音楽家の遭遇

 午前一〇時二十四分。一〇八号室に住む音楽家は遅めの朝ごはんを食べ終え、作曲の最中であった。といってもただソファに寝転んで紙と鉛筆で手遊びしているだけだったが。彼は最近、大きな仕事をひと段落させたところで、次に作る曲に向けての構想を練っていたのだった。

 音楽家は遅咲きの天才と呼ばれ、かつてサラリーマンだった頃に趣味で動画サイトに上げていた自作のテクノ音楽を中心とする作品群が高く評価され、中年になってから脱サラをして音楽活動に専念し始めた異色の経歴を持つ男である。 

 なかなか会社を辞められずにいた彼が音楽一本で生きていこうと決心したのは、文化荘からのオファーがあったからだった。動画をアップし始めたのが二十八の頃で、スカウトを受けて引っ越してきたのは三十三。もう此処に住んでから十年以上の月日が経つ。

「何か刺激のある事件のひとつでも起こってくれれば良いんだがねぇ……」

 茶色いロン毛をポリポリと掻きむしり、鉛筆を指先で弄びながら、ソファに収まりきらない枝の様に細長い足をぐーっと伸ばして彼はボヤく。

 都心に近いとはいえ、この山間部の周辺にはいくつか別荘が建っている他には何もなく、面白いイベントなど起こるはずもなかった。いつか一〇二号室の写真家と話した時のことを思い出す。


「刺激がない?こんな自然豊かな環境で何を言ってるの?木々のさざめきに鳥の囀り、刺激しかないじゃない!」

「ま、キミみたいな自然を撮る仕事ならそうかも知れないけれどね。オレからしてみれば自然を表現した音楽はもう出尽くしてるのよねぇ、いっそのこと録音して流すくらいのことしてみようか……」

「あ!それ良くない?私、撮影のついでに環境音でも録ってこようか?」


 あの時は断ったが、考えてみると楽譜に環境音を流す記号が現れる譜面はなかなか面白そうだ。試しに頼んでみても良かったか……いや、やっぱりないな。オレが作りたいのは自然じゃなく人の心に焦点を当てた音なんだ。となるとやはり、人の引き起こす出来事からインスピレーションを貰わなきゃならんだろう。

 そう考えながらも都内へ出掛ける気力が湧かないのは、彼の生まれつきの出不精によるものだった。彼は部屋をぐるりと見回す。ギター、ピアノ、ヴァイオリンにハープ、果ては太鼓まで。ありとあらゆる楽器が彼を取り囲んでいた。

「最近ピアノ、弾いてなかったなぁ」

 やおら体を起こすと、ロン毛からはみ出すほど大きな耳に鉛筆を挟んだ。ピッタリと収まる。どうやらそこが鉛筆の所定位置らしい。

 そうして彼はピアノの前の椅子に座り鍵盤に指を置く。ひと呼吸おいて指を落とすと、調律された規則正しい音が美しく響いた。外の雨の音も心地良い。


 今日は部屋から出ないでピアノを弾いていようか、そう考えた時だった。

"ゴン"

 隣の部屋の方から異質な鈍い音が響く。そして……

「うあぁ、わあああああぁ!!!!!!」

「今のは……」

 叫び声は外の大廊下、隣室一〇六号室のドア前付近から聞こえた。

 急に胸が高鳴る。何が起こったのか分からないが、今の叫びは普段から屋敷内に響く、創作に行き詰まった住人達があげる叫び声とは明らかに違っていた。

 オレは耳がいいんだ。あの叫び声は只事じゃない。そして今起きている事態はオレの次の作曲の軸を作ってくれる。そんな予感が体中を駆け巡る。

急いで部屋の外へ出ようとリビングの扉を開け、玄関へと走る。キーチェーンが邪魔だ。やっとのことでチェーンを外してドアを開けると、見慣れない青年が大廊下にへたり込み、ピザを撒き散らしているところだった。そこに写真家が合流するのが見えた。急いで写真家の方へ駆け寄る。

「なにかあったのかい?」

 写真家は何も言わず、カメラを手渡してきた。そして彼女はそのまま一〇五号室のドアを叩く。

"ドンドンドン"

「俳優さん、いるんでしょう?出てきなさい!」

「なんのこっちゃ……」

「す、すいません。もしかして写真を撮っとけって意味じゃないでしょうか?」

 腰を抜かしたままのヘルメットの青年が、少し落ち着きを取り戻したように話しかけて来る。

「写真って、何の」

「・・・」

 青年が黙って指さした先を見ると、一〇六号室の廊下で脚本家がうつ伏せに倒れているのが目に入った。

「なるほどねぇ」

 一〇六号室の玄関から脚本家に向けてシャッターを切る。少し暗いか……フラッシュを焚いてもう一枚。

「ありがと、返して」

 暫くドアをガチャガチャさせていた写真家が諦めて戻ってきた。キミが急に渡してきたんだろうに、とは言い返さずに尋ねる。

「俳優さんに何か用かい?」

「さっき脚本家さんの部屋から俳優さんの部屋に向かって糸が移動するのが見えたんだ」

「糸?そんなのありました?」

「見えなくて当然だと思うよ。細くて黒い糸だったから……多分元からドアの上に渡してあったのが引っ込んでったんじゃないかな。君の頭の上を通り過ぎるように移動してた」

「ふむ……一〇六号室で起きた事と関係あるのかねぇ、返事は?」

「だめ。反応なし。ドアも鍵が掛かってて開かないみたいだし……」

「あの、ボク警察呼びます」

「先に救急車の方がいいんじゃないかい」

「え?」

「彼、まだ息をしてるようだよ?」

「ええええぇっ⁉︎そんな、先に言って下さいよ!」

「キミが勝手に死んだと早合点しただけだろうに……」

 オレの耳には、微かに続く脚本家の吐息がしっかりと聴こえていた。

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