第15話 

 引っ張られて、躓いて、手を床につけて――。

「あっ」

 意図せず口から洩れた言葉。

 床の冷たい感触と少しばかりの植物。コンクリートの隙間から覗く雑草の感触と、体重を支えた掌の床材、タイルの跡。

「あの、大丈夫?」

 顔を上げると、キツネのお面をかぶった女の子がいた。

 右手を差し伸べられたので右手を持ち上げ掴みながらニコッと燈彼は微笑む。強い力で引き上げられて少し驚き、手を離そうと、握られた手は離れず引かれ、引いて、離れ。

 立ち上がると腰回りの土を払って四十五度のお辞儀。

 上げた顔。

「あなた……」

 女の子の左手が左頬に伸び、右手で触らせないようにと燈彼は手をのける。この傷を触られるのに問題は無いけれどできるなら触らない方がいい。綺麗じゃないことを自分でも少しだけ理解しているから。

 燈彼は撥ね除けられたけられた事に驚き、若干の不快に顔を引きつらせ、しかし自分が同じ立場だったのなら、やはり触られたくはないだろうと考えなおし表情を緩めた。

 燈彼の表情を見て、触られたくないからではなく、触れた相手に不快を与えてしまうのではないかと、そのための反射だと察する。

「ごめんなさい、不用意に触ろうとしてしまって、顔に包帯を巻いているから、びっくりしてしまって」

 言葉だけで謝ると、燈彼は目を細めて笑みを浮かべた。

 顔を見て、あの人に似ていると燈彼は思う。

 目が離せずに追ってしまう。でも髪型を見るに女の子だと思いなおす。あの人は男の人。

 もう一度のお辞儀、愛想を浮かべながら燈彼が去ろうとする――。

「あっあのっ待って」

 思わず燈彼は呼び止めてしまった、思わず呼び止めてしまって、しまったと思う。気まずくてどうしようかと思う。

「あっあの、少し、話さない? 何か、買ってあげるし」

 何か買ってあげるしってなんだと自分でも思う。

 連れがいるかもしれない。それにしても浴衣が似合っている。

 あの人の姿が重なって、初めて祭りに来た時を思い出す。

 筆舌に尽くしがたく、心に引きずられてしまう。

 燈彼は首を傾げた。

「べっ別に変な人じゃないよ。あっほらっほらっ」

 かぶっていた仮面を少しずらして表情を見せる。

 別に構わない。燈彼はにこっと笑い、それを見て安堵の息をつき燈彼は手を差し出した。

 差し出された手になんとなく手を差し出すと燈彼は手を握って歩き出した。

 今会ったばかりの女の子に手を出して繋いでいるのはどういう状況だとも思い、燈彼を見ると、燈彼は嫌そうにはしておらず、にこっと笑みを浮かべてすらいた。

 別に大丈夫よねと、間を持たせるために露店を見回し、おでんの屋台を見つけて、足を運ぶ――いくつかのおでんを買ったらベンチを探し、見渡して席についた。

 隣に座った燈彼に、そっと紙コップに入ったおでんを渡すと、燈彼は紙コップを受け取り、おでんの串を指で摘まんで口に運んだ。

 さきほど食べたおでんとは違う屋台のおでんらしく、出汁の味は薄く酸味がある。隠し味は梅干し。

「ふぐっ……」

 辛子をつけすぎて呻く燈彼を見て、燈彼は懐からハンカチを取り出し渡し、燈彼はえずきながらハンカチを口に当て鼻を摘まんだ。

 燈彼はこんにゃくの串を摘まんで口に運び美味しいと思う。こんにゃくは好き。こんにゃくまんなん。まんなんなん。

 燈彼は辛子を我慢しながら何か気の利いたセリフを喋りたいのに上手に思いつかず、鼻をつまんで耐える。

 あぁ、どうしよう。綺麗なハンカチなのに汚しちゃった。

「ごめん。こんにゃく、じゃなくてハンカチ、汚してしまって」

 燈彼は首を振り、食べかけのコンニャクをそっと差し出す。

 食べていいのと、おそるおそる口を付け。

「こんにゃく美味しい……あの時のまま」

 こんにゃくを口にし燈彼はそう呟いた。あの時のことばかり思い出すのにそれは苦くて苦しい。シュウ酸カルシウムが喉に刺さるよう。

 次いで知らない女の子を勝手に連れてきてしまったと改めて思い声をかける。

「あっ……あの、ごめんね、強引に連れてきちゃったけれど、大丈夫だった?」

 燈彼はおでんを摘まみながらにこっと笑みを浮かべた。

 肯定と取ると共に言葉が話せないのかなと思う。

 かつて自分が患っていた病気と重なり慈しみも生まれてくる。

 なんだか頬がにやけてきて、燈彼はそれに気づいて顔を背けた。

 口元を引き締めて、燈彼に話しかける。

「ねぇ、何が好き? リンゴ飴、好き?」

 燈彼に聞かれて、燈彼はコクリと頷く。

 なんで私、こんなに嬉しいのだろうと、また手を繋いではダメだろうかと、触れたいと思ってしまう。おでんを食べ終わると立ち上がり燈彼はまた手を差し伸べる。

 拒否されたらと思う反面、拒否されないだろうとも思う。

 燈彼は顔を傾けて右手を差し出し、燈彼はその手を握ると引っ張り、燈彼の手を引いて露店を見て回った。

 提灯の明かりは朧げに、まるで愛しい人たちの面影が幾重にも重なり微睡むように、炎は影を帯びてゆらりゆらり、ざわめくのは子達の声、健やかなる命を、健やかなる時を、願い願いて続く営みを、この国の安寧を、そしていつまでも続きますようにと。

 明るい声色に、踊る影は陽気を帯びて、燃ゆる炎は赤々と、野咲く鬼灯の影と添えられた遅咲きのアジサイ、青と紫の花びら、泳ぐ金魚の刺繍も混ざる。

 タコ焼きを一つ買い二人で分け合い食べる。

 程よく冷めており、ぶつ切りの大きなタコの触感に目元も緩む。

 当たりと称されるタコの代わりに入っていたホタテの貝柱にも、なるほどこれは合うと舌鼓を打つ。

 言葉を介さなくとも仕草や包帯に覆われていない右目を見るだけでいい。

 耳にかかった黒髪をなぞると、掃除の行き届いた耳が顔を出し、さらさらとした黒髪、日本人形に北欧の血を一滴だけ垂らしたような……彼を思い出して、彼と違うことに緩み、かまいたくもなる。

