第12話
青い蒼い――障子の向こう側もそしてこちら側も。
冬は好き。青よりずっと好き。白くなる息が好き。汗をかきにくいから好き。包帯がにじまないから好き。本当に好きかと問われると困ってしまうところが好き。
逆に夏は嫌い。暑いから嫌い。虫が嫌い。なによりも汗をかくのが嫌い。本当に嫌いなのと問われると、それほどでもないと答えてしまうところが嫌い。
冬は寒いし、夏はお祭りがある。
どっちもどっちで、どっちも捨てがたい。
彼女は体温よりも低い冷めた空気の中に横たわっていた。
浴衣から伸びる白くほっそりとした足、左足は包帯に覆われて見えない。
まるでガラス細工のような白い右足は、少しの衝撃で壊れてしまいそうな様相をしていた。おでこから左頬、顎からその下を覆うように貼られた白い包帯は少し汚れて滲み、伸びる髪はさらさらと布団の上に広がっている。
ブルーモーメント――本当は水の中にいる。
ずっとこの色ならいいのに。ずっとこのままならいいのに。ずっと、ずっとこのままならいいのにと少女は右腕を上げておでこへ当てた。
夏に着るように作られた浴衣には銀糸で縫われた蝶が一匹。
まるで海の底から地上を眺めているかのように留まって、やがて青は淡いオレンジへと変化していく。
また朝――朝になんてなってほしくないのに、朝が来てほしくないのに、朝は必ず来てしまい、朝だと簡単な感想を思い浮かべてしまう。左頬に触れ、学校へ行く支度をしなきゃとため息が出て、でももうここ一年ほど学校へは行っていない事実が突き付けられる。
立ち上がり、よたよたと姿鏡の前に立つ。相変わらずの顔、相変わらずの包帯、鏡を見るのは好きじゃないけれど、見ずにはいられない。
治っているわけないよねと包帯をはぎ取ろうとし、左頬から鈍くて鋭い痛みが刺して剥ぐのをやめた。
燈彼は子供の頃に病気になった。母親と同じ病(やまい)だ。きっと遺伝的なものなのだろうと言われ、お医者さんには何か難しい単語のようなものを並べられた。
何も答えないでいると知能指数が低いのですかと問われた。
そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
母は歩くのすら困難だったけれど、私を愛してくれたと燈彼は思う。いとおしそうに撫でてくれた。愛おしそうに愛おしそうに撫でてくれた。
その眼差し、あの眼差しだけを思い出して、少しだけ幸せに浸る。
父親はいる。いるけれどいるだけ。いるもいないも同じ。母が亡くなり、いよいよ燈彼はこの屋敷に一人で住むことになった。
たまに父親に雇われた家政婦が来て、掃除や生存確認はするけれど、ただそれだけで、家政婦も燈彼にかかわろうとはしてくれない。
「クシュ」
不意にクシャミが出て燈彼は唇を押えた。おかしい。ふらふらする。頭が重くてぼんやりする。妙に寒くて震えてしまう。
「え、どうして?」
なんて一人で呟いてみたりする。会話をするのが自分しかいない。自分と会話するなんて恥ずかしくて他人には言えそうにない。
母親がいなくなり寂しさのあまり自分で作った自分という名の他人と会話している。その自分と会話するのが子供の頃からの癖で、それがおかしいと理解してはいるものの今でも自分に話かけてしまう。
寂しい。誰かに傍にいて欲しい。でもそれは叶わない。だから自分の中にその願望を叶える誰かを作る。
「風邪? かな?」
自問自答し、それなら――。
「今日は、学校にいけないね」
中学校は義務教育だからと父親に言われて通ってはいる。けれど父親が気にしているのは世間体だけで、私の心配ではないと燈彼は感じていた。
こうして学校へ行かなくても誰も気にしない。それが少し寂しくて悲しい。嬉しくて切ない。半分憂鬱で半分嬉しい。憂鬱なのはいよいよ他人と関わるチャンスを失ったから、嬉しいのは他人に嫌な目で見られたり、からかわれたりしないで済むから。
