小休止 モデル・イン・パリ

 文化荘一〇七号室。モデルの部屋は大きな天蓋付きのベッドが印象的な、彼女の趣味を全部ぶちまけたような空間だった。レコードや雑誌が鮮やかに並び、キッチンにはおしゃれな瓶に詰まった酒類が並んでいる。説明し始めるとキリがないほど様々なアイテムに彩られた部屋だが決して散らかっている訳ではなく、本人は何処に何があるかをきちんと把握しているようだ。

 彼女は部屋の最奥へと歩を進めると、無造作に積み重なった資料の中から的確に一部を抜き取る。舞台『手繰り糸』の台本である。彼女はその台本を暫く眺めるとため息を吐き、壁に飾られた大きな絵へと視線を投げた。それは精密に描かれたモデルの肖像画である。絵の隅に描かれたサインは画家のものだった。

 ふと記憶が蘇る。画家と初めて出会った、あの頃……


――八年前

「着きました。ここがヴェルサイユ城です」

「あぁ、やっと着いたのね……ご苦労様」

 観光を満喫するためだけにフランスに来ることは、ファッションショーに招待され初めてパリを訪れた時から心に決めていた。あの頃はプライベートの時間など皆無で、仕事のお陰で豪華なホテルに泊まり贅沢な経験は出来たものの、観光名所を巡る様な事は一切許されなかった。

 モデル業を引退してから、旅行をするのは完全に世間から忘れられる頃まで我慢しようと考えていたが、彼女の生来の奔放な気質からそんな自制が効くはずもなく、わずか二年足らずで旅行に出てみたら案の定パパラッチが酷かった。反省してそれから四年。人目を避けて暮らし、文化荘に越してから更に一年引き篭もった。すっかり世間で自分の名前が過去になり、新たに持て囃される同業者達が台頭したのを実感してから、三度目の正直でやっと念願のヨーロッパへ足を運んだという訳だ。

 それでも一応、注目を避けて観光客やブルジョワの少ないエリアとされるパリ十区の安宿に泊まり、そこから一時間程掛けて車で観光地へと出向く様にした。まだ週刊誌等では彼女の唐突な芸能界引退に下衆な勘ぐりを騒ぎ立てる記事がちらほらと見受けられ、テレビで歴代タレントを紹介する番組では常連で扱われていたので、帽子やサングラスといった変装も必須だ。

 しかし自分が完全に忘れ去られていない状態での再訪は必ずしも悪い事ばかりではなかった。彼女が初めてパリを訪れた時、招待元の会社がボディーガードとして雇ってくれた地元の青年と上手い具合にコンタクトが取れたのである。当時の彼の仕事ぶりは彼女好みであり、その働きはボディーガードというよりも執事に近かった。次にここを訪れる際には、個人的に彼をガイドとして雇おうと目星を付けていたのだ。


「では、エスコート致します。お嬢様」

 車から出ると、ボディーガードは大袈裟な身振りと口調で恭しくお辞儀した。

「やめてよ、目立っちゃうわ」

 そう言いながらもモデルの口角は少し上がっている。夢に見たヴェルサイユ宮殿の景色を前に、彼のセバスチャン風の素振りが相まって、まるで自身がこの素晴らしい宮殿の女城主であるかのような錯覚を覚えたからである。

「さっきヴェルサイユ“城”って言ってたけど。ここってお城なの?」

「一応、離宮として建てられたので宮殿です。しかしフランスでは ヴェルサイユ“城”の表記がよく用いられているのです」

「へぇ、面白いわね」

「宮殿自体も勿論素晴らしいんですが、こちらの噴水庭園を是非楽しんで下さい。ここの建設には本殿よりも人員が費やされたということです。そしてルイ十四世は庭園の噴水に三つの意図を込めたと云います。まず第一に……」

 ボディーガードの語る蘊蓄は何れも興味深いもので、モデルは飽きずに彼のガイドツアーを楽しむ事が出来た。


 ヴェルサイユ宮殿を一通り満喫し、そろそろ移動しようとした折である。モデルは庭園で絵を描く一人の人物に目が留まった。

 その人物は自分達が最初に此処に訪れたときには既にその場所に座っていて、帰る時もまだ同じ場所にいた。モデルは何気無くその絵描きの方へと近寄り、キャンバスを覗いてみる。

「これって……」

「ボクに何か用?」

 絵描きは彼女の接近に気付いていた様で、既に筆を止めていた。

「あら失礼、日本人だったのね。絵描きさん?」

 キャンバスには、ヴェルサイユ宮殿を背景として見事な庭園が描かれているが、モチーフはそれだけではなかった。まばらに描かれえた観光客と違い、明らかにメインの人物として描かれている一人の女性。

