警部について

 連絡があったのは午前一〇時四〇分。警部補が申し訳なさそうに私用携帯に電話してきた時、俺は家で遅めの朝飯を食っていたところだった。

「……で、彼曰く取り敢えず救急車は呼んだらしいんですが、また警部を寄越せと。我々としても、あの屋敷のことを警部さんにばかり頼るのは心苦しい所ですし、そろそろ貴方の後任を育てる時期じゃないかと思いましてね?良い機会だと思うんで、あの“新米警官”を連れて行って貰いたいと思っているんですけど……警部さん、頼まれて貰えませんか?」

「まぁ、そういうことなら……アイツの熱心さが悪く出なきゃ良いがね。文化荘へならパトカーはいらねぇな、俺が拾っていくよ」

 新米警官は俺が若い頃から知っている青年で、知り合った当時はまだ子供だった。幼いときから人一倍に正義感の強かった彼は大学卒業後、警察官として同じ警察署で働き始めたのだ。

「あぁ!助かります。アイツ現場も初めてなんで、色々教えてやって下さい。よろしくお願いします、それでは」

 俺は食いかけの飯を急いでかき込み味噌汁で流し込むと、いそいそと用意を済ませるのだった。


 そして現在。俺は新米警官を助手席に乗せて小雨の中、郊外の避暑地へ向けて車を走らせていた。警部と云う身分の俺が休日に、なぜパトカーではなく自分の車を走らせてまで現場に向かっているのか?それは通報場所が他ならぬ文化荘だったからだ。

 現場を駆け回っていた巡査時代に想いを馳せる。俺が交番勤務の頃からおよそ一〇年余り……基本的に平和なはずのこの町で稀に掛かってくる通報のうちの八割は文化荘からのものだった。

文化荘から通報が掛かる度に、立地の関係でいつも最初に現場へと向かう事になるのはウチの交番の警官だった。そのせいで当時は文化荘の通報はほとんど俺が現場に向かっていたので、あそこに住む癖の強い住人達と何度も顔を見合わせる羽目になる。そうして当然の様に彼らとは顔見知りになったのだ。そして間もなく文化荘関連の事件は全て俺の管轄同然に扱われる様になり、何故かその流れは俺が交番から今の警察署に異動してからも続いた。

 大抵は住人同士の言い争いや、偶に芸術表現のヒートアップで起こるボヤ騒ぎなどで、通報時は訳の分からぬ理屈や物騒な文言が飛び交う。彼らの話す言葉は基本、字面だけ受け取れば論理的でありながらも展開が飛躍しており、マトモに取り合うと混乱しそうになるが実際に起こっている事象はどれも大したことのない事柄ばかりで悪ガキがやんちゃした程度のものだった。

 俺が芸術全般に興味の無いことが幸いしてか、住人の戯言に惑わされず常に冷静に対処し続けてきた結果、文化荘からの通報を受けた事件は今まで一度も書類送検にすらなったことがなかった。今回は負傷者が出ているとの事でいつもと少し毛色が違ったが、今までの過去の事例から、やはり「文化荘ならアイツが顔を見せれば収まるだろう」という空気が署内では流れたのだろう。通報者たっての希望もあって本来、現場に出て責任者となるはずの警部補を通り過ぎて俺に白羽の矢が立ったらしい。

 警部になってからの仕事は現場指揮の統括や事務作業ばかりが割り振られてデスクワークが増えた為、碌に現場に行く機会がなかったこともあり、鈍った体に久々に現場で喝を入れたいという気持ちもあって休日を返上して出張ったわけである。

 とはいえ通報は通報である、完全プライベートという訳にもいかない。警部補もそれは分かっていたようで、次世代のポスト“文化荘直属警察官”育成のため、新米警官を連れて行く事を提案してくれたのだった。


 二人の乗った車は署から三〇分足らずでビル街を抜け、迷路のような住宅地を進んで山の麓へと近付いていた。

「凄い景色っすね、自分ここら辺まで来たこと無かったっす」

 そう感想を洩らす新米警官は艶々の黒髪をオールバックにし、新卒サラリーマンさながらの見た目である。軽い口調とは裏腹に格闘家顔負けの引き締まった身体つきをしており、節制や筋トレによる日頃の勤勉さが窺える。その絶妙にちぐはぐな感じによって彼は独特の、どこか人を油断させる様な一種の気軽な雰囲気を醸し出していた。

「都会っつっても自然を切り拓いて開発してんだ、当然その境界ができるわな」

 そのまま車は鬱蒼と繁った木々の中へと突っ込んでいく。人の群がる街並みから徐々に景色が自然に包まれていく様子は、まるでタイムマシンに乗って時間旅行している感覚であった。車窓を伝って後ろへ流れていく雨粒がスピード線のような効果を生み出し、その景色の変化により幻想的な印象を与えているのだ。

「夕日とかで山影を意識したことはありましたけど、そこに自分が居るってなると不思議な感じがしますね……」

「ずいぶんな詩人だなぁ、新米」

 新米警官は若者特有の感受性を遺憾無く発揮し、しみじみと物思いに耽っているようである。こんなおセンチな奴だったとは知らなかった、コイツを連れて来たのは失敗だったかもな……あの特殊な住人達に感化されやしないだろうか?人選に一抹の不安を覚え始めた頃には、もう引き返せない所まで来ていた。木々の隙間から煤けたレンガの壁が覗く。

「おい新米、見えるか?あの壁」

「はい、見えます!なんかチョコみたいで美味しそうっすね」

「あの壁が燃やされたのは俺が警部補に昇進した頃だ。あそこの壁使って彫刻家とストリートアーティストが作品をつくろうとして、ボヤ騒ぎ起こしたんだよ」

「え?自分そんな事件、知らないすよ?地元なのに」

「当然だ、書類送検も何にもされなかったからな。とにかくそう、あの屋敷は特別だ。治外法権なのさ」

「へぇ、なんか怖いっすね」

 彼は俯いて黙り込み、怯えたように少し体を震わせる。よしよし、危機感を先に引き出しておけばひとまず大丈夫だろう。注意喚起を混ぜた思い出話で若者を煽ったところで、曲がりくねった山路の果てに古びた門が見えてきた。

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