学校でも一人だけれど、ざわめきの中にいると寂しさもまぎれる。
通学路は辛い。電車もバスも私には優しくないと燈彼は思う。
「今日も、ずっと、一人」
学校へ連絡などしない、連絡しなくとも行かなければ欠席扱いにしてくれる。教師も慣れたもので、燈彼の体、具合の悪いのを理解しているし、そもそもこの家には電話もテレビもない。ほどほどにぬるま湯でほどほどに冷たい。
「少し、横になれば、大丈夫、だよね」
何時まで、何時まで続く。
その先は言いたくないし答えもわかっている。
何時になれば楽になれる。
その先も考えたくないし答えもわかっている。
その問いに苦笑いしてしまう。
お昼を過ぎて目を覚ましても体調は改善されていなかった。
本格的に風邪をこじらせて浴衣一枚で寝ていたことを後悔する。後悔したところで後の祭りであることはわかっている。未来を想像して回避できる現象をまるでそれが運命であるかのように回避できていない。
「馬鹿なんだから……」
つまり過去に何度も同じような経験をしているのに学習できていないと言う事。
鼻水、頭痛、節々の痛み、寒い、寒気だけでもどうにかしようと布団を出そうと立ち上がり、眩暈、視界の揺れ、立ち眩みに襲われて呼吸も荒く息が苦しい。
毛布を押し入れから引っ張り出そうとし、引っ張っても取れないイラつきに押し入れに積まれた布団の束を叩くように寄りかかる。布団のにおいを嗅いで気持ち悪くなり、毛布を引っ張り出すのをあきらめ、風邪薬を探そうと彷徨い棚を開け、薬箱を見つけて風邪薬の包装シートを取り出すけれど、シートの中の錠剤はすでに消費されており。
「うぅううう」
唸り声をあげ、箱を地面に投げる。
「うぅうううう‼ うぅ‼ うぅ‼」
腕を振るわせ威嚇してもどうしようもないのはわかっているけれど、怒りと朦朧とした意識からそのような振る舞いをしてしまう。
行動範囲は部屋と台所とお風呂とトイレだけ。それ以外の場所に何があるのか家政婦さんしか知らない。
立っている気力も無くなり、このまま眠り楽になりたいと思うのに、床は冷たくて体は震え目を閉じても頭痛は止まらない。
こみ上げ喉からせり上がってくる吐き気。
嘘でしょとトイレへ駆け込む。
吐くものなんてないはずなのに、胃の中から出て来たそれに本人でさえ驚いてしまう。
コンコン――と音がして、玄関の方。誰か来た、嫌、居留守使う、煩わしい、痛いと単語が脳裏をよぎる。顔を見ると露骨に動揺する他人を想像し、宅配なんかこないし新聞の勧誘は顔をひきつらせてくるので嫌になる。
「ごめんください」
再び続くノックと声、嫌、居留守使うとも、もうダメとも、倒れこみ、玄関のドアが開く音に驚く。鍵かけてなかった。失策。しかし何かを言う気力はなかった。
喉が酸っぱい。
誰かが見ていた。
もう無理――もう動けない。何もできない。
「大丈夫? どうしたの?」
ぼやけた姿が大きくなる。足音が聞こえる。
来ないでと思うのに言葉が口から出ない。
「救急車」
救急車だけはやめて。
「やめて」
喉が痛い。しゃがれた声。
「大丈夫なの?」
答えたくない。答えられない。ふり絞る。
「かぜ」
額が熱い。抱えられるのを感じる。運ばれるのを感じる。温かいけれど、揺さぶるのはやめてと、そんなに揺さぶられたら……また何度か吐いた気がする。
布団は冷たくて、どうしてこんなに冷たい中にいるのと悲しくなる。口の中が酸っぱい。苦い。お湯を差し出されて、これを飲んでと、全部胃の中に押しやって、じょじょに温かくなってきてぼんやりとしていた。
意識を失っては、誰、怖いと目を覚まし、意識を失っては他人がいるのではと目を覚ます。そんなことを何度か繰り返し、いつしかぐっすりと眠りに落ちていた。
