第17話

 夏乃子の体は宙に浮いていた――打ち据えられた衝撃で。

 威力に押され中空では身動きが取れず、スタジアムの壁にぶつかり静止するも、コンクリートと肉ではコンクリートの方が硬く、体は痛みコンクリートは少しだけ欠けた。壁に打ち付けられた衝撃で肺の空気が押し出され、歯が頬を切り傷つけ血液の味が唾液に混ざる。

 少量の瓦礫と共に落下し、膝をクッションに転がる事で落下の威力を軽減する。

 口元をグイッと右手で拭い、血と痛みをぬぐい取ると横へと振り払った。

 体が壊れたと思った。だが案外痛みはないものだとスーツを着ていたおかげだと気付く。思ったよりもこのスーツの耐衝撃性能は高い。

 視界がやや揺れるのは脳震盪。ふらつく足に力を入れて立ち上がる。

 見上げるは一つ目の大入道――剥げて歪な頭と三頭身ほどの体躯。あずき色に縦線の入った袈裟を着て、武骨な体躯に大きな一つの目がぎょろりと。体のあちこちにはムカデやヤスデ、アリなどが這い口の中に入っては出たり入ったり。

 見上げるほどに大きく、見上げるほどに高く――くらくらする。

 汗でベトベト。夏の湿気でベトベト。

 真っ黒な虫のコールタールのような霧で気持ちもベトベト。体に纏わりついて二倍ベトベト。手についたら不快で仕方がない。口の中を少し切り痛みでズキズキする。

 脇腹に痛み、後頭部に触ると妙に湿っていて手が赤い。

 息を吸い込み、息を強く吐き出す。

 もう一度吸い、大入道の繰り出してきた拳をかわすと腕を横から回し蹴る。雷鳴を伴った足の裏は大入道の腕をはじき押し、しかし夏乃子も反動で飛び退る。夏乃子のしかめた顔、慣性に引きずられてうまく動けない体がもどかしい。

 チッと舌打ちすると、再び振り下ろされた大入道の拳をかわし飛ぶ。

 腕を蹴り上空へ、肩を蹴り上空へ、頭を蹴り上空へ、見下げる大入道と空気の中にいる瞬間を味わう。燈彼は大丈夫かしらとなんとはなしに思う。どうにかなってしまっているのではないか、いっそうどうにかなってしまえば私だけのものになるかもしれない。そんな考えすら脳裏をよぎってしまう。楽しい事で痛みを相殺しようとしているのかもしれない。

 足が不自由になってしまえばいい。そうすれば何処にも行けない。

 腕が不自由になってしまえばいい。そうすれば……それは決して願ってはいけないことだ。

 やがて落下をはじめ――途中生贄少女の姿が見えた。

 梓が生贄少女を使い辺りを見渡して適度に矢を撃ち援護しているのだろう。私のところによこすなんてと腹が立ち夏乃子は奥歯を噛んだ。

 同時に梓に余裕がある事は、燈彼をちゃんと守れていることだと察する。

 きょろきょろと辺りを見回している大入道の頭目掛けて、足をたたみ思い切り両足で雷を伴い踏みつける。頭の天辺から足元まで一直線に体重が乗り、大入道の足が地面に少しめり込んだ。ねめつけるように大入道を見下げる。

 足の裏から伝わってくる衝撃が痛みとなって夏乃子の顔を引きつらせる。

 再び飛びあがると――。

「見越し入道見越した‼」

 叫びと共にもう一度頭を踏みつける。飛んで踏みつける。飛んで踏みつける。赤い靴、リボンがたなびき、赤い残像が光の中に舞う。

 地面に降り立ちふんっと夏乃子は髪を整えた。

 辺りはまた虫に覆われ――クソ虫どもと夏乃子は雷を放つ。虫はまた集まり、今度は女が現れた。

 艶やかな着物を着た女性は琵琶を弾き始める。撥が弦を弾く音、一体なんなのと一体どういうつもりなのと、恨みとは憎しみの形とは呪いとは、夏乃子は肩で息をしながら女に近寄った。うるせぇと放った蹴りは虚空を薙ぎ、飛び退いた女の顔はおよそ人と呼べるものではなかった。