 キャンバスの角に留めてある下書き用の紙片にはその女性のラフがあらゆる角度から描かれていた。軽く描かれているものの、その筆の運びは洗練されている。うねる長い髪、つんと伸びた鼻筋、整った耳から顎へのライン、口元、そして妖艶な目元……総てがモデルを生き写したかのようなデッサンであった。

「お察しの通り、キミが目に留まったから描いてみたんだ。気に障ったなら謝るよ」

 そう言って絵描きは目深に被ったハンチング帽を取り、立ち上がって会釈した。身長はモデルより少し低い……と言っても一六五センチはあるだろうか。ボーイッシュな黒髪に中性的な顔立ち。少年の様な出立ちである。

「描いてみたって言うけど、アタシ帽子もマスクも、サングラスだってしてるのよ?どうしてこんな……」

「正確に描けてる?」

「えぇ、そうね。アナタはどう思う?」

 隣のボディーガードに問い掛けると、彼はため息を漏らしながら答えた。

「素晴らしいデッサンだと思います……貴方はモデルさんのファンですか?」

「ファン……ふむ、やはり有名人なんだね。生憎、ボクは芸能人には疎くてね」

「あら珍しい、日本人なのにアタシの顔を知らないのね」

 モデルはマスクとサングラスを外して見せ、絵描きの反応を伺った。そして彼の息を呑む表情に満足し、また変装を戻した。

「……失礼、存外の美しさだ。直接見せてくれて礼を言うよ」

「本当に知らないのね?想像にしては正確過ぎると思うけど。どうやって描いたのかちゃんと種明かしをして下さらない?」

「種明かし……ね。ボクが異常ってことで納得してくれないかな?」

「異常?」

「観察眼と記憶力が常人とはかけ離れてる。お陰で分析というか……想像も捗るんだ。キミがさっきボクの視界に数分居てくれたお陰で、喩えるならCTスキャンみたいにボクの脳内には、キミの顔の造形を再現できるくらいの情報が集積されたってことさ」

「なるほど、そういう事なのね」

「おや、意外だね。そんな素直に信じてくれるのかい?」

「まぁ疑ったらキリがないわ。それにそういう特殊能力みたいな持ち主、アタシ何人か知ってるのよね」

「ほう……それは興味深いね」

「ところでアナタ、その絵を売って下さらない?」

「悪いね。コレは習作だから売り物じゃないんだ。それにボクは画家としてもまだ無名だし、とてもじゃないが売るなんて出来ないな」

「あら、勿体無いわね。言い値で買うわよ。絵描きは絵を売ってこそなんじゃないの?」

「御忍びなんだろう?心配しなくても、ボクはキミの情報を何処かに流したりはしないさ。それに天涯孤独の身だから、ふらっと喋るような家族も居ない。口止め料も要らないよ」

「そんなつもりじゃ……」

「おいお前、流石に彼女に失礼だぞ」

「キミはボディーガードかい?失礼ついでに言わせてもらうが、日本には袖振り合うも他生の縁って言葉があってね。ボクは彼女の事を困らせる気なんて毛頭無いし、これはボクら二人の信用問題なんだ。首を突っ込まないでくれるかな」

「なっ……」

「まぁまぁ、仲良くしましょうよ。それにしてもアナタの才能が埋もれたままだなんて信じられないわ」

「埋もれてはないよ。画家としては無名だけど、観察眼のお陰で探偵業ではそこそこさ。その稼ぎでこうやって海外にも来れた」

「ふぅん……探偵業ね……」


 モデルはこの時点でこの絵描きを文化荘にスカウトしようと決めていた。そして彼女はあの手この手で巧みに会話を誘導し、絵描きを今回の旅の同行者として招き入れる事に成功したのである。モデルは思い切って宿を大部屋のあるホテルへと移し、絵描きとボディーガードの三人でグループ旅行の体裁を取ることしたのであった。

 心配だったのは最初から喧嘩腰だった二人の関係だが、彼らは最初の方こそソリが合わなかったものの共に過ごす時間が増えるにつれ互いに溝を埋めたらしく、適度な距離感の友人となったようだ。


 三人で過ごし始めてから二週間ほど経った頃だろうか。その日、絵描きはいつも通り街の風景を描きに出掛け、ボディーガードは恋人と過ごす為に二日間、地元へと帰っていた。モデルは前の日から三日に渡って観光で出突っ張りだった為、流石に疲れたので引き篭もる事に決めていた。デリバリーピザで食事を済ませ、部屋で映画を観たり寝て過ごした。そして夕暮れ時、絵描きが帰ってきた際に謎の封筒を差し出してきたのだった。