濡れた布で顔を拭かれる感触と。
「これ、アレルギーとか、平気かな」
男の子の声。うっすらと目を開けると男の子がいた。
「気が付いた? 大丈夫? お薬、飲める?」
子供みたいな口調で聞いてくるのはやめてと思う。男の子なのに、女の子みたいな口調と声で困る。一瞬ショートカットの女の子かと思ったけれど、その顔には見覚えもあった。
「どうして?」
「どうして? 風邪なのでしょ?」
叩いてやろうかと思ったけれど燈彼にそんな度胸はなく、また久しぶりに人に会ったので何を話せばいいのか頭は真っ白になっていた。
くらくらする、くらくら、くらくら。
「アレルギーとか、ある? 市販の水だけど、大丈夫?」
布団から起き上がるとまだ眩暈がして頭も痛いと顔を歪める。体を支えようとする男の子の動作にぎょっとし、その動作を見た男の子は支えるのをやめて水と薬だけを差し出した。
人の気持ちに敏感な人――他人に対する同じ怯えを持っている人だと察する。
コクリと飲んでまた横になる。寒気はまだあった。布団をかぶると温かく熱気すら感じるほどにむわっとするのを感じた。自分が出そうとしていた毛布がかけてあり、鼻がスンッと鳴ってしまう。顔に熱がこもるのを感じてそっぽを向いた。
「大丈夫そうでよかった。……風邪? でいいんだよね? 救急車、呼んだほうがいい?」
「風邪、やめて……」
「本当に、大丈夫?」
「なにしにきたの?」
「プリント、頼まれたから」
「プリント?」
「頼まれたの、先生に」
何を言っているのだこの男はと、燈彼は顔を渋くした。
「おうちの人は?」
燈彼は首を振った。
「そっか」
今どころか普段からいない。話しかけられても頭痛で良く思考が回らない。頭が痛いのに顔が火照るのを感じる。他人がいて自分を見ていると感じる。体中が熱気を帯びてくる。
くらくらする、くらくらくらくら。
「静かにして、もう……」
そういうと男の子は頷いて部屋を出て行った――小学生の時、燈彼はいつも鬼ごっこの鬼だった。母が死んでから病気になり、それからはずっと体に包帯を巻いている。それを面白がった同級生達は燈彼を避けて触れられるのを嫌がった。
本当に心の底から嫌がっていたわけではないと今では思う。嘘。
本当に嫌だと思っていた女の子はいて、触れられるとこの世の終わりのような顔をして泣き叫んだ。嫌がる男子は触れると燈彼を殴った。
くらくらする。視界はゆらゆら揺れている。あの男の子はそんな避けていたグループで、燈彼を虐めていた中心人物とされていた男の子だった。
――でも実際は違うのを燈彼は知っている。確かに彼も周りの人と一緒に鬼ごっこと称して燈彼から逃げていた。でもそれは燈彼の包帯を嫌がっていたわけではなく、ただ周りに流されて本当に鬼ごっこをしていただけ。
元に彼は、ある日を境に鬼ごっこをやめるようにと先生に報告すらしていた。それは大事になり、いじめとして認定され、そしてなぜか中心人物にされてしまっていた。そしてそれっきりだ。
周りはますます燈彼を避けるようになり、先生も燈彼の顔を見ると顔を渋くし、他の親御さんたちも燈彼を避けるように子供たちに言った。もともと言っていたのに今更……。
男の子は厳重注意のすえ、別のクラスに移されて接触も禁止となった。
彼のせいじゃないのに――その言葉をずっと言えなかった。
それが目の前にいて、プリントを配りに来たのを笑い話ととらえて笑えばいいのか、渋い顔をすればいいのか苦い顔をすればいいのか考えてしまう。
中学生となり、その辺の事情を知らない人達が現れるのは仕方ないとも思う。
風邪薬買ってきてくれたのに、何か、ありがとうとか、お金返さなきゃとか色々頭をめぐって熱くなる。しばらくするとなぜか男の子は戻ってきた。
「なっ⁉ へぁ⁉」
