第14話


 目を閉じると誰もいない。祭り会場に向かう電車の中、着物を着た人達、楽しそうに嬉しそうに目元を緩めて、これからの期待に胸が膨らむ。そっと手を繋いで、人差し指の表面が彼の手の平をなぞる。向かい合う距離は近く、貴方を見てそれる。

 小さな騒ぎ声、何をしようか、どれをしようか。クジをしようか、型抜きをしようか。

 そんな人たちの姿が不意に消える。

 うっすらと面影だけを残して。

 代わりに浮かんできた人々は微睡んで窓の外からはまばゆいばかりの黄昏が入り込んでいた。

 ドアを開けて入ってきた乗務員は周りを見渡すと燈彼の顔を見てため息をついた。

「……やれやれ、こんばんは」

 ため息をつき、乗務員は困ったなと苦笑いを浮かべたあと、ぼんやりとする燈彼の肩を叩いた。しかしその笑みはしょうがないと心を緩ませるような優しい笑みでもあった。

「君は迷い人だね? どうしてここにいるのかな?」

 首を傾げて見上げると駅員さんに顔はなかった。

「ん? ここかい? ここはさよならのあとだよ」

 そうなんだ。電車の中なのに不思議。そう思うとなぜだか駅員さんがまた少し笑ったように思えた。優しさを見るような愛おしさを見るような。

「いろいろなところにあるんだ。時代が変わっても、どこにいても、正しき者は必ず迎えにいく。車でも電車でも。飛行機でも何処にいても必ず迎えにいく。それがぼくらの役目だからね。でも、君はまだ生きているだろう? ここに来てはいけないよ」

 カバンの中から改札鋏(かいさつきょう、かいさつばさみ)と乗車券を出して、乗車券にチケッターを押し改札狭できり鋏こんをつける。

「君を見ていると、娘を思い出す――夏祭りか、もうそんな時期なんだね。楽しんでくるといい。さぁ、これをもって」

 乗車券を渡されて手が目を覆ってくる。気が付くとまた賑やかな電車の中にいて、手には乗車券が握られていた。

 見上げると夏乃子。今日はお客さんが多いので燈彼だけが席についていた。頬に手の甲、視線を向けると梓。頬を指の隙間で軽くつねられる。そんな梓に密着しているフローゼも燈彼と目が合うと手を軽く振り笑顔を向けてきた。

 頭を撫でられている。夏乃子が燈彼の頭を撫でていた。夏乃子は優しいと燈彼は思う。目元が緩むさまが綺麗だと思う。

 今日はお祭りなのでみな浴衣を着用していた。

 黒を基調とし、濃い赤で描かれた金魚模様、髪も結ってあり、仰ぐ内輪が良く似合う夏乃子。

 クリーム色の浴衣、薄オレンジ色の金魚は優雅に泳ぐ、髪との色合いと白い肌の落ち着いたフローゼ。

 梓のピンク色の着物、やはり金魚模様。描かれているのは鉄魚だった。

 揺られる電車の中――燈彼はなぜだか切なくて涙がぽろりと一筋頬を流れた。

「どうしたの? 燈彼」

 驚いた梓の瞳と、心配そうに燈彼の顔を覗く夏乃子。夏乃子の指が伸びて来て、涙をそっとすくってくれる。

 燈彼は首を振り、大丈夫と笑顔を浮かべた。人懐っこい笑顔に夏乃子の胸が高鳴り、唇が少し震えた。

 停車した電車を降り構内を歩く。改札をでると祭囃子が聞こえてくる。大勢の人の波と昔ながらの屋台の形、イカ焼きに焼きとうもろこしの匂いに引き寄せられて、ざわめきと薄明かりの開放感、空をうごめく巨大な竜のような塊に三人はぎょっとした。

 普通の人には見えないのだろうなと夏乃子と梓は顔を見合わせる。

 ちらほらと人ではない何かが混じっている。

 知っている顔、知らない顔、みな祭りを楽しんでいた。

 奥の細道を利用して到着した、何処か見知らぬ街の中。

 静かになってしまった街の商店街も今日ばかりは昔を懐かしむように彩られる。

「What‘s wrong? どうかしたですか? お二人とも」

「……なんでもないわ、意外と、いえ、まぁ楽しみましょうか」

 そうねと夏乃子は頷いた。

「今夜は楽しみましょう。Let‘s enjoyでーす」

「あんたは気楽でいいわね」

 私たちだって空っぽみたいなものでしょうと夏乃子は梓を見て梓は渋い顔をした。

 まずは何をしようかと手前の屋台から物色していく。やっぱり焼きそばかしらと夏乃子は燈彼に目配せし少し離れるわねと焼きそばの屋台を探しにいく。梓は手前の屋台でおでんをいくつか買い、紙コップに盛られた二つのおでんの片方を燈彼に差し出した。

