新米警官について

「ああ~、ヒマだなぁ……」


 数多の推理小説が積まれた乱雑なデスクの上に新聞を広げ、新米警官は不満そうに呟く。窓の外に目をやり、小雨の降る様子を退屈そうに眺めて大きな欠伸を一つした。

 この場面だけ切り取って見ると、フィクションの世界に憧れて警官を目指し、イメージと乖離した退屈な現実に嘆く不真面目な若者に思えるかも知れない。しかし外見と中身は違うもので、署内で一番熱心な警官は誰かと問えば、誰もが口を揃えて彼の名を挙げるのだった。

 新米警官といえばかつてこの辺りでは知らない人が居ないほど有名で、熱烈な地元愛と正義感に溢れた若者であった。ただ彼が有名な理由はそれらの漠然とした概念によってではなく、天性の防犯意識がもたらしたとある伝説と、彼の並々ならぬ努力によるものだった。そのことを語るには、彼がまだろくにハイハイもできず、喋れもしなかった赤ん坊の頃まで遡らなければならない。


 彼の生まれは都内と言えども小さな下町で、住民同士のコミュニティがまだまだ健在なエリアだった。母親が赤ん坊の新米警官をおんぶして、その町唯一のデパートで買い物をしていた時の事。

いつもは大人しく母の背中に収まっている彼が、急に大声で泣き出した。母親が驚いて振り返ったところ、ちょうど後ろの棚で万引き犯が商品を盗もうとしている現場を目撃したのだ。彼女が反射的に「万引き!」と叫んだ時、彼は既に泣き止んでおり、店内は直前の赤ん坊の泣き声によって一瞬の静寂に包まれていた事によって母親の叫び声が響き渡り、万引き犯の凶行はその場にいた全員の知るところとなった。

 生後二ヶ月にして万引きの現行犯逮捕。これが新米警官が町で有名になるきっかけとなった伝説である。それから彼は母親をはじめ、町内の全員からいつもその話を聞かされて育った。そうして町の防犯の象徴として周りの人々から扱われ続けた子供が、地域奉仕に人一倍従事する少年へと成長するのは至極当然とも言えた。

 彼は小学生に上がるまでゴミ拾いのボランティアに欠かさず参加し、ポイ捨てをする人が居ないか常に目を光らせていた。小学生になってからは空手や柔道の道場に通い始め町内パトロールを日課とし、放火魔や通り魔、泥棒といった町を脅かす悪人どもを撃退せんと日々励んだのだった。そうして高校卒業まで毎日彼の自主パトロールは続けられ、町の住人は安心して平和な日常を送った――

 ちなみにこの町では比較的犯罪発生率が低く、彼がこれまでの人生において犯罪を防いだのは例の伝説……つまり生後二ヶ月のあの一件のみではあったが、彼は自分が“防犯の申し子”であると信じて疑わず、自分の存在によって未然に犯罪が防がれているとすら考えていた。

その持論は彼が警官という職業に就いてからも変わることはなく同時に彼は、きたる凶悪犯罪に備え養った己の力を発揮する為の機会にも飢えていたのである。鍛え上げた肉体も相まって、とかく自信に満ち溢れた青年であった。


そんな彼のぼやきは同僚にも聞こえたらしい。

「警官が暇ってのは平和でいいだろうがよぅ」

 どこからともなくそんなセリフが返ってきた。

「それはそうっすけどぉ~なんか活躍したいじゃないっすか」

 同僚と何と無しにやりとりをしていた所に、警部補から声が掛かった。

「おい新米、忙しい方が好きか?」

「あ、警部補……そりゃ当然、働きたいっす」

「ちょっと待ってろ」

 そうして警部補は自分のケータイで電話を掛け始めた。

「おはようございます……さん。実は文化荘から通報が……ええ、はい。」

 よく聞き取れない。文化荘?

「……というワケなんですが……さん、頼まれて貰えませんか?……あぁ!助かります。アイツ現場初めてなんで、色々教えてやって下さい。よろしくお願いします。それでは」

「警部補、どういうことっすか?」

「今から警部さんが直々に署へ来て下さる。お前、付いていって勉強してこい」

 警部!その名前を聞いた瞬間、白黒の思い出に鮮やかな色が蘇った。警部は自分がまだ子供の頃からこの町で働いていたお巡りさんで、長いことお世話になった尊敬すべき人物だ。


 初めて警部と会ったのは小学校低学年の頃である。パトロールを兼ねてゴミ拾いをするいつもの道で高校生だか大学生だか、とにかくガラの悪いヤツがポイ捨てするところを見つけ、咎めたことがあった。

注意した瞬間そいつはビクッとたじろいだものの、声の主がほんの子供であることを知るとバツが悪くなったのか、ゴミを拾わず逃げようと走り出したのだ。絶対に逃すまいと喚き立てながら必死に追いかけたが、体格差による速度の差から距離は埋まることなく広がり続け、程なくポイ捨て犯は影も形も見えなくなった。

諦めて帰ろうとしたが、無我夢中で追い掛けたせいで知らない道まで来てしまった自分は案の定迷子になり、とりあえず来た道を辿ろうとするも入り組んだ路地を経由しただけで帰り道の見当が付かなくなってしまった。そんなこんなで時間も経ち、陽が落ちるにつれ不安も増してきた頃、声を掛けてくれたのが警部だった。