襖を開けて入ってきた男の子に思わずそんな声をあげてしまう。
そんな燈彼を見て男の子は止まり、大きな目を開いて燈彼を見、首を傾げゆっくりと優しさに変わり、それが優しさであることが燈彼には染みるように痛かった。
「飲み物、汗かくから……変な意味じゃなくて」
「そっ……」
そういう問題ではないと思いつつ、ノックは大事だとも思う。そうじゃなくてと頭を振り、どうして飲み物買ってきたかって、それは気遣ってくれているわけで、また何かされるのではと勘ぐってしまい、他に仲間とか引き連れてきたりとか笑いものにされたりとかますますもって最悪だと脳裏をよぎる。
しかし仲間がいるわけでもなく、一人でビニール袋を重そうに抱えて入ってきた男の子にそっと飲み物を差し出され、女とは言え、こんな体だし、よほどやばい奴でもなければとそうも思い、私ってすごい馬鹿だと自己嫌悪にも陥る。
「ここに置いておくから、よかったら、飲んでね? いらなかったら捨ててもいいから、あんまり長居すると、迷惑かもしれないし、今日は帰るね。よかったら飲んでね」
「どっ……‼ あのっお金」
どうして、なぜ、言いかけた言葉は喉からでず、お金払う、払わなければとも思う。なぜ引き留める。寂しいのと自分に問いかけられて悲しくもなる。
「勝手にしたことだから、お金はいいよ、家に勝手にあがってごめんね。もう帰るから、ゆっくり休んでね。本当に、ごめんね」
そう言うと男の子は速足で行ってしまった。
そんなに謝らないでと、罪悪感と、思い出と。
彼じゃないと言えなかった一言。痛くて熱い。
あっけにとられ、久しぶりにあった他人に心臓はうごめいて。顔は熱くてなかなか寝付けなくて、くらくらくらくら揺れたり水を飲んだり、枕元の袋を開けるとペットボトルにチョコレートと携帯固形食糧なども入っていて、またあっけにとられて、体は嬉しいと言っていて、心が嬉しいと言っていて、気遣ってくれて嬉しいと、優しくされて嬉しいと。
でも燈彼の中の私という理性は、それらを猛烈に拒絶したいと足掻き、自分から遠ざけたいと胸を強く抑える。袋を遠ざけようとして物にそんなことをしてどうするのと思い直す。
次の日も男の子は家にやってきた。小さな土鍋と水筒を持って、中には卵のおかゆとわかめの味噌汁。なぜうちに来る。なぜ優しくする。なぜ気に留める。過去に私を虐めていたという罪悪感か、その中心人物だったという噂は本当で、逆恨みなのか、燈彼の頭の中はぐるぐるくらくらとして平常ではいられないと理性は激しく怒りも覚える。
もう会いに来ないで、ここにこないでと強く、喉から手がでるほど言い放ってやりたいのに、気にして、ここに来て、優しくして、会いに来てと、本能との葛藤に苛まれる。
怒りにも似て嬉しさにも似て理性が理性たれない。
「もう――」
来ないで。その言葉が口から出てこなかった。
玄関の縁に腰かけ、上り框の上に腰かけて、鍋を置いて、食器とスプーンまで用意してあって、水筒から注がれる味噌汁の良い匂いに。卵のお粥も味噌汁も今作ったばかりなのか、湯気があがり、燈彼はゴクリと喉を鳴らしてしまった。
「お腹、すいてない? 食べて」
動けずにいる。目があって、フイと反らしてしまって、意識していると知られて恥ずかしくて、どうすればいいのか動けずに――ただ彼の指がわずかに震えていることに気が付いて、彼も、緊張しているのだと……。
私が怖いのか――試してみたくもある。わざと、左手で、お椀を受け取った。包帯を手に重ねて、包帯越しでも温かくて、怖くなる。さぁ怖がればいい。嫌がればいいと彼を見ると、目をそらしたり、耳が少し赤かったり、嫌がったりしておらず。
「たっ食べるの、辛い?」
見上げるその仕草が、そそる――心臓がドキリと跳ねて、何考えているのと、燈彼は手を放して、差し出されたお粥と彼に狼狽する。