 辛子をたっぷりとつけフローゼと半分子にして食べる。

「Oh‼ ho‼ I like exciting‼ これはう~んとってもエキサイティングです。ふがっうがっはなおう‼ あうち‼ はふはふ‼」

「鼻をつまむと和らぐわよ、あっつ‼ やっぱ祭りと言えばおでんよねぇ」

「くぅ~涙が止まりません。これ⁉ これなんですか⁉」

「こんにゃくよ」

「わお……‼ まだまだ未知の食べ物があるのですね‼」

 不意に燈彼の目に、キツネのお面をつけた女の子が映った。

 人込みの隙間から燈彼に向けて手を振っている。招いている。夏乃子かなと燈彼は思い、焼きそばを四つも買ったら動けないとも、燈彼は小走りで駆け二人はその様子に気付かなかった。

 招かれた女の子に燈彼は近づく。手を出され、その手をとり見上げ、夏乃子――ではないと気づく。誰と首を傾げて、手は握られており離せない。サルのお面、さきほどまではキツネのお面だったはず。

 引いて、躓いて、手を床につけて――。

「あっ」

 見上げると――。


 放課後、傾いた太陽と、楽しそうな笑い声、走るのは好き。どこまでもいけそうだから。ざわざわざわざわと風と音が背中を押してくれる。

 何から逃げているのかもわからずに――学校の屋上前、数人と座って、くすくすと笑いながら鬼が来るのを待っていた。

 夕焼けの色、階段を照らして目が眩み、手で作る影と、夕焼けを背にして彼女はやってくる。

 彼女がやってくるとみんな蜘蛛の子を散らすように笑顔で逃げてゆく。彼女は波に飲まれ押されて倒れ、みんな笑っていた。みんな笑って楽しそうだった。

 ぼくも笑っていた。走るのは一等好き。何処までもいける気がするから。お母さんが教えてくれる。何処までもいけるって手を引いてくれたから。

 でもその日は少し違っていた――倒れた子は……。

 立ち上がり声も出さずに、ただ顔を押えて嗚咽も漏らさず泣いていた。

 それを見てぼくは走れなくなった。

 家に帰れば終わりの遊び。みんなの楽しい遊びであるはずだった。そのみんなの中に、ぼくも含まれていた。

 あの子にとって、これは苦痛の遊び。それでも追いかけるのは。

 ぼくがそうであったなら、きっと追いかけるだろうなとも思った。

 ぼくは笑えなかった。

 次の日、鬼ごっこをしていた仲間にやめようと言った。言ったけれど、やめてはくれなくて逆に不機嫌な顔をされて、何言っているんだこいつって笑われて、責められて泣いてしまった。

 あの子は泣いているのに、それが理由じゃダメなのと思うのに、声が震えて、泣いてしまって、どうしてぼくがこんな目にって言えなかった。言えなかったんだ。それが悔しくて、悔しくて、上手に喋れなくて弱虫で情けなくて。

 ぼくでは止められないなら他の人にお願いすればいい。先生に言えばいいと、ぼくは先生に鬼ごっこをやめてもらうようお願いした。

 次の日、朝のホームルームで話があって、鬼ごっこの件、彼女の件が議題にあげられた。

 これで終わると思いほっとしていたけれど、誰にもばらさないという事で参加した人、内容を知っている人を紙に書くようにと言われた。

 ぼくはその日、先生にひどく怒られた。

 あの子の痛みを貴方も知りなさい。人の気持ちを考えなさいと強く言われ、親も呼び出されて大きな問題になった。

 紙に、いじめの発端はぼくだと、いじめをしていたのはぼくだと多数記載されていたから。

 先生にちくった罰だと……言われた。

 鬼ごっこに参加していたのも事実。ぼくには何も言えなかった。厳重注意の末、クラスは分けられ接近禁止を言い渡された。

 遠くから眺めることしかできないし、一言、謝りたかったけれど、いじめの主犯はぼく。そんな人が近づいても困る、よね。

 母はぼくがイジメなどしないと猛抗議したけれど、ぼくは母にお願いして退いてもらった。これで終わりなら、これでいいと思ったから。先生も何かを察してくれたのか、それ以上の追求はなかった。

 鬼ごっこは終わり。ぼく一人のせいになり。それで終わり。

 参加していたのは事実だから……。

 母は少し怒っていたけれど、いじめはしてないのねと再三聞いてきて、鬼ごっこに参加をしていたとだけだと言った。

 どうして鬼ごっこに参加していたのと怒られて、ごめんなさいと謝って、他意はないのねと聞かれて他意は無いと答えた。親に怒られるのを恐れていい子でいようとするぼくが顔を覗かせる。それが嫌でずるい。

 クラスでは一人ぼっちになったけれど、母は変わらずに愛してくれたし事情を知った父はぼくを怒ったりしなかった。

 ゆっくりとぼくから事情を聞いて抱きしめてくれた。

「でもね、それはお前が犠牲になっていいわけではないよ。お前に何かあったら、父さんは悲しい。それだけは忘れないでおくれ」

「お母さんもなんですけど⁉ あなたより私の方が悲しいんですけど⁉」

「えぇ……?」

 家族には愛されていた、それだけで自分は幸せだと思った。

「お兄ちゃん」

 妹もいる。同じ小学校だから妹の身の上が少し心配で、学校では妹に話しかけないよう気をつける事に。妹もそれを察してくれて、でもぼくの杞憂で妹は学校では人気者だった。

「ごめんね、夏飴」

 そう言うと妹はそれがわかっているならと結構我儘を言ってきた。

 一緒にお風呂に入るだの、寝る時は一緒に寝るのだの、それは別にいいけれど、とにかく家にいる時は一緒にいたがるのが不思議。将来は結婚するって言ってくれて、かわいいなって思う。こんなぼくにそんな言葉をかけてくれる妹の存在に救われる、

「なんて嫌な子なのかしら‼ 我が娘ながら……駄目よ‼ お兄ちゃんと結婚なんてさせないわ‼ お兄ちゃんと結婚するのはお母さんよ‼」

「この泥棒猫‼ お母さんにお兄ちゃんは渡さないんだから‼」

「そんな言葉、何処で覚えたの⁉」

「昼ドラ」

「お母さんだってお兄ちゃんと一緒に寝たいのに‼ いつもいつも独り占めして‼」

「お母さんはお父さんを抱きしめて眠ればいいじゃない‼」

「お母さんだってお兄ちゃんを抱きしめて寝たいのよ‼ もう四日も一緒に寝てないの‼ 見て、ほらっ‼ こんなに手が震えて……いますぐお兄ちゃんを摂取しないとママがどうなってもいいのね⁉」

「娘よ。たまには、お父さんと……」

「お父さんは黙ってて‼」

「えぇ……」

「さぁ、お兄ちゃん、今日はママと一緒よ」

「だめぇ‼」

「かっ母さん、さすがに恥ずかしいよ、父さん、なんとかしてよ」

「じゃあ父さんと寝ようか」

「ダメよ‼」

「ダメ‼」

「父さん⁉」

 ぼくは父さんが大好きだった。

 どんな人にも丁寧で、見上げると頭を撫でてくれて、父さんのようになりたいって、けれど母さんが言うには父さんは性格が悪いって、父さんはぼくたちの前ではいつも綺麗に振る舞っているけれど裏の顔はとても残酷でいやらしい人だって言った。

 逆に父さんは母さんの性格こそ悪いと言った。

 猫被りと言って、よく口論している。

 でもその口論をする時、二人は楽しそうにしていると思った。

 一緒にいるといつも笑顔になる。

 学校ではいつも一人だったけれど、家族がいるから一人じゃない。

 家族と一緒ならぼくは大丈夫。ぼくを信じてくれるから。ぼくを大事に思ってくれるから。愛してくれているのがわかるから。だから他人にどれだけ嫌われても、ぼくは大丈夫。

 傷はいつまでも傷のままだけれど。

 ぼくの中にも正義はあって、いつもぼくと衝突する。

 このままでいいのか、ぼくがなんとかしてあげられないのか、ぼくが……そのたびに、ぼくに諫められる。弱虫の癖にと、掴みかかられたら何もできないくせに。小物なんだから。喧嘩になったら震えて動けない。

 父にそれを話すと、父は少しだけ嬉しそうに笑み、そして悲しそうな顔をして、お前は確かに俺の子供だと言った。

 父が自分の事を俺と言ったのを聞いたのは、それが初めてで最後だった。

 遠くでいつも見ているだけ――。

 彼女の下駄箱を見て、彼女の靴が下駄箱の中にあると安堵し、今日はいると嬉しくなる。彼女の靴がないと、今日は来ない、今日はいないと気分も沈む。

 話しかけられるわけでもないのに、まるでストーカーみたいで、なるべく見ないようにと振舞い、接近禁止なのだから彼女の視界に入らぬように気を付けた。

 やがて小学校を卒業し、中学生になった。

 その頃になると接近禁止も無くなり、当時の事柄はぼんやりと薄れて、みんな記憶の中に微睡み沈んでいった。

 先生達も事情は知っているものの、あえて触れるわけでもなく、注意はするものの、いつも見ているわけでもない。

 でもぼくらと同じように、また同じことは繰り返される。

 ぼくらの代わりのように美味しい役だといじられる子は男女共にいて、その子がいなくなるとまた代わりが生まれる。

 変わったのは、もっと上手にいじめられるようになっただけ、それに対して、触れるわけにもいかず、触れたからと言って、いい顔をされるかと言えば否で、構わないでくれとか、仲間だと思われたら嫌だとか、そっち側じゃないと決別される。

 見ているだけでいいのね、見ているだけで。そう自分に責められて、でも、見ていられなくて、でも何もできなくて、止めたからといって、それでうまくいくのと、報復されたら、家族に迷惑がかかる、妹だっているのに。