「これ、部屋のドアに挟まってた」

「あら?何かしら」

 封筒を開けると中に入っていたのは、新聞の切り抜きを貼り合わせた怪文書であった。


『やぁ、モデルさん。貴女がこの地に戻って来てくれたことを嬉しく思うよ。是非とも素晴らしい時間を過ごして欲しいね。』


「これは……なかなか熱烈なファンレターね」

「此処に泊まってること、SNSでシェアしたりしてないよね?」

「当然じゃない、日本のごく限られた知り合いにしか知らせてないわよ」

 手紙には直接、脅迫めいた内容が書かれていた訳ではなかったが、それがかえってその手紙の不気味さをより一層、際立たせていたのである。

 次の日、朝早くに地元から戻ってきたボディーガードを絵描きが問い質したが当然、彼も守秘義務を守っており、手紙の差出人は分からずじまいであった。

「なんだか怖いですね」

「ボディーガードくん、しっかりしてくれよ。万一の事があったら非力なボクじゃ彼女を守れないんだから」

「当然、最善を尽くします」

「二人とも頼もしいわ。ありがとう」

「それにしても……誰か心当たりはないのかい?パパラッチとか」

「海外まで追いかけてくるようなのは居ないわねぇ」

「あっ、そういえば」

 ボディーガードが閃いた様に喋り出す。

「モデルさんが前にファッションショーで滞在してた時、熱烈なファンが一人いませんでしたか?日本語ではなんて言うんでしたっけ、オタク……?みたいな」

「あぁ、そういえば居たわねぇ。熱心に何度も出待ちを繰り返してた人が」

「興味深いね、少し調べてみようか」

 絵描きは当時のファッションショーのネット記事からモデルに関するSNS投稿を割り出し、そのオタクのアカウント特定作業を始めた。

「こんな曖昧な情報から、特定なんて出来るのか?」

「まぁざっくりアタリだけ出して、その界隈の動向が見えればいいかなって」

「絵描きさん、そんな面倒なコト止しましょうよ……分からない事をウジウジ悩んでも仕方ないわ。それより手紙にも『素晴らしい時間を』ってあるんだから、楽しまなきゃ。そうだ!今日は良いところで外食しましょうよ!奢るわよ」

 彼女はそう言うや否や高級なレストランへ予約の電話を入れ、レストランでの夕食を基点に観光の計画を立て始めた。結果、二人の警告も虚しくモデルの鶴の一声でその日の予定が決まり、少し遠いエリアまで車を走らせて数ヶ所の観光エリアをハシゴすることになったのだった。


 結局、何事も無く観光を終えた三人はモデルの予約したレストランで評価に違わぬ素晴らしい夕食を堪能し、充実の一日を満喫した彼等が部屋に戻る頃には怪文書による朝の澱んだ空気は消えていた。

「流石に美味しかったわね」

「ご馳走様。あんな食事、ボク一人じゃ食べようとも考えなかったよ……この出会いに感謝だね」

「緊張しましたね。まさか自分があんな高級な場所でご飯を食べることになるなんて……モデルさん、改めてありがとうございます」

 三者三様に感想を語りつつ、部屋へと戻る。

「お風呂、誰から入る?」

「アタシは少し酔いを醒すわ」

「・・・」

「ボディーガードくん?」

「こ、これ……テーブルに……」

 震える声で彼が差し出してきたのは、新たな怪文書であった。


『なかなかに良い時間を過ごせたようだね。貴女が幸せそうで嬉しいよ、ところで僕にもその手伝いをさせてくれないか?』


 絵描きがホテルのフロントに確認したところ、その日はホテルの従業員と清掃業者、宿泊客以外の人物は誰も建物の玄関を通っていないとのことだった。更には部屋は用心でドアノブサインを掛けていた為に清掃も入っておらず、鍵も朝に預けてから夜に戻るまで、ホテルの受付から一度たりとも動いてないという。

 絵描きは不思議そうに首を傾げた。

「内容はさておき、差出人はどうやってこの部屋に怪文書を残したんだろう?」

「流石にコレは無視できないですよ。モデルさん、逃げましょう」

「逃げるって何処に?」

「親戚が持ってるコテージがあります。そこならきっと誰にも見つからないですよ」

「けどアタシなんだか癪だわ、折角の観光が」

「それなら大丈夫!コテージの景色は最高ですよ、きっとモデルさんが見たことない絶景の海原を見せてあげられる。そこいらの観光地より素晴らしい隠れた名所だ、保証しますよ」

