配達員の遭遇
文化荘はレンガ造りのどっしりとした建物で、もともと赤茶色だったらしいレンガの壁は雨による色調の変化か、時間による劣化か黒く煤けており、まるでチョコレートのような色合いとなっている。学校のように横に長い、直方体の建物の中央部には屋根から植物園の温室を思わせるガラス張りの天窓が突き出していた。玄関を中心としてシンメトリーに、左右四枚ずつの格子付きの窓が規則正しく並んでいる。
イメージしていたよりもずっと厳粛な雰囲気を醸し出す屋敷を前に、ボクは尻込みをしながら玄関へと向かう。時刻は午前一〇時二十七分、あと三分で指定されていた時刻になる。
時間ぴったりに商品を届けることが、ピザを運ぶ仕事においてささやかなプライドとなっていたボクは、時間調整も兼ねて玄関前の泥落としでまず丁寧に、しっかりと靴底を綺麗にしてからドアノブに手を掛けた。屋敷の玄関扉は木製の立派な装飾のついた両開きのドアで、開ける際にしっかりとした重さを感じられる。
屋敷の中は広々としたエントランスホールになっていた。レンガ作りの外装に対して内装は木を基調とした作りとなっており、優雅な雰囲気で床は一面に紺色の絨毯が敷き詰められている。早く入りたい気持ちを抑えて濡れたレインコートを脱ぎ、玄関脇の傘置き場の傍に置いてから入場した。
中に入り改めて落ち着いてエントランスホールを見渡すと、中央の天井は外から見えていた通りガラス張りの天窓で、六角形が縦へと伸びるクリスタル形状の吹き抜けになっており、その真ん中に吊られた中世を思わせる黒い鉄製のシャンデリアの灯りが、ホール全体を優しく照らしていた。その真下には大きな円形の木彫テーブルが設置されており、その周りを取り囲む様にして肘掛け付きの椅子が八つ、等間隔で配置されている。
玄関からテーブルを挟んで向かい側、奥まった壁にはアポローンの彫刻が飾られており、エントランスホール全体を見下ろすような姿で設置されたアポローン像は天窓から落ちた雨粒の薄い影を纏って鈍い光の中、ぼんやりと浮かび上がって微笑んでいた。今日みたいな天気でなかったら、天窓から射し込む日の光で照らされてさぞ神々しく輝いて見えた事だろう。
「良い空間だ……」
この場所で、芸術の主神に見守られながら住人達が日夜、互いの芸術論を語り明かしている様子を想像すると自然と笑みが溢れた。必死に働いてお金を稼がなければまともに生きていけない現代、多くの人々が労働に時間と精神を食い潰される中、こんなにも自由な場所がまだ残っていたとは。
感慨に耽りながら、ボクは自分がここの住人であればどれほど良かっただろうと考える。外の世界での低い賃金に高い生活費、創作に理解の無い周囲の人々の蔑む様な目が思い出され憂鬱になる……いや、違う。文化荘に住んでいなくても、構わないのだ。今日、ここに来てこの場所を見れたこと、それだけで自分の中で世界が変わったような気がした。アポローンはこの屋敷の中だけでなく、世界中を見守ってくれているのだ。それを忘れずに縛られない精神を持つことさえ出来れば、いつかは……
そんな青臭い考えが浮かんで、ボクは何やら急に小っ恥ずかしくなる。同時に自分の中でほとんど消えかけていた創作活動への熱意が再燃するのを感じた。家に帰ったら筆を止めていたあの作品の続きでも書いてみるか……ぼんやりとそんなことを考えながら、ボクは一先ず配達の仕事を終わらせることに集中した。
エントランスホールからは左右に大廊下が伸びており、右側には一〇一~一〇四、左側には一〇五~一〇八の案内プレートが並んでいる。ボクは一〇六号室を目指して左側の大廊下へと歩を進めた。大廊下の天井にはまるで海月を思わせる青緑色をした硝子細工の間接照明が浮かび、辺りをぼんやりと照らしている。空間は絨毯の深い青色と相まって深海を連想させ、そのイメージに合わせるかのように壁には豪華客船を思わせるシックなデザインの木彫ドアが並んでいた。
一〇六号室のドアは大廊下に入ってすぐ、左側にあった。腕時計を覗くと午前一〇時二十九分。時間まであと一分……そうして待っていると、手に持ったピザのビニール袋が雨で濡れている事に気付いた。このまま玄関に置くと床を濡らしてしまう。そう考えて袋からピザの箱を取り出し、手拭い用のウェットティッシュをその上に乗せる。ビニール袋は嵩張るので折り畳んでポケットに仕舞った。紙箱は完全な密閉容器ではないが、部屋の中に置くならこの状態で届けても特に問題無いだろう。
些細な事でも気付けて良かったと胸を撫で下ろしながら、もう一度腕時計を見ると分針はちょうど三〇分を指していた。緊張しながらドアをノックする。すると、それに返すようにドアの向こうから"ゴン"と鈍い音がした。
「失礼します、ご注文の品をお届けにあがりました」
鍵が開いていることを確認してドアを開けると、玄関には代金が置かれている……はずだった。
「え」
代わりにボクの視界に飛び込んで来たのは、赤い液体。蛇のようにすーっと近づいて来る。嫌な予感。
その流れを辿ると奥に血溜まりが見えた。鼻を突く独特な匂いと雰囲気から、それが赤い絵の具による水溜りではないことは瞬時に理解出来た。そしてその血溜まりの中にある黒い影。
「うあぁ、わあああああぁ!!!!!!」
その正体を認識した瞬間、ボクは情けない叫び声を上げて部屋から逃げ出した。
事件現場 一〇六号室
被害者 “脚本家”
第一発見者 “配達員”他二名
発見日時 六月某日午前一〇時三〇分
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