「そっその、食べるのがつらいなら」
差し出されたスプーン――どうしろと言うのか、燈彼は困惑してしまった。
少しだけしょっぱく、酸っぱい卵のお粥……ただおいしいとしか言えないわかめ、母がいなくなって以来の不思議な味。母の味とは全然違っていて、でも結局全部食べてしまった。
それからどんどん親しくなる。それからどんどん会いに来る。傍にいたい。傍にいたいのに、もっと傍にいたい。
心が侵食されていくような感触がひどく痛い。理性では抗い難い衝動に、ずるずるずるずると引きずられていく感触がひどく嫌。嫌だ嫌だという理性のわめきとそれでもお前を引きずってでも会うという本能。騙されている。これは罠。何の罠なのか。損得勘定と、もしかしてという強烈な期待に引きずられてしまう。
姿を見ると微笑みそうになる頬を抑えて横を向く。どんな人なのか探ろうとしている。
彼は部屋の中に入ってきた小さなハエトリグモを殺さずに部屋の外に放していた。
蜘蛛に触るな。手を洗え。
いじめの主犯がもし本当だったら、これがもし演技だったのなら、こっそりと後をつけた。外に出るのは久しぶりで怖かった。家からなるべく出るなと言われているけれど、そんな事どうでもいい。夕方、帰宅途中の沢山の車の音、人々の声、それを探ってどうなるの、やっぱりと思いたいの、それとも、信じたいのかどうなのか。
喉が渇いて心も乾いて何もかもが渇いて苦しくて飢えていて。
彼はまっすぐに家に帰った。よかったと思う反面、帰ったと思ったらすぐに家から出てきて、小さな女の子と手を繋いでいた。
小さくて、銀髪の綺麗な女の子――甘えるように寄り添い、笑顔を浮かべる女の子、その笑顔に、困ったようなそれでいて優しい表情をする男の子に、なんとも言えない感情が沸き上がってきて苦しくなる。何その顔。何なのと思ってしまう。ずるい。嫉妬なのかなんなのか。何その顔。
「気を付けていくのよ」
玄関から聞こえる声は母親だろうか、羨ましくて、妬ましくて、苦しくて、悲しくて、どうしたらいいのかわからず頭を抱えてしまう。
「お兄ちゃん」
「なぁに」
「えへへ……お兄ちゃん」
「どうしたの」
そんな甘えた声を出す女の子に嫉妬したり、男の子にずるいと思ったりする。
こんな感情に囚われたくない。囚われたくないのに振りほどくほど強くもなれない。元々知っていたのだ。彼は優しいと、途方もなく優しいと知っていたのだ。なぜなら彼は一度は守ろうとすらしてくれたのだから。
見て見ぬふりもできたのに、しかし一人で複数に太刀打ちなどできるわけもなく、泣いていたのを知っている。
「もうやめよう」
そういう彼を彼らは複数で罵った。
子供は残酷だ。アリなど笑顔で踏み潰す。
そんな子供の無邪気さを同級生に向けたらどうなるのか、答えは簡単で、大人が震えあがるほど恐ろしい事だって笑顔でする。
ダメだとわかっている。包帯の下を見せればどんな人間でも逃げ出す。嫌悪する。嫌われるのが怖いのと自分に問われ怖いと泣きそうになる。
優しいのは嫌い。次の日来た男の子の、腕を掴んでみる。少し恥ずかしそうにする男の子の表情を見て左手で触れてみる。どう、怖いと不敵な笑みを浮かべる燈彼と、それに反して、左手を握って優しく包んでくれる男の子。泣きそうになる。
包帯を取って中を見せたりする。ひきつった彼の顔、どう、怖いと燈彼は不敵な笑みを浮かべてみる。しかし本当は燈彼の方が恐怖で縮こまっていた。嫌わないでと心の中で願っている。男の子は悲しそうな顔に燈彼の顔も歪んだ。しかし男の子が燈彼を嫌う事はなく、病気の左手を自分の左頬に当ててくれさえした。泣きそうになる。
包帯を替えてくれた。
これでも私を気にしてくれると燈彼の我儘はエスカレートしそうになる。