 獣の顔になった女は、ほっかむるように着物をかぶり、にゃーんと鳴いて消えた。辺り一面をまた虫が覆いつくす。

 思わずうなり声をあげ夏乃子は右足で地面を踏みぬいた。雷がほとばしり、地面に亀裂が走る。周りを気にして威力を押えていたけれど。

 このクソ虫ども、もう我慢の限界だ。

 奥歯を強く噛んだ夏乃子の顔は鬼のように歪んでいた。

 生贄少女を通じて様子を見ていた梓は夏乃子の事をこの馬鹿とののしりながら周りの人間に離れるよう促す。

 外から来る虫の方が強い。

 梓の目の前に飛来する虫達を燈彼が断ち切ってゆく。梓は燈彼を信用し自身の防御をしていなかった。

 生贄少女から入る情報を元に劣勢の班を援護している。弓を構えタイミングを見計らい放つのを繰り返す。

 イヤホンを通じて言葉を発し奮起を促す。

 地面が割れ巨大な蛇とも竜ともとれる胴体がまるで鞭のようにしなり唸りを上げた。

 即座に察して燈彼は梓に飛び掛かった。とっさの事に驚いた梓のいた位置を胴体だけの蛇が通り過ぎ砂ぼこりと瓦礫が舞う。

「なに⁉」

 その威力に目を見張る。まるで巨大なチェンソーだ。

 翻り再度飛来した胴体を燈彼は梓をかばい寸でかわす。飛び散った瓦礫の破片で梓の頬は切れ、かばった燈彼は威力に押されて吹き飛んだ。着物の一部が破れ千切れ強く転がりやがて弱まり……口を半開きにして土埃にまみれる。

 虫が寄っていく燈彼の姿を見、梓の心は煮えたぎるように燃え上がった。

 視界が真っ白に染まる。喉から手がでそうだ。

 燈彼に駆け寄り、虫たちを引きはがして抱き起こすと燈彼は目をぱちりと開けた。

 刹那の安堵と激しい怒りに梓の顔は鬼のように歪んだ。生贄少女達は血の涙を流しはじめ蜘蛛は無機質な目を増やし呼応するように獲物を見る。

 梓にはわかる。燈彼は自分を一番疎かにする。出会って数カ月の梓のためですら己を差し出すだろう。異常な献身だ。だからこそ梓には燈彼が必要だ。自分のために命を差し出してくれる存在がある。それは救いだ。そしてだからこそ燈彼は守られなければならない。

 この世の不条理からあたしが遠ざけてあげる――。

 そして燈彼が生きていけない不条理な世界を梓は許せそうにない。

 場所は移り変わり。

 右手で槍を構えるフローゼの前に巨大なギザミがいた。

 荒れ狂うライオンの鬣のような黄金の髪をフローゼは左手で撫でる。

 ギザミがいた。

 キチン質のゴツゴツとした体、人を分断するのには十分すぎる爪、てらてらと濡れそぼる体からは鼻を背けたくなるようなえぐみが生じている。

 足の先端は尖り、規則正しく動くさまは人の手のようにも、蜘蛛の足のようにも、あるべき所に腹はあらず、歪んだ模様は顔のようにも見えた。

 足を動かすと横に動き、フローゼへと迫る――振りぬかれたハサミをフローゼは屈んで避けた。

 飛び散った体表液より強烈な臭いがほとばしる。腐った魚の臭い。

 燃え上がる髪は揺れ無数に振りまかれる爪の斬撃と踊る。振り抜かれた爪バサミのあとに残る残像はフローゼの姿を二人にも三人にも見せていた。

 爪が閉じる時に生じる異音、バチリと言う音は、この鋏に挟まれたら無事では済まないことを想像させる。

 真っ赤に燃え盛る炎と化した悪魔が不敵に笑っていた。

 不浄を払う聖女等何処にも存在しない。いたのは悪魔だけだ。

「Elle était fascinée par la flame(彼女は炎に魅入られた)」

 たとえ魔女と罵られようとも、たとえこの身が穢されようとも、例え命を失ったとしても。

「Il est plus triste de mourir pour abandonner son être et vivre san foi。Je suis plus triste que de mourir jeune(あなたが何者であるかを放棄し、信念を持たず生きることは、死ぬこともよりも悲しい。若くして死ぬことよりも)」

 例え誰が見てくれなくとも。

「Je návais pas peur, je suis né dans ce but seulement(私は全く怖くない、なぜならこれをするために生まれてきたからだ)」

 例え誰も私を覚えていなくとも。

「Une vie unque,c’est notre vie……Dans une vie,c’est notre vie――(一度だけの人生、それが私たちの持つ人生すべてだ)」

 いつだって悪の犠牲になるのは善人だ。

「Je vis dans la foi et je meurs dans la foi(それを信じて私は生きていき、そして死んでゆく)」

 燈彼のように――。

「La vie est irremplaçable, et il ne s‘agit que de nous(かけがえのない人生、それが人間の持つすべてだ)」

 地面に聖者の行進を突き立てるとフローゼの体は一際燃え上がった――赤い炎を纏い、自身が炎なのか、それとも炎が自身なのか、熱を帯び、有象無象に飛び回る虫達を灰へと返していく。

 これが私の役目だ。

 炎の中におり私が炎なのだ。

 這い上がってくる。足元から。地獄の業火に焼かれた者たちが憎しみの炎に身を焦がす者たちが。彼らを悪魔と呼ぶだろうか。彼らを穢れと呼ぶだろうか。彼らを不浄の者だと呼ぶだろうか。

「私、カニは好きなんです。美味しいから」

 優しげに微笑むフローゼの目は笑っていなかった。

 構えた聖者の行進は異端者を焼くため真っ赤に濁る。

 駆けだした足とどてっぱらに突き立てた焼き鏝。煙と音と肉の焼けるような良い匂いにフローゼは舌なめずりをした。

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