 同じ中学校だけれど、彼女は学校へは来なかった。それが気がかりで。

 靴を隠されても平気。ノートに落書きされても平気。陰口を言われたって平気。それをされるのを見るより、ぼくがそうなったほうがいい。

 しばらくしてある生徒が彼女にプリントを届けるようにと言われていた。

 その生徒が面倒くさそうにして目が合うと、自分の代わりにぼくを行かせるよう先生に言った。

「お前、昔虐めてたんだろ? これくらいはしろよ。お前のせいかもしれないだろ」

 そう言って笑い、隣の、あの時一緒にいたクラスメイトがお腹を抱えて笑っていた。

 何がおかしいのかぼくにはわからなかった。

 でも愛想笑いを浮かべる――ぼくの頭に手を回してげんこつでぐりぐりと頭を擦り、楽しそうに笑う。何がそんなに楽しいのか、ぼくにはわからなかった。

 あの子もこんな気持ちだったのかな。

 先生も笑っている。ただのおふざけだと自分に信じ込ませるように。

 先生は生徒を平等に扱わなければいけない。例え加害者でも生徒。その扱いが非常に難しいのはぼくにだってわかる。先生だって人間だ。

 彼女の家は知っていた。

 幼い頃に謝ろうと思って何度か訪れた。

 けれど結局謝れないままで接近も禁止されてそのまま。家の前までくると心臓の辺りが騒ぎ出して上手に動けなくなる。しばらく止まったまま、動けなかった。

 行っていいのだろうか。誰か他の人に頼んだ方がいいのではないか。今更何を、プリント渡さなきゃダメでしょう、そうだプリント渡すためだからと理由をつけて、彼女の家のインターホンを探した。

 彼女の家は大きくて、明らかに玄関じゃない門がある。

 インターホンが見当たらなくて不審者になってないか心配にもなってくる。

 どうしようかしばらく悩んですみませんと声をかけたけれど反応はなくて、郵便受けを見てどうしたものかと悩んで、本当は彼女に会いたいと思い、会って話をしたいと思い、それを後押しする理由を探して謝りたいと謝らなければならないと扉を開けた。

 大きな古民家、植えられた植物、整えられて。

 家の人になんて言えばいいだろう。彼女が怒ったらどうしよう。ただ謝るしかないと、今度は玄関の前で止まってしまった。

 プリント、届けないとだめでしょう。謝るのでしょうと自分に言い聞かせ無理やり体を動かそうとする。指が震えてうまく動かなくて、緊張などしないでと上手に動いてと手を押さえる。

 インターホンがやっぱりなくて玄関の引き戸を叩く。乾いたガラスの音、何も返事がなくて人の気配もなくて、誰もいないのかと玄関の戸を開けてみるとすんなりと開いて。

「ごっごめんください」

 声をあげて、不審者ではないとアピールする。

 でも返事はなくて廊下の方に手が見えて、思わず息をのんだ。どうしよう、あがっていいのかな、もし何か大変なことだったらと、迷って、自分に言い聞かせて、靴を脱いで向かうと彼女が倒れていた。

 久しぶりに見た彼女は成長していて、浴衣か着物なのか、よく似合っていた。

 でもあの頃のまま、あの頃の姿が重なって、戦っていた彼女の面影に救われるような気もした。

「大丈夫?」

 間抜けなのはわかるけれど、思わずそう言ってしまった。

 意識がないなら救急車を呼ばなければいけない。意識があってもこれなら救急車を呼んだ方がいいかもしれない。

 辺りを見渡して電話を探す。

「風邪」

 彼女がそう言ったのが聞こえて、腕に触ると冷たくて、抱えると、肩で息をしていて、はだけた胸元にぎょっとして、見えないようにして、とりあえず温めないとと思い、彼女を抱えて彼女の寝室を探した。いきなり彼女が吐き出してしまった時はしまったと思い、床と服についたそれに、本当に風邪なのか心配になってくる。それは食べ物じゃなくて、黄色のドロドロとした粘体だった。

「布団は?」

 そう問いかけると、彼女は気だるそうに指をさす。そっちに行けばいいのねと空いた襖の向こうに向かうと布団が敷かれていて、彼女を寝かせた。

 上着を脱いで、何か拭く物はないかとティッシュを見つけて、処理はしたけれど臭いは残るかもしれない。吐しゃ物というよりは胃液だと思う。何も食べていなかったのかもしれない。

 これだけじゃきっと寒いと、近くの押し入れを申し訳ないと思いつつ開けて、毛布や掛布団がある事に安堵する。

 若干引っ張ったあともあって、それを引っ張り出して上から掛ける。彼女の服にも吐しゃ物が少しかかっていたけれど、さすがに脱がせるわけにはいかないので我慢してもらわないと。寝ている彼女の顔をまじまじと見て、ほっとして申し訳なくて触れて見たくて、熱を計るためと言い訳をして彼女の頬に触れた。