いっそう不幸にしてやりたい。私が家族を殺したら、どんな気分になるだろうとも思い、そんな事できるわけもないとも思う。
そうしても一緒にいてくれるのとエスカレートしそうになる心を抑え込んでいた。
少しずつ少しずつ、自分が和らいでいく――少しだけ外へ出るようになった。一緒に街の中を歩くようになった。平日は夕方来て休みの日も夕方来る。どうして休みの日も夕方に来るのだろうかと休みの日に彼の家にこっそり行ってみたりもする。
もしかして恋人がいるのと心がざわざわする。誰か好きな人はいるのと心がざわざわする。母親に見つかって、驚かれた。
彼のお母さんは優しいブロンドの綺麗な女性だった。
瞳の色はブルーと薄い紫のオッドアイ。
彼は図書館に言ったと聞かされた。手を取られ、仲良くしてあげてねと言われた。左手を両手で包まれ、その母親の様子に、彼の姿が重なった。
クラスメイトや小学校が一緒だった人に見つかるのは怖い。それでも確認せずにはいられない。図書館に行くと彼は一人で勉強していた。
前の席に座っても彼は気が付かなかった。そっと顔を眺める、女の子みたいなのは母親に似ているからだと気が付いた。気が付いてばかりで泣きそうになる。
ずっと眺めている。ずっと眺めていられる自分に気づく。でも瞳の色も髪の色もダークブラウン、色は父親に似ているのだと思った。
もっと知りたい。何が好きで何が嫌いなのか。そんなの知ってどうするのと自分に問われ、そんなの、そんなのと……濁った踏ん切りの付かない答えを返す。ただ知りたい。知ってどうするのと自分に問われ、そこに意味などなかった。
私を見つけた彼と目が合う。瞳孔が開いていく様が愛おしいと思う反面、もし避けられたり嫌な顔をされたりしたらどうしようと緊張もする。
そんなわけもなく、いつ来たのと少し笑う彼を見て、顔を背けてしまった。
もっと近くなる――ゼリーのように解れていく心の帯を必死に引き締めようと頑張っている。
「前から聞こうと思っていたのだけど、その病気って、治らないの?」
治るならとっくのとうに治している。馬鹿な質問はしないでとも、気にしてくれるのが嬉しいとも思う。
「変な質問した?」
そう聞いてくる彼に。
「死んでほしい」
そんな事を言ってしまう、そう言う私を見て、笑っていて、それが一等愛おしい。
学校にすら行くようになった――一緒にいたいから、ただそれだけのために。
クラスメイトは驚いていたし、誰も話しかけてはこなかった。
席に座って、授業を受けて、帰るだけ、ただそれだけ。
学校では彼も話しかけてこない。むしろ避ける。家に帰ってから、何食わぬ顔でやってきて彼に対して怒ったり毒を吐いたりする。
理由はわからなくもない。中学校には小学校から繰り上がってきた人達もいる。
いじめの主犯がいじめていた相手と仲良くしていたら、無用な興味を与えるかもしれない。それに彼は学校では一人だった。自分が思ったよりも彼は周りから避けられていた。
ただの話題作りのために、よくも知らない人達が、あいつはヤバい奴だと笑いながら話していたのを聞いた。あいつ、小学校の時、いじめの主犯だったのだといじめをしていたのだと小声ではやし立てる。今まさに自分たちが苛めをしているなどとは露ほども思わないのだろうなと燈彼は思った。
でも嬉しくて嬉しくて、学校から帰ると家の中で喜びに小躍りすらしてしまう。口元を両手で抑えてパタパタと足を動かしてしまう。浮かれている。
彼と私は同じなのだ。似て非なる環境にありながら同じ穴のムジナ。それが嬉しくてたまらない。彼には私だけなのだとそれが嬉しくてたまらない。
夏祭りに一緒に行った――二日あるのに、二日目は一緒にはいけないと言われた。なぜと問うと、妹がどうしてもと言うからだと答えられた。妹なんかどうでもいいのにと汚い言葉がでそうになり閉じた。そのほの暗さすら愛おしくある。
