料理家の災難

 都内を出るときに大粒になりかけていた雨は、山道に入る頃には豪雨となっていた。

「今日は折角早く帰れるってのに……最悪だ」

 白い高級車の中で料理家はぼそりと呟く。長い金髪をたくし上げ腕時計を確認すると、時刻は午前十一時半を過ぎていた。

 午前中の仕事を終えて、今日は午後から珍しく何の予定も入れていなかった。早く文化荘へ戻って、厨房で思う存分食材と戯れようと考えていた矢先、小雨だった雨はまるで行手を阻むかの様な大雨に代わり、帰り道の運転を難儀なものに変えたのだ。

 こういう時、見た目だけで選んだ外車は頼りなかった。どうしたってこの山道で白いボディに泥が跳ねるのは避けられないし、かといって取り回しも悪いので思い切ってスピードを出すわけにもいかなかった。

舗装されていない泥道をスリップしないよう慎重に進んでいく。彼は不意に、いつも文化荘まで食材を運んでくれる配送業者の事を思い出した。彼らは大型コンテナのついたトラックで、天候に関わらずこの道を往来してくれるのだ。当然の様に思っていたが、大変な事だと実感した。

だがその実感から生まれたのは業者に対する感謝ではなく、それらを雇える自らの経済力への満足感だった。自分でしたくない苦労を解決する為に彼は、幾つものレストランやホテルの調理を監修し、テレビや雑誌の取材にも出て休む間も無く稼いでいるのだ。

 料理家は極めて類い稀な味覚と、優れた嗅覚の持ち主である。その才能を遺憾なく発揮する為には最上級から最底級までありとあらゆる食材を味わい比べ、最高の調理法を考え出し、互いに高め合う材料見つけ、揃えておかなければならない。

それには毎日の食材調達が必要不可欠で、彼の研究拠点である文化荘には世界中の珍味が昼夜問わず届けられているのであった。厨房に戻ったらまず晩御飯を作らなきゃな……そんな事をぼんやりと考えていたときである。


“ピシッ!”

 聞いた事もない音と共に彼の視界が一瞬の閃光に包まれる。次の瞬間、目の前は深い緑に覆われ、同時に今まで味わったことのない衝撃が彼を襲った――


「……っはぁ!」

 どうやら気絶していたようだ。貧血を起こしたのか、まだ少し指先が痺れていた。バックミラーで自分の顔を確認する。普段テレビ映えする白桃の様な肌からは赤みが消え失せ、まるで死体を思わせる青白い色へと変化していた。一体どれくらい時間が経ったのだろう。腕時計を見ると数分程度だと分かり、一安心する。

 暫く呼吸を繰り返して落ち着くと焦げ臭い、更に酷く蒸せ返るような葉っぱと土の匂いに気が付いて、堪らず車を飛び出した。外に出て、初めて状況を理解する。乗っていた車のフロントには山の斜面から木々が倒れ掛かっていたのだ。恐らく雷が木を直撃し、その衝撃により雨で濡れて緩んだ地面が周りの木々を巻き込んで土砂崩れを起こしたのだろう。九死に一生を得たとはまさにこの事だった。

 しかし文化荘へと続く道は倒れた木々によって塞がれており、車での通行は完全に不可能なようである。あと数分、車を走らせれば目的地に辿り着けるという所でこんな災難に見舞われるとは……

「ったく。ツイてないぜ」

 思わずそう吐き捨てると、料理家は車の後部座席から傘と調理靴を取り出し、高そうな革靴を脱いで履き替えながら、塞がれた通路に体を通せる箇所があるか冷静に検討し始めた。

「ここから歩いて……二十分で帰れるかどうか」

 彼は道を塞ぐ木々を避け、葉っぱの少ない木の先端側を通り抜けようと、ぬかるんだ道を歩き出す。現場用の調理靴はテレビ用の高級靴と違って、しっかりとした滑り止めが付いており歩き易かった。

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