「ボクもボディーガードくんの意見に賛成だな、一度避難した方が良い。ボクらがホテルから移動したと分かれば犯人がまた追うかも知れないから、ボクはここで荷物番と囮役を引き受けよう。出来るだけ軽装で行っておいで」

「よし。すぐ出発だ」

「あら、今から?」

 時刻は既に二十一時を回っていた

「善は急げって、日本の格言だろ?」

「ちょっとニュアンス違う気がするけど……」

 こうして唐突にモデルの、まだ見ぬストーカーからの逃避行が幕を開けたのであった。


――それからどれくらい経っただろうか。車の揺れで目を覚ましたモデルが時計を見ると、移動を開始してから既に二時間以上が経過していた。妙だ、と彼女は考える。パリから海沿いの街に出るのには地道を使って少なくとも一時間弱で済むはずだった。しかし車は地道ではなく有料道路を走っているようである。

「ねぇ、ボディーガードさん?コテージからは海原が見えるのよね?」

「え?あぁ、そうですよ。子供の頃に見たんだけど今でも胸に焼き付いててね。本当に素晴らしい景色なんです。これをモデルさんに見てもらわない限りは、日本には帰せない」

「そう。楽しみだわ……」

「寝てて良いですよ、まだ暫く掛かりますから」

「分かったわ。気を付けて運転してね」

 モデルは胸騒ぎを覚えつつ、体力を温存する為に大人しく眠ることしか出来なかった。


「起きて、モデルさん。着いたよ」

 ボディーガードの声で目が覚めた時、時刻は朝の六時前だった。

「八時間も運転したの?一体何処よ、ここ」

「地元ですよ。南フランスのソーって町の近くさ。早くコテージに行きましょう」

「南フランス!?正反対じゃない、どうして……」

「いいから早く!急いで!」

 彼の眼は血走っていた。普段の穏やかな物腰からは想像もつかない態度の変化に、モデルは戸惑いながらも従うしかなかった。


 コテージはかなり古びていたが、掃除は行き届いているようだった。モデルは彼に指示されるまま窓へと向かう。ちょうど日の出の時刻。景色の奥の山間から顔を出した太陽の陽射しがゆっくりと伸びてくる……

「あ……」

「どう?綺麗でしょう」

 日の光に照らされて、目の前に広がって見えたのは一面のラベンダー畑。鮮やかな青紫……そこにまだ晴れない朝霧が雲海の様に掛かった幻想的な景色は、まさに海原と表現するに相応しい景色であった。

「どうしてもこれを見せたかったんです。本当に自分勝手で申し訳ない……」

「そんな事ないわ、こんなロマンチックな体験って無いわよ!ありがとう」

「そう言って貰えると頑張った甲斐がありました……」

「それはそうと、このコテージでいつまで過ごそうかしら?食料とかどのくらいあるの?」

「それは安心して下さい。こっちは地元だから全部調達して来られるますから」

「あら、そうなのね」

「モデルさんからの給料があれば、この町で永遠に暮らせるくらいですよ!あはは」

「ははは……」


 夜通しの運転による影響か少し上気したボディーガードの笑いはなんだか興奮気味で、戸惑ったモデルが思わず愛想笑いを返すと彼は急に真剣な表情になって言った。

「でも本気で、貴女と一生暮らしたいと思ってる」

「え?」

「最初はボディーガードで十分でしたよ。けど貴女と一緒に過ごすうちに、どんどん気持ちの収まりがつかなくなって……」

「落ち着いて、アナタ恋人が居るでしょう?」

「関係無い!今はとにかく貴女の美しさが……そう、それしか考えられないんだ!」

 彼の手がモデルの両腕を掴む。強い力で引き寄せられ、そのまま抱き締められた。

「ちょっと、痛いじゃない……」

「本当にどうしようもないんだ、歯止めが効かない。どうにかしてくれ!」

「分かった。どうにかしてあげよう」

 突然、誰かのセリフと共に彼の腕の力が弛んだ。

「ぐあっ!!!」

 力の抜けた腕から急いでもがき逃れると、いつから居たのだろう。ボディーガードの後ろにはスタンガンを持った絵描きが立っている。更に奥には数名の警察官が待機しているのが見えた。