早く兄離れしてねと心の中で笑みを浮かべる。結局後をつけて二日目もお祭りに行った。妹の顔が嫉妬にゆがむさまに優越感すら感じる。
私は性格が悪いと燈彼は思う。でもそんなのどうでもいい。
夏祭りは本当に楽しかった。特に美味しかったのはおでん、辛子をたっぷりつけて食べたおでんが本当に美味しかった。
人の少ない境内で手を繋いで座った。それだけで心が温かくて、お尻も痛いのに、ずっとこのままならいいのにって、もっと触れたくて、もっと近づきたくて、甘えるように寄り添って、これ以上混ざり合えない体がもどかしく、肉体という壁すら愛おしいと燈彼は思った。
焼きトウモロコシも食べた。焼きそばもタコ焼きも食べた。笑った。私が彼を見て彼が私を見てくれる。それだけで嬉しかった、それだけで良かった、それだけで、よかったのに。
ある日、顔の傷が治りかけていた。
絶対に治らないと言われていた傷が、治りかけていた。
それはとても嬉しい事で、学校に行くとみんな驚いていた、みんな話かけてくるようになった。
なぜ――。
顔の傷が治るとみんな自分に良くしてくれるようになる。鬼ごっこと称して避けていたあいつも、あの子も、笑顔で話しかけてくる。私がされた事を、忘れたとでも思っているのだろうかと燈彼は思う。大したことじゃないとでも思っていたのだろうか。負の感情は無くならない。
それなのに。
なぜだろう、病気が治りみんなに囲まれるほど、彼が私から離れていく。なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、どうして、どうして距離をとるのか。私を嫌になったのか。それとも私が人に囲まれているのに嫉妬したり、遠慮したりしているのだろうか。
彼がしばらく学校に来ない時があった、彼の家に行くと彼はいなかった。
再び戻ってきた彼の顔は少し痩せて少し痛々しかった。何があったのだろうかと、どうしたのと、力になりたいのに、彼は私を避けた。
なぜ、どうして、どうしてなの。周りの人達も彼に近寄るのを許してくれない。あいつは昔、君を虐めていた主犯だと男の子が言う。いやいやいや、それをしていたのはあなた達でしょうと思いつつも、それを口にしたところでどうしようもない。
あんな奴にかかわらないほうがいいよと友達ぶった女の子が言う。あなたこそなんなのと思いつつ、それを口にしたところでどうしようもない。
なぜ――なぜ――。
「同情していただけだよ」
彼はそう言った、そんなわけない、そんなわけない――。
それでも食い下がらなかった燈彼に、彼はバケツに組んだ水を頭からかけた。かけて盛大に笑っていた。
「また騙された、勘違い女が、気持ち悪いな」
燈彼にはもう、彼がわからなかった。
はっと灰色髪の女の子は自分が思い出に浸っていることに気が付いた。
ヘッドホンから洩れる音、思い出したように焦るように音に合わせて口ずさむ。
いつになってもあの頃のまま。こうして思い出して、心が引き裂かれるような痛みに襲われる。息を吐き、もういいじゃないと自分に問いただしても、晴れることも答えてくれるものもいはしなかった。
思い出したように指でリズムを刻み、歌詞を脳内で歌う。まだここにある。まだこの痛みはここにある。紙コップに手を伸ばして中のコーヒーを一口、ブラックだけれどミルクを入れてまろやかにしたものは喉を潤し苦みは舌に沁みるよう。
痛い、胸が、痛い、痛くて辛くて思い出したくなんかないのに、もう捨ててしまいたいのに、それでも捨てられずにずるずるずるずると引きずっている。
中学生――泣き叫ぶほど泣いたけど、そのおかげで今の自分がいるとも言える。
左頬の赤い痣は化粧でもペイントでも刺青でもない。皮膚にