温かくなる。
怖いと感じていたはずの三白眼はどこまでも優しくて、今までの焦りが解けていくようだった。
同時に、スズランは気付いてしまう。
温かいどころではない胸の高鳴りは、むしろ苦しいと言ってしまった方が正しいということに。
だってスズランは、蘭子とは別の人に恋をしてしまったのだから。
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