 ダリアの花が浮かべられた桶の中を泳ぐ金魚、金魚すくいをしても、全然取れなくて、でもそれが楽しい。

 かき氷を食べ、色の変わったお互いの舌を見せあい笑う。青と赤、黄色と青。

 わたあめを買ってふわふわふわふわ、蒸し暑さの和らいだ夜を彩って。

 水ヨーヨーを振りながら、振り返った矢先だった――燈彼の手を掴む女の子、誰と燈彼は燈彼の手を掴んだ女の子を見る。

 黒髪を丁寧に結った女の子が、燈彼を見て、怒ったような不安のような切ないようなそんな顔をしていた。

 強張った目元、無意識に奥歯を強く噛み小刻みに震える唇、夏乃子は怒っていた。

 怒りがとめどなく押し寄せて理性を押し流す。

 待っててって言ったのにと。心配したのだ。本当に心配した。

 見つけた安堵と楽しそうな様子に、私がこんなにも心配したのにと素直に怒りを浮かんでくる。嬉しそうにしている燈彼を見ていると我慢できなかった。

 持っていた巾着で燈彼を何度も柔らかく叩く。叩かれても首を傾げる燈彼の様子にため息と、何もなくてよかったと改めて思う。

 怒っても無駄だ。燈彼には伝わらない。夏乃子は思い切り息を吐き、燈彼の手を強く握って胸元へ引き寄せた。

「あっあのっ」

 保護者かなと燈彼は思い駆け寄ろうと、夏乃子は仮面をかぶる燈彼を見て手を前にかかざした。広げた掌には拒絶の意が組まれており察して燈彼は止まってしまう。

 夏乃子は燈彼に対して深々とお辞儀をすると燈彼の手を引いて歩き出す。

「あっまっまって‼」

 連絡先を聞きたいと後を――。

「ねぇ、あれ、明日ライブやるっていうブレイブファイアの燈射手じゃない?」

 行く手を遮られて、燈彼は追いかけられずに止まってしまった。

 仮面の隙間から見える燈彼の白髪が、引く手のように靡いて。

「燈射手さんでしょ? ファンなんです‼ サインください‼」

「ごめんなさい、それどころじゃ」

「えっ⁉ ブレイブファイアの⁉」

 わらわらと集まってきた人込みに目を移し、再び燈彼を見る頃には燈彼の姿は何処にもなく落胆するしかなかった。

 周りのファンを眺め、認知度が上がったなとも思い、素直に嬉しいとも思う。

 けれど、もう、会えないのだろうなと、脳裏に燈彼の顔を思い浮かべ、落胆する顔を隠すようにファンに笑顔を浮かべた。名前ぐらい聞いておけばよかった。

 ブレイブファイアというのは燈彼の所属するアイドルユニット名、正直燈彼もダサいとは思うものの、わかりやすく覚えやすいものをと決められたものだ。

 また最近の流行を模して、各々の名前もファンタジー風に着色されている。

 燈彼なら、燈射手(ひいて)、弓を操る後衛、他に刀魔(刀を使う前衛)と、シスター(回復職)がいる。

 いるわけないかと、かつての思い人を思い、胸の内にある傷をまるで愛おしものであるかのように、今すぐにでも爪でかきむしってやりたいとも思う。


 まだ覚えている。まだ、覚えている。


 戻った燈彼を見て梓とフローゼは安堵の息を吐いた。

 ベンチに座り、呪いを行使していた梓は若干の疲れを見せた。

 あまりに見つからなかったので最終手段で少女達を使い探し見つけた。

