警部の現場検証

「そうかいそうかい。じゃ新米、取り敢えず事情聴取はお前がやってみろ。この円卓で全員から話を聞く感じでいい、俺は先に現場を見てくる」

 そう言ってエントランスにいる住人達を新米警官に任せて、俺は一〇六号室へと向かった。現場に馴れてない新人をここの専任へと育てるには、まず奴らと親しくさせる必要があるだろう……というのは建前で、最初の現場検証は一人でじっくりとやりたかったのだ。

 大廊下に入ると、この場に似つかわしくない脂っこい匂いが鼻をついた。足元の絨毯が濡れタオルで拭いた後みたいに少し濡れている。パン屑らしい白い塵も僅かに残っていた。あの配達員、焦ってピザをひっくり返しやがったな?

 一〇六号室のドア横に置いてあるピザ屋のロゴが描かれたビニール袋の中を覗くと、使い終わって丸められたウェットティッシュとピザの箱が目に入った。

取り出して開くと予想通り、雑に詰め込まれて形の崩れたピザが入っていた。救急隊員が来る前に、落としたのを急いで片付けたのだろう。よく見てみるとその中に一部、表面の状態が不自然なピザがあるのに気付いた。落とした時にトッピングが崩れただけでなく、まるでその上でなにかを引き摺ったような跡が残っている……例えるならピザカッターで切るのを失敗したときに具が滑ってズレた時と似ていたが、既に切り分けられている宅配ピザに起こる現象としては明らかにおかしいものだった。詳しく観察するとその痕跡は何枚かの切れ端で、切り分けの方向に対してランダムな向きで残っている。

「ほう……」

 このピザのゴミは偶然の産物だが、ここに残った違和感は恐らく犯人が意図しない形で残った物証だろう。密室の事件は部屋の外にトリックの残骸が残る事も多い。このピザに残った謎の痕跡の正体が分かれば、同時にこの場で使われたトリックを暴く為の動かない証拠になる……長年の刑事としての勘がそう告げていた。

 ゴミを元に戻し、手袋をはめて事件現場の一〇六号室のドアを開けると、中の廊下は間違い探しの絵のようになっていた。フローリングに残った血溜まり、トロフィー、倒れた椅子、奥のドアは開いておりリビングの中まで見通せる。

俺は何やら気持ち悪い感覚を覚えた。まるで美術館で絵を見せられているような……その感覚についての確信を得ようと、部屋に入ろうとしたところを写真家が呼び止める。

「警部さん、事件直後に撮った写真要る?」

「おう、助かる」

 差し出された写真の何枚かに目を通す。一枚目は俺の目線と同じくらいの高さから撮られたらしい。現場と比べて見ると、まるで脚本家が合成されたかと思うほど、他の部分には変化がなかった。二枚目はフラッシュを焚いて撮った全体の引き画で、こちらも事件直後から特に変わった様子は無い。三枚目以降は倒れた脚本家が全身隈無く撮られている。どうやら頭頂部の一撃以外に怪我は負っていなかったらしい。

「それ二枚目まで音楽家さんが撮ったやつで、残りは私。居なくなっちゃうから脚本家さん中心に撮っといたよ」

「流石だな」

「へへっ、じゃ私エントランスホールの皆にも写真配ってくるから」

「あ、ちょっと待ってくれ。出たところにピザの袋置いてあるだろ?あそこに入ってる箱の中身も撮っておいて欲しいんだ」

「ピザ?別にイイけど……」

「頼んだぜ」

 写真家も音楽家も、文化荘という特異な環境に慣れている所為かこの状況を楽しんでいる様に見えた。ほとんど完璧な現場の保全も彼らの手によるものだろう。頼もしいような不安なような……警察の人間としては微妙な心境だった。

 部屋に入って引き続き現場を調べる。まずは血溜まりの中に落ちているトロフィーを手に取った。黒い台座に金色の盃がついた典型的なものだ。ワインボトル程度の大きさでずっしりとした重さがあり、台座の角には血痕が残っている。トロフィーの両側には取っ手がついており、その片方には黒く細い糸が巻き付いていた。糸は台座の方にも絡まっている。改めて写真を確認した。脚本家の怪我は頭の天辺に近い位置だ。

(この箇所をあのトロフィーで殴るには、被害者の頭を見下ろすような位置関係が必要になるな……椅子に座ってる時に背後から殴ったと見るのが妥当か)

 廊下の奥に目をやると、椅子が倒れていた。椅子はリビングのドアと、それに対して直角に位置する右手側の壁にあるサニタリールームのドアの間に斜めに転がっている。

(この椅子に座らされて、殴られた拍子に椅子ごと倒れ込んだ?いや、違う。この椅子の倒れ方と脚本家の位置は全くシンクロしていない。先にリビングで殴られてから移動させたと考える方が自然か……ならなぜ椅子はこんな場所に倒れてるんだ?)

 サニタリールームを確認しようとしてドアを開けようとすると、開かない。外開きのドアに椅子の背が引っ掛かって邪魔をしているようだ。なるほど、このドアを閉じる為に倒されていたらしい。

椅子を退かしてドアを開けると左手には洗面所と洗濯機、右手に風呂場、正面にトイレが見えた。整理整頓されており、特に変わった点はない。閉ざされていた割に目ぼしい物がなかったので、早々に切り上げて移動する。

リビングに入ると部屋の中は右手に向かって空間の広がっている設計で、広さはかなりのものだ。壁に二つある窓は両方ともカーテンが閉められ、その窓に挟まれた壁際のど真ん中にパソコンの置かれた仕事机が設置されている。

正面から右へと視線を動かすと、俺の立っている入口の位置から対角の位置にベッドと本棚があり、廊下側の壁には簡単なキッチンが備え付けられている。

 部屋の奥側、三分の一ほどはプライベートスペースのようで、今は全開になっているが部屋を横断するように仕切りのカーテンが設置されており、カーテンレールの向こう側は生活感が漂っていた。

 リビングの中央には接客用のテーブル、その上にはウィスキーボトルと氷入れ、そして二人分のグラスが残っていた。氷入れの中身は当然、全て溶けて水になっている。椅子は奥に一つ。さっき見たものと同型であることから、廊下に転がっている椅子は本来このテーブルにあったものだと推察された。

 廊下から続く左側の壁には壁掛け時計が一つ、そして突き当たりに大きめの姿見が置いてある。この鏡のお陰で、本来死角が生まれるはずの玄関からでも容易に部屋全体が見渡せたというわけだ。

「なるほどな」

 入口から見た時の違和感の正体に気付いたところで、エントランスホールで待機させていたはずの連中がぞろぞろと部屋に入ってきた。

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