「ボウズ、もう暗いのにどうしたんだ?」

 見回り用の自転車を脇に停めてわざわざしゃがんで、着ているコートの裾が地面に垂れるのも気にせずに目線を合わせて声を掛けてくれたのを憶えている。

 ポイ捨て犯を捕まえきれなかったから罰が与えられたのだと言うと彼は驚いた様子で

「そりゃあ災難だったな……じゃ取り敢えずその犯行現場に戻ろうや」

 そう言っていつもの道まで連れて行ってくれたのだ。自分はその間に、赤ん坊だった頃に母親と万引き犯を捕まえた話や町内のゴミ拾いをはじめとしたボランティアに欠かさず参加していること、町を守るのが使命だと信じていることなどを延々と喋り倒し、警部はただ頷いて静かにそれを聞いてくれた。

 ポイ捨ての現場に行くと、あの男が捨てたゴミはもう無くなっていた。

「ここに落ちてたゴミ、さっきパトロールしたときに俺が捨てたんだ……お巡りさんの役目だからな。ボウズでも自転車なら追いつけただろうに」

 そう言って励ましてくれた警部の目は温かく優しかった。自分はその時に初めて、職業として警察官を意識したのだった。

 結局、その日は家まで送ってもらう事になり、後日また、母親と共に交番までお礼に行った。それからを境に、自分がいつもパトロールとゴミ拾いをする時に歩くコースは少しだけ遠回りになった。警部の居る交番を通れるように道順を変更したのだ。警部はいつも居るわけではなかったが、自転車を買ってもらってからは出待ちみたいな事をして、警部の見回りパトロールを後ろから追いかけたりしたものだ……


「おい、新米!」

「はい!」

 不意の呼び声に振り向くと、署の入り口からクシャクシャの癖っ毛が覗く。警部だ。少し老けて見えるのは頭髪に混じって見える白髪のせいだろうか。思い出と変わらぬ象牙色の薄手のコートは少し濡れていた。

「現場行くぞ」

 警部に促されるままに彼の車に乗り込んだ。パトカー以外の車に乗って現場に向かうのは初めてだった……と言っても自分が警察官になってから事件という事件には巡り合えず、現場に向かったことすらまだ一度もなかったのだが。


 暫くすると窓の外から段々と建物が消えてゆき、目の前にはこの町で二十年以上生きてきた自分にとって背景でしかなかった山々が近付いてきた。

「すごい景色ですね、自分ここら辺まで来たこと無かったっす」

「都会っつっても自然切り拓いて開発してんだ、当然その境界ができるわな」

「夕日とかで山影を意識したことはありましたけど、そこに自分が居るってなると不思議な感じがしますね……」

「ずいぶんな詩人だなぁ、新米」

 車を持っていないから、と言おうとしてやめた。きっとそういう移動手段を持っていたとしても自分は町の外に出ないだろう。この町を離れたら守るものが無くなってしまう。自分が町を出たら、町は犯罪で溢れてしまう。そんな強迫観念が頭を過ぎるからだ。

文化荘のあるというこの山はギリギリ管轄内だが、自分がこの町から出て行くなんてことは全く想像ができなかった。これでは町を守っているのか、町に守られているのか分からないな……いつもは考えの至らない点にまで思考が巡ろうとし始めた時、警部が話しかけてきた。

「見えるか?あの壁」

 視線の先には木々の緑に混じって、ガトーショコラのような色をした壁面が見える。

「はい、見えます!なんかチョコみたいで美味しそうっすね」

「あの壁が燃やされたのは俺が警部補に昇進した頃だ。あそこの壁使って彫刻家とストリートアーティストが作品をつくろうとしてボヤ騒ぎ起こしたんだよ」

 燃やされたと聞いて、その壁面が煤けたレンガだと気付く。ボヤ騒ぎなんて初耳だ。警部が警部補に昇進した頃というと、確か自分が高校生の頃だが、その時期にスクラップして毎日隅々までチェックしていた新聞の記憶には思い当たる記事はなかったはずだ。

「え?自分そんな事件、知らないすよ、地元なのに」

「当然だ、書類送検も何にもされなかったからな。とにかくそう、あの屋敷は特別だ。治外法権なのさ」

「へぇ、なんか怖いっすね」

 文化荘の噂は学生時代に耳にしたことがある。なんでも町の近くには存在を隠された屋敷があり大金持ちが所有していて、自らが認めた者以外を入居させない特別な貸住居だと聞く。

 その屋敷では特別な才能を持つ文化人達が彼らの才能を遺憾無く発揮できるように様々な計らいがされているとの事だったが、小さな事件の隠蔽もその範疇だとすれば。つまりあの屋敷にこそ、今まで自分が発揮できずにいた才能を思う存分振るう機会が詰まっているのではないか。そう思うとなんだか興奮して、自然と体が震えた。これが武者振るいというやつか……

 そんな事を考えていると、間も無く立派な門が見えてきた。推理小説を読んできた中で幾度となく想像した屋敷、数々の名探偵が事件に巻き込まれる舞台となったそのイメージ通りの建物が、段々と強く降り頻る雨の中、聳え立っていた。

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