 冷たくて白くて、やわらかくてお餅みたいで、少し嬉しくて頬が熱くなるのを感じて、彼女が目を開けて、何か言ってほしくて、でも苦しそうにしていて何も言ってくれなくて、不安そうで、彼女が苦しそうなのに、傍にいるのが嬉しくて、ぼくは最悪な奴だと風邪薬をと思い、投げつけられた箱を見つけて薬が無いのを知った。

 少し不安だけれど、すぐ戻ってこようと薬と除菌ティッシュを買いに。

 本当はあんまり離れたくないと思っている自分に気づいて好きなのと自問自答する。

 そんな資格ないでしょうと言われて少し笑ってしまった。

 一人ではやっぱり寂しかったのだろうか。彼女が望まないなら傍にはいられないよと言い聞かせても、やっぱり震えてしまって、落ち着けよって自分にずっと言い聞かせながら買い物をした。心臓の鼓動が早くて、静まるように労わる。

 まるで意思と体が別物みたい、体を意思で労わっている。

 一度着替えに家に戻って、卵のお粥とかお味噌汁とか作ってあげたくてスーパーマーケットにも寄った。材料を買って、これを機にと思って、あんまり何かして恩着せがましいのもと思って、ありがた迷惑かもしれないとも考えて、別に自分がするだけだからいいでしょうと言い聞かせる。それは重いのではと言われて、嫌われてもいいじゃない……嫌われたいのと問われ、別に嫌われたいわけじゃないと答える。

 それから少しずつ彼女と関わっていった。

 冷静なふりをしつつ、内心ではいつも緊張していた。

 いつ謝ろういつ謝ろう。出る言葉は変なことばかりで、ぼくの事を覚えているだろうかとか、今更だとか、罪悪感と高揚感にも似た何かが、ぼくの中でゆらゆらゆらゆら、くらくらくらくら、また家に行ってもいいだろうか。また、会いに来てもいいかな……。

 謝りたいのにくらくらくらくら、謝れずにゆらゆらゆらゆら――彼女と接してから色んな自分に会う。そのどれもが好ましくて、そのどれもが疎ましい。

 こんなのぼくじゃない。感情に引きずられる自分が嫌、それを冷静に包み込み覆い隠す自分も嫌。どっちがいいのか、どっちがマシなのか冷静ではいられない自分が嫌。

 いい顔をするなよ、この偽善者め。

 嫌われないようにと発する言葉がぼくは一等嫌いだった。

 それでも、ぼくは嫌われないような言葉を発し続けた。

 嫌われて、傷つくのは誰、それはぼくだと知っていた。

 逃げたいからだろうか。ぼくは良く眠るようになった。

 彼女と一緒にいると無性に眠くなる。

 でもそれは心地良くて抗いがたくて、どうしてこんなに眠いのと、でも、眠っている時は彼女の傍で眠っている時は少し楽だった。

 夢を見る。よく夢を見る……。

 水面の上にいる。水面の上にいて、黒い波が足元で遊んでいるのを眺めていた。

 這い上がってきて、冷たいと感じるのに、実際に冷たいのかどうか。

「なにしてるの?」

 そう聞かれて振り向くと、何時も女の子がいた。

 その女の子はぼくにとって会いたくない存在で、会いたくないのを必死に隠して笑顔を見せる。どうして会いたくないのと聞かれたら、ぼくが一番見たくないものだからと答えるしかない。

「ううん、なにも、君は何しているの?」

「ううん、な~にも」

 傍にはいつも、仮面をかぶった数人の女性がいる。

 みんな質素な布を纏っていて、顔にはお面をつけていた。

 動物とかそう言うものじゃなくて、人の顔を模しているのに、顎が長かったり、目の形が歪だったり、なんというか……そして体の一部が腐敗している。

 腐敗した個所は醜いと言うより何処か痛々しかった。

 どうしてこんなに鮮やかな夢なのだろう、どうしてこんなに……。

 どうして目を背けたいのかわかっている。

 ぼくにはこの腐敗を治せない。どうにでもできない。同情しかできない。それはあの子にも同じ事、あの子ってどの子、夢の中で困惑して、迷って、結局何もできなくて、その腐敗した肌だけが妙にリアルで、目を背けるなんてダメだと思うのに、目を背けてしまう自分がいる。目を背けないで、目を背けないでと思うのに、背けてしまう。