「淡い恋から目は覚めたかい?」

「どうしてここに……」

「職業柄、GPSでの追跡機器は常に持ってるんだ」

「くっ」

「誘拐と婦女暴行の現行犯で逮捕する」

「ちょっと待て!本当に、ただ彼女にこの窓から見える景色を見せたかっただけなんだ!」

「ボクには襲っているように見えたけどね?」

「そ、それは……なんだか突然、気持ちが抑えられなくなって暴走して……」

「そもそも、あんな狂言じみた怪文書を使って別の犯人をでっち上げようとしてた時点で、既に暴走してやしないかい?」

「・・・」

「連れて行ってください」

「モデルさん、本当にごめんなさい」

「……連れて来てくれて、嬉しかったわよ」

 ボディーガードはその返事に微笑むと、項垂れて警察官達に連れられて行った。


「本当に、キミの美貌は恐ろしい……いつか大惨事を引き起こすだろうね」

 絵描きはスタンガンを仕舞いながら嘯いた。

「なによ、それ」

「冗談じゃないさ。ボクの最初の分析では彼に犯罪を犯すような性質はなかった。三人部屋で過ごして暫くしてかな?少しずつだけど、彼はなにか……嫉妬めいた様子が増えておかしくなっていったんだ」

「いつから彼を疑っていたの?」

「最初から、と言うと語弊があるかな。ボクはただあらゆる可能性を想定しただけで、なんならキミ自身の自演だって疑っていたからね。けれど彼は二日間、恋人に会ってくると嘘をついてたんだ」

「なぜ嘘だとわかったのよ」

「恋人と会っていたのは本当かも。でも日帰りだった。そして帰って来てホテルの扉に手紙を挟むと、アリバイの為に次の日の朝に戻ってきたように見せ掛けたんだ。けれど手紙を見つけた翌日、朝に帰って来た筈だった彼の車のガソリンはほぼ満タンで、出掛けた時に一度も給油せずに観光を終えたよね。彼が戻ってきた時間帯には近所のガソリンスタンドはまだ開いていないから、彼が地元から車で戻ってきたのなら朝に給油出来るはずがない。恐らく前の日に戻ってきて夜のうちにガソリンを入れたんだろうと予想がついた」

「そんなところから推理したのね……」

「更に彼はミスを重ねた。二つ目の手紙があからさま過ぎたんだ。最初の手紙は扉に挟んであるだけで不特定多数の人間に可能な犯行だったし、彼自身アリバイも用意して慎重だったのに、その次は明らかに彼にしか犯行が不可能な状況を仕立て上げてしまったんだ」

「アタシは外部犯だと思い込んでたから、あれで少しパニックになったけど」

「そう、そういう意味では思い切った良いトリックだったと思う。ただ側から見ればキミを連れ出すのに必死な一人芝居にしか見えなかったよ。まぁボクも確実に現場を押さえるために悪ノリしたけどね……敵を騙すにはまず身内からって言うだろう?」

 絵描きは悪戯っぽく笑ってみせた。

「アナタねぇ……」

「まぁ何にせよ、無事で良かった。出来れば二人とも救いたかったけどね」

「……彼はどうなるかしら」

「初犯だろうし、内容も子供じみた悪戯に突発的な犯行、動機からして情状酌量の余地もあるとは思う。けれど周りの人からの評価はどうなるか分からないね」

「そう……」

「キミ、こういうの初めてじゃないだろう?妙に落ち着いてる」

「そんな事までお見通しなのね……その通りよ。アタシはなんていうか、台風の目とでもいうのかしらね。アタシの周りの人達は常に争って歪みあってたわ……男は知らないところでアタシを取り合うし、女が仲良くしてくれる時は大体、私の取り巻き狙いだったり。そういう子も勝手にフラれて、アタシが妬まれる。だからアナタ達が仲良く過ごしてくれたのは本当に嬉しかったのよ」

「ボクは彼に恋心なんか抱かないしな」

「そうでしょう……え?」

「あまり突っ込むなよ、そもそもボクは恋愛したことないんだ」

「じゃなくてアナタ、女の子だったの?」

「はぁ⁉︎そこからかい?当然、分かってるかと」

「ごめんなさいね、だって探偵業なんていうから……」

 そう言いながらチラッと彼女の体に目を落とす。どう見ても少年のような……

「女の探偵もいるだろう、それにその上から下への視線移動は許せないな。完全なセクハラだ」

「あっ、いや違うわよ探偵さん!えぇと……綺麗な髪だから、胸の辺りまで伸ばしたらどうなるか想像しただけよ!」

「ふぅん、そうかい」

 この事件の後、モデルと探偵は暫く共に海外を転々と旅するが、各地でモデルが巻き込まれる様々な災難を、彼女は持ち前の能力で華麗に解決してみせるのだった。そして帰国後、探偵は”画家“として文化荘に落ち着く事となる。


――現在

 もう、彼女は居ない。

「お願い。どうかアタシを守って頂戴ね」

 モデルは願う様にそう呟くと、台本を手に部屋を出た。

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