レプリカルテの庭

傘木咲華

第1話 偽物のワタシ

 長い――とても長い夢を見ていた。

 目が覚めるとじんわりと涙が滲む。何か悲しい夢でも見ていたのだろうか。内容までは思い出せなくて、『ワタシ』は顔をしかめた。


「ここは、教室……?」


 目を擦り、辺りを見回す。

 均等に並ぶ机と椅子。その中の一つ、窓側の一番後ろの席に『ワタシ』は座っていた。大きな黒板に、丸い壁かけ時計。チャイムなどが流れるスピーカーに、時間割表……。

 何もわからない状況でも、ここが学校の教室であることはすぐにわかった。

 そして――自分の性別も。

 思った以上に高くて柔らかい『ワタシ』の声に、華奢な身体を包むセーラー服。


(そっか。ワタシは……ここの女子生徒なんだ)


 すぐに理解するも、結局はそれだけだ。

 中学生か高校生か、それすらもわからない。だいたい自分が誰なのかも、夕陽の光が差し込む教室に『ワタシ』一人しかいないのも、何もかもが意味不明で。


「記憶喪失……」


 ただ、その言葉だけが口から零れ落ちた。

 典型的な「ここはどこ? 私は誰?」状態。ここは教室で、『ワタシ』は女子生徒。それ以外は真っ白で、『ワタシ』は思わず天を仰いだ。

 でも、それはほんの一瞬だけのこと。


(鏡を見れば何かわかるかも)


 どうしよう、と途方に暮れる前に思考を巡らせる。

 意外と『ワタシ』は冷静だった。誰もいない教室で心細さや不安もあるはずなのに、まずは謎を解かなければという気持ちに囚われる。

 自分の容姿を確認したら、大きな一歩を踏み出せるかも知れない。だから『ワタシ』は立ち上がった。学校で鏡がある場所と言えばトイレだろうか。そう思ったらいとも簡単に身体が動き出した。


 まるで、この学校のことを理解しているかのように。



 ***



 結局のところ、記憶喪失なんてただの現実逃避だったのかも知れない。

 彼の席が『ワタシ』の隣であるということも。

 彼女と歩いた渡り廊下や、そこから見える中庭でよく購買パンを食べたということも。

 隣の二年C組が、彼のクラスであるということも。

 本当は全部、覚えている。


 だから、『ワタシ』にとって鏡を見るという行為は答え合わせでしかなかった。

 少しだぼっとした、黒地に赤いリボンのセーラー服。

 きっちり切り揃えられたぱっつんの前髪に、おさげの三つ編み。

 大きな丸眼鏡は、真面目さというよりもあどけなさを際立たせていた。


 鈴里すずり蘭子らんこ


 それが『ワタシ』の――いや、『彼女』の名前。

 一ヶ月前まで、彼女は普通の高校二年生だった。仲の良い三人の幼馴染がいて、そのうちの一人に恋をしていて、運動は苦手だけどその分勉強熱心で、だけど少しだけ優しすぎるところもあって……。


 ――そんな彼女は、記憶喪失になってしまった。


 幼馴染達の話によると、車に轢かれそうになった猫を助けようとしたのが原因なのだという。猫は助かったものの逆に自分が轢かれそうになってしまい、頭を強く打ってしまった。

 命に別状はなかったが、彼女は記憶という大切なものを失くしてしまったのだ。


 だから『ワタシ』という存在が誕生した。誕生、してしまった。

 だって、『ワタシ』は決して鈴里蘭子ではない。

 蘭子が記憶喪失の間に存在していた、彼女のもう一つの人格。それが『ワタシ』。


 ただの、鈴里蘭子の偽物だった。


「…………」


 鏡の中に写る『ワタシ』の瞳は、泣き腫らしたあとのように赤らんでいる。

 あぁそうか、と当たり前のように思った。


 鈴里蘭子は自分の記憶を取り戻したのだと。

 だって、ここは普通じゃない。

 夕方だというのに生徒も教師も誰一人として存在していなくて、まるで現実ではない世界にいるような気分になる。


(つまりここは……)


 ――蘭子の記憶が戻って、居場所をなくした『ワタシ』が辿り着いた場所……?


 自分に問いかけてから、『ワタシ』はすぐに渋い顔になる。

 この仮説が本当だとしたら、神様はなんて意地の悪いことをするのだろうと思った。そのまま消えてなくなれば良いのに、あの頃の意識が残り続けているなんて。

 本当に、意味がわからない。

 だからこそ『ワタシ』は、この世界のことを知りたいと思った。


(…………もう少し、記憶を辿ってみようかな)


 鏡の前に来るまでの間、『ワタシ』は少しずつ偽物だった頃の記憶を取り戻していた。学校の中を巡ればもっと深い記憶が戻ってきて、この空間の意味もわかるようになるかも知れない。


(……よし)


 もしかしたら、この先には悲しい出来事が待っているのかも知れない。

 一瞬だけ、そんな不安が頭をよぎる。だけど、ここでじっとしていても何も解決しないだろうと思った。

 

 すべては、偽物として生まれた自分の結末を知るために。

 ――『ワタシ』は、小さな決意とともに動き出した。

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