写真家の遭遇

 写真家は文化荘の一〇二号室に住む若い女性で、快活という言葉を体現したような人物である。華奢ながら運動神経の良い彼女の茶色い癖っ毛は目にかからぬよう短く切り揃えられており、小さめの耳と対照的にぱっちりと開いた両目はどんな被写体も見逃すまいと常に光り輝いている。芸術系の大学で写真を学ぶ為、地方から都内に引っ越してからはや六年。バイトからボランティアまで、がむしゃらに写真関連の仕事に挑戦し続けた。

 そんな彼女が文化荘への切符を手に入れたのは大学三年の頃。幾つも受けた写真の仕事の中でレストランのメニュー写真を撮る案件があり、その折に文化荘の住人の一人である“料理家”と知り合い、彼に気に入られた事からとんとん拍子に話が進み、大学卒業を待たずに文化荘へと越して来たのだった。

学生の頃から自然をテーマに作品を撮り続ける写真家は、ここに越してから毎朝カメラを片手にランニングに出掛けては、緑に囲まれた文化荘の立地の良さに感謝しながらご機嫌でシャッターを切る。

 普段、彼女の日課であるランニングは軽い朝食を食べ終えた午前九時から一〇時過ぎの時間帯に行われる。特別に撮りたい生き物がいる時期は早朝の四時など、まだ日の登らない時間から出掛けることもあるが、基本的にはしっかりと強めの日差しを感じながら山の中を歩くのが好きなのだ。


 その日、写真家はいつもより早い時間にランニングを切り上げて、一〇時二〇分には屋敷内の自室で待機していた。彼女がランニングを早めに終わらせたのは小雨の影響もあったが、なにより宅配ピザの到着を待つためであった。と言ってもデリバリーを頼んだのは彼女ではない。昨日、彼女の部屋に匿名の手紙で次のようなタレコミがあったのだ。


『この由緒正しき文化荘において、自らの怠惰故に食事すら疎かにし、巷に溢れるジャンクフードなるものを持ち込もうとする不埒な輩は厳罰に値する。予定時刻は六月某日一〇時三〇分との情報アリ、取引現場をスクープせよ。』


 屋敷の住人達はなかなかの曲者揃いだったがその分、割と仲が良かった。夜などは中央のエントランスホールに数人が屯して、酒とつまみを囲ってなんでもない事を話す。

 屋敷内の食事に関しては先の料理家が全員分の食事をいつも用意してくれていて、しかも提供されるのは健康的かつ一流の料理ばかりという高待遇なので、ファストフードのデリバリーなど頼む人は滅多に居ない。そんな環境で誰かがジャンキーに堕ちたなんて話題は、住人達にとって格好のネタなのだった。

"ブロロロロ……"

 雨に混じってバイクのエンジン音が聞こえた。窓から確認すると正門に、ピザの配達員らしき人物がやってきた。レインコートを羽織ってはいたが、薄いポリエステルの生地は中が透けて見える。宅配ピザのロゴマークが入った黒いヘルメットを被り、同じくピザ屋のロゴがデカデカと背中に張り付いた、安っぽい生地の黒ジャンパーを着た青年だ。まずは彼の姿を写真に収める。門を開けてしばらくすると、彼は大きく角張ったビニール袋を片手に提げて敷地内へと入ってきた。

 気付かれないように少し間を置いてからエントランスホールへ向かうと、ちょうど反対の大廊下からノックの音が聞こえる。タイミングはばっちりだ、配達員がノックした部屋は一〇六号室――どうやらピザは脚本家さんの部屋に届けられるらしい。受け取るところを激写しようと近寄っていく。すると突然、一〇六号室から一〇五号室のドア上部に向かって何かが光り、配達員の頭上を素早く移動するのが見えた。一体あれはなんだろう?

「失礼します、ご注文の品をお届けにあがりました」

 当の配達員は何も気付いていない様子で、挨拶を済ませるとドアノブに手を掛ける。普通は住人の返事があるまで待つんじゃないの?そんな疑問が頭を掠めたが、ドアは難なく開いた。そして――

「うあぁ、わあああああぁ!!!!!!」

「な、何⁉︎」

 突然、彼は叫ぶと腰を抜かしたように廊下にへたり込む。いつの間にやら袋から出され、直持ちされていたピザの箱が彼の手から滑り落ち、何切れかのピザが辺りに散らばった。慌てて駆け寄ると彼は私に気づいたようで

「し、死んでる!人が死んでますぅ!」

 そう言ってヘルメットの中から縋るような目でこちらを見てきた。

 咄嗟に一〇六号室の中を覗く。リビングへと伸びるフローリングの廊下に脚本家が倒れているのが見えた。いつもと代わり映えのない白いワイシャツに小麦色のズボン、こちらに向かった頭部からは血が流れている。

手前には凶器らしきトロフィーが台座を血に染めて転がっていた。廊下の先、リビングに通じるドアは全開に開いており、ちょうど廊下とリビングの境目に椅子が倒れている。部屋の灯りは点けっ放しで、更には立て掛けられた姿見のお陰で玄関から部屋の中を隅々まで見渡せた。どうやらリビングには誰も居ないようだ。

後で一応写真を撮っておくか……私には必要ないけれど。


 写真家は目が良かった。視力とそれに付随する記憶力は異常で、見たもの全てを細部に至るまで鮮明に思い出すことが出来た。

 そしてその眼は、先程一〇六号室と一〇五号室間の上部に光って見えたものの正体まで既に見極めていたのである。束の間の状況観察を終えると、隣の一〇八号室から“音楽家”が顔を出した。

「なにかあったのかい?」

 ふらふらと近付いて来た音楽家に無言でカメラを渡し、一〇五号室へ向き直る。

"ドンドンドン"

「俳優さん、いるんでしょう?出てきなさい!」

 私はこの時点で、事件を引き起こした一因が一〇五号室にあることを確信していた。

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