「燈彼、ちょっと来な」

 梓は燈彼をベンチに座るよう手招きし、フローゼと夏乃子は珍しく梓が燈彼に怒るものだと思った。しかし燈彼がベンチに腰を下ろすと、ころりと梓は燈彼のモモに頭を乗せる。

「Oh……それ羨ましいです。私もしたいです」

「燈彼のために能力を使って疲れたのよ。だからこれは私の正当な権利よ」

 何言ってんだこいつと夏乃子は思ったが、燈彼が見つかったことに安堵し、それ以上は何も言わずしなかった。本当に心配した。心の底から心配した。こんなに心配したことなんてない。

 座っていると三人は案外男に声をかけられる事が多く、一緒に露店を見回らないかと誘われる。なぜお前たちと一緒に露店を見て回らなければならないのか、夏乃子にはほとほと不思議だった。スマホをいじるのすら面倒だと一瞥すると男たちは存外にしつこく、言葉を話さない夏乃子の代わりに梓やフローゼが断りを入れた。

 特にフローゼの人気は高く、フローゼの前ではみな盛りのついた犬のようになるので梓は見ていて楽しかった。

 暑い空気に程よい風が吹く。

 夏なのだという実感と祭りの音楽は四人にとって居心地の良いものだった。

 地上の明かりはあまりに明るく、夜だというのに空の雲まで朱に染める。

「みなさん、Hotdog食べましょう‼」

「はぁ? ホットドッグなんて祭りで売ってるわけ……」

「ありますよ‼ 四つ買ってきます‼」

「フローゼ、あんたねぇ」

「リンゴ飴もわたあめも、ニャメリカが発祥の食べ物なのですよ」

「あら、そうだったの」

「ちなみに、ホットドッグはニャイツ発祥と言われています」

「ニャメリカじゃないのね」

「Yes。最初はダックスフンドだったそうですよ」

「フローゼ、記憶を思い出したの? ダックスフンドってあんた……」

「Non、Non、ただそういう知識だけはあるみたいです。記憶は戻っていません。なんですか⁉ その可哀そうな子を見るような目は⁉ だってダックスフンドなんですよ‼」

「はいはい、わかったわよ」

『ニャイツから移民としてニャメリカに渡ったニャイツ人が、温めたフランクフルトを渡す際にパンに挟んだというのが始まり、ニャメリカ発祥だわ』

「What‘s⁉」

「今は何でも調べれば答えがわかって便利よね」

「うぅぅぅ‼ うぅぅぅぅう‼ 燈彼‼ 私、とても恥ずかしいです‼ 辱められました‼」

 フローゼは燈彼に泣きつき、燈彼はそんなフローゼの頭を撫でる、ちょっと羨ましいと梓は思い自分も撫でるよう手を誘導する。まるで二匹の犬だなと、そんな感想を夏乃子は浮かべ微笑ましく夏乃子は燈彼を眺めていた。

 どうなるかと思ったけれど息抜きにはなったかなと夏乃子は思う。

 フローゼの買ってきたホットドッグを食べ、燈彼もホットドックに噛みつく。マスタードが頬につき、夏乃子は頬のマスタードを指ですくい舐め、かわいいと微笑んだ。

「もう祭も終わりね」

「また来ればいいです‼」

 ラストはチョコレート。

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