 起きたらいつも泣いている、あの子の傍にいてあげたい。いてあげたいのに、あの子って誰と思いながら、あの子を思い出す。

 誰かを思い出すのに、思い出すのはあの子、包帯を巻いたあの子。

 夜はいつもあの子と遊んでいる。あの子の傍にいる。どうしてここに来るの、どうしてここに来られるのと良く聞かれる。

 どうしてだろう、仮面をかぶった女の人たちは、いつもじっとぼくを見ている。

 仮面越しでもよくわかる。その姿は、母が、ぼくを見る目に良く似ていた。

 女の子は体の半分がいつも痛んでいた。それを見るたびに涙がこぼれそうになる。世界には、ぼくが知らないだけで、悲しい目にあっている人達が沢山いる。

 それを止められないのが、それを知っていながら何もできない事が。所詮は偽善だとわかっているのに、それが悲しくてどうしようもない。

 ぼくには何もできない。できないのだ。

 ただ胸を痛めるだけの害悪な存在。それがぼくだった。

 彼女と親しくなるたびに、あの子とも親しくなっていく。

 仮面の女の人が一人減っていた。

 減った女の人を探して視線を巡らせると、女の子は少し悲しそうな顔をして微笑んだ。

 女の子の体は、いなくなった女の人の代わりに痛んでいた。

 周りの残った女の人たちもそう、いなくなった分だけ体の痛みが大きくなる。

 どうして……そんなのダメだと思うのに自分には止められない。

 体を痛める女の子を見ていることしかできなかった。

 あの子とあの子との姿が重なって、どうにかしてあげたいのに、ぼくにはどうにもできなかった。

 夜の海の底――そんなぼくを見て、痛む心を喜ぶように巨大な何かが蠢いていた。

 激しい恐怖に囚われて震える膝、海を突き破ろうと蠢く竜にも似て蛇にも似て毛虫にも似て、異様な多数の者どもはぼくの足元で恨めしそうにぼくを見上げていた。

「大丈夫だよ、出てこられないから、ほら、どんなにあがいても、波になって消えちゃうの、でも……ううん、なんでもない」

 波が揺らめくたびに真っ黒い憎しみがへばりつくように沸き上がって、怒りとかイライラとか憎しみとかそんな感情が沸き上がって、ふと何にその感情を抱いていたのかわからなくなる。何を憎んでいるのと自問自答してしまう。

 そしてそれらは女の子の体を痛めていた。暴れるたびにみんな苦しそうな顔をする。何かに耐えるような顔をする。その顔は知っていて、ぼくが誰かにさせたくない顔だった。

 女の子は痛いのに笑って微笑んでいた。

 笑えないよ。笑えない。どうして笑っていられるの。

 ここは何処と聞こうとして、その質問になんの意味があるのか、夢に意味などあるのだろうか。仮面をかぶった女の人が消えるたび、彼女たちの痛んでいた個所と同じ場所を、女の子も痛めてしまう。

 女の人が居なくなると女の子は少しだけ悲しそうだった。

 消える女の人は、いつも悲しそうにすがるように消えていく。

 ぼくに縋り付いて、何かを託すように願うように消えていく。

 ――これは私の代で終わらせます。これを娘には引き継がせませんという言葉。その言葉を聞いて、女の人はとても悲しそうに、なぜ、なぜと呟くように消えていった。

 ずっとここにいるのと問いかけると女の子は笑顔でうんと頷いた。

 その姿に妹の姿が重なって、痛めた体を見ると余計に胸が痛んで、泣き出しそうになってしまって、お前が泣いて何か意味はあるのと言われて、泣けもしなくて、ただの害悪で。

「私ね、お姉ちゃんがいるの」

 そうなんだ。断片的な会話で、脈絡もなく、時間があるのかすら疑わしい。

 目を背けたくて、目を背けたくなくて、意固地になって、女の子に優しくしていた。

 それが偽善だと知りながら、目を反らしたら自分が崩れてしまうような気がして。

「あなたも、ここを去るの?」

 恐る恐る手を差し出してきて、傷ついた手を見て、顔をこわばらせて隠して、綺麗な方の手だけを差し出してきて、ぼくは我慢できなくて、どうして泣いているのかもわからなくて、手を握って、女の子を抱きしめて、大丈夫、大丈夫って、何が大丈夫なのか、嘘ばかりで、目覚めると泣いていて、苦しくて苦しくて。

 夢なのに、バカみたいだよね。

 学校に行って笑っている子達を見ると憎くて憎くて。幸せの中にいるくせに、ちょっとした不幸をさも辛そうに語る人達が憎くて憎くて。でもこれは、この感情はぼくだけのもので、他人に押し付けるものじゃないって。ぼくは世界の中心でもなんでもない。所詮同じ穴のムジナである事を知っていて、どうにもできなくて、何も言えなくて笑うしかない。

 夕食前、父がぼくの頭に手を置いた。

「夏飴はニンジンや牛乳が嫌いだけれど、ニンジンを食べるまで待つのはどうしてだと思う?」

 父がぼくに問いかけてきた。

 夏飴、妹はニンジンが嫌いだ。でも母も父も、妹が食べるまで席で待つ。

 嫌がって絶対に食べないと泣いても父も母も動じない。

 食べるまで待つ。泣きながら食べ、お父さんもお母さんも大嫌いと部屋に駆け込み、慰めるのはぼくの役目。

「どうして?」

「本当はね、ニンジンを食べなくともいいんだ。お兄ちゃんは好き嫌いが無いから、何時かそんな顔をすると思っていた。いつか大人になればわかるだろうけれど、例えばニンジンがお兄ちゃんの嫌いな教科だったら? もしニンジンがお兄ちゃんの嫌いな事だったら? お兄ちゃんは嫌だと言って顔を背けるのかい? やらないと言う? 子供の時はそれでもいい。でも何時か、嫌だと思ってもやらなきゃいけない事ができる。どんなに逃げたくとも、逃げられない時がある。嫌いな物を食べさせると言うのはそう言う事なんだ」

「そうなの?」

「昔からしていることで意味の無い事なんてほとんど無いよ。お兄ちゃんが今、何に対して怒っているのか、何に対して怒りを感じているのか父さんにはわからないけれど、これだけは忘れないでおくれ。人には人の数だけ正義がある。他人の正義を自分の正義で否定してはいけないよ。嫌なことでもしなければならない時はあるし、憤りを感じても我慢しなければならない事もある。お兄ちゃんの怒りはお兄ちゃんだけの物で、他人の物ではない」

「父さんも?」

「父さんも、だよ。虫や動物の世界は人間よりもずっと理不尽だろう? ぼくらの祖先は同じものだ。だから、ぼくらの世界も理不尽なんだ。人間は人間が思うよりも動物なんだよ」

 そう言って優しく微笑む父の目は、あの子の目に少しだけ似ていた。

 傷ついて諦めて思いなおして、また信じて、それを受けいれた目。でも父さんの瞳の奥では轟轟と怒りも燃えていた。

「お父さんも怒りに囚われているの?」

「そうだねぇ……そうかもしれない。でもそれは、お兄ちゃんとは別の事だよ」

「あなた、私のお兄ちゃんに変なこと言わないで‼」

「おーこわ」

「あなたは優しい顔をしているだけの恐ろしい人ですからね。私のかわいいスヴィトラーナに変なことを吹き込まないように」

「言いがかりはやめてよね。お兄ちゃんはお父さんと話しているのだから、邪魔しないでおくれよ」

「ふぐぐぐ‼」

「怒ってもいいんだよ。人を憎んでも。恨んでもいい。嫉妬してもいいんだ。でもね、それらを他人に処理させてはダメだよ。自分で処理するんだ。君が世界の中心だと言ってあげたいけれど、ぼくもお兄ちゃんも、そして母さんも夏飴も、この世界の有象無象に過ぎないのだから」

「あなた、いい加減なこと言わないで‼ 人を恨んではダメよ‼ 人を憎んでもだめ。嫉妬は身を亡ぼすわ」

 父さんの言いたいことも、母さんの言いたいこともなんとなくだけど、わかったような気がした。

「そういう偽善的な考え、父さんは嫌いだな。人の生きる理由は生存することだよ」

「お父さん‼ どうしてそう卑屈なの? 世界が優しくないのなら、私たちは優しくなるべきよ」

「あーやだやだ」

「なんですって⁉」

 父は夏飴がニンジンを食べたふりをして後で吐き出して捨てても何も言わない。

 上手に誤魔化せるなら怒らない。でも母は言い訳やズルを決して許さない。

「いい? お兄ちゃん、嘘をつけばその嘘を隠すためにまた嘘をつきます。ズルをすればズルをした分だけしわ寄せが来ます。言い訳をすれば言い訳をした分だけ信用を失います。お父さんの言う事はあんまり聞かないように‼」

 父さんの顔を見ると、父さんはうっすらと笑っていた。

 多分父さんにとってそれはどうでもいいのだ。臨機応変にやりなさい。上手に生きなさい。多分そう言う事なのだと思う。

 父さんは良く言う、世界は残酷だって。

 でも母は言う。世界は残酷だから残酷にならぬよう生きなさいって。世界が残酷なのなら、私たちが優しくなればいいと言う。

「わかったよ、母さん」

「わかってくれたのにね、さすがは私のスヴィトラーナ。お父さんよりもお母さんが好きなのね」

「それはどうかな」

「お父さんなんか大嫌い‼」

「うぅう、でもぼくは大好きだよ」

「そういうところが倍嫌い‼」

 茶化すような父の様子と怒る母、喧嘩をしているようでも慈しむような間があった。

 母が父にすがり泣き、それでも私を助けてくれたじゃないと言っていたことがある。

 父はいつも怒りを内に秘めながら悲しい顔をしていた。

 母には弟がいたらしい。でも弟さんは死んじゃったんだって。母の目も悲しい目をしていて、それでも生きていくって顔をしていた。

 家は質素だし、ご飯も、父は服を数枚しかもっていないし母もそう。車もぼろい。いい時計もいい靴もない。必要最低限、でもお金が無いわけじゃないし、父も母も、それをぼくらに強要したりはしない。

 ぼくは父の子で良かったと思う。母の子で良かった。なんて幸せなのだろう。これ以上は何も望むまいと、そうとすら思ってしまう。家族を愛している。

 ぼくが愛されているその分だけ、あの子に尽くしてあげたいとも思う。

 思っても、やはり何もできないのだろうなとも思う。

「どこにも行かない?」

「一緒にいて」

「もう行っちゃうの?」

 ずっと一緒にいてあげられない。夢の中でしか一緒にいられない。それでも一緒にいてあげたいと、あの子なのか、この子なのか、誰を見ているのか、ぼくにはもう。

「私ね、本当はもっときれいなんだよ、昔はもっといっぱいいたの、いっぱいいたから、私もこんなんじゃなくてね」

 自らを醜いと必死に取り繕う少女、長い年月は旋律すら歪めてしまう。覚悟をもち望んだ結果とその先――次に会うたび、次に会うたびに、少女の心は揺さぶられていて、それを行っている波の下の者どもに激しい怒りを覚える。

 思い通りになどさせるものか、思い通りになどさせるものか、夢の中で何を……負けるものか、負けるものかと思っているぼくを、波の下の者たちは楽しそうに眺めていた。

 それでも傷つくのはぼくじゃなくて少女だった。それが堪らなく辛くて堪らなく悲しい。

(ならお前が代わるか?)

「聞いちゃだめ」

(ならお前が、代わるか?)

「聞いちゃダメ‼」

 次の日目が覚めると、体が……母に見つかるとすぐに病院へ連れていかれた。

 けれど結果は原因不明だった。

 また夢を見る。夢を見るごとに痛みが広がっていく。

 痛みが広がるたびに彼女たちの記憶を見る。

 ぼくの体が痛むたびに彼女の体は治っていく。

 彼女の体が治るたびに、ぼくの体は痛んでいく。

 それを伝えていいものか、伝えるべきではないのだろうなと。

 父が亡くなった……ハンドルを切り損ねた車に引かれ、ガードレールと車に挟まれて、見るに堪えなかった。

 どうして見るに堪えなかったって、ぼくは、傍にいたから。

 あの子が泣いている。ぼくを見て泣いている。ぼくは……。

 心がえずくのを感じる。

 次第に広がっていく痛みを見た他人が、ぼくを化け物だと言った。

 あの子はこんな気持ちだったのだろうか。あの子は……母が顔を歪め、他人に対して怒っていた。いい。怒らなくて。ごめんねお母さん。

 知っているつもりになって何も知らなかった。

 何も知らなかった。何も知らなくて馬鹿だった。馬鹿だったんだ。ぼくは。

 ごめんね母さん。ごめんね。父の死が、あまりにも……母に申し訳が立たず、妹に申し訳がたたず、涙の流れぬ瞳が申し訳なく、何もできないのに口先だけが、気持ちだけは一丁前で。

 小さな葬式だった、父に知り合いは少ししかおらず、親戚もいなかった。

 小さい頃、親に捨てられて児童養護施設で育ったことを初めて知った。

 母はそれを知っていた。

 父の棺桶の前で男泣きする青年がいた。

 母より泣いたのではないかと思うくらいに棺桶を叩いて悔やんでいた。

 刑事さんなんだって、父さんとは親友なんだって、父さんは――。

 痛みが強まるたびに彼女はみんなに好かれていく。

 みんなに囲まれていく。それを嫌だと思ってしまう自分がいて、それがたまらなく嫌で、顔に現れる前に別れを告げなきゃ。

 なかなか諦めてくれなくて、それが嬉しくて悲しくて、水をかけて、冷たい言葉を投げて、周りの人たちが彼女をかばって、殴られて、血の味がして、よくわからなくて。

 母が、妹を、連れていってしまった――どれだけ願ってももう帰って来てはくれない。

 みんな、ぼくを汚いと言う。

 ぼくを醜いと言う。

 ごめんね、ごめんねと謝り続けても、かえってこないものは帰ってこない。

 やがて全身を覆う呪いに囚われて、最後に彼女が会いにきた。

 ひどい罵声を浴びて、最低とののしられて、頬を叩かれて、ひどく痛くて、ひどく痛くてさ、言い返せもしなくて、背を向けた彼女を見て、顔に広がっていく呪いを見られなくて良かったと安堵した。

 かっこつけっ。

 母が幼い頃、その目の色ゆえに人身売買されていたこと等知りもしなかった。

 仕事で現地にいた父が母を助けたけれど、母の弟はその時に亡くなってしまったことなどぼくは知りもしなかった。

 父が悪をどうしようもなく憎んでいたこと。

 母が自分のせいで父が憎しみに染まってしまったのではないかと悩んでいたこと。

 母の弟が父を庇って亡くなってしまったこと。

 ぼくが、ぼくが選んだことでさ、みんな死んじゃった。

 みんな死んじゃったよ。

 父も、母も、そして、妹も。

 ぼくが選んだことで、無くなってしまった。

 ぼくが選んだんだ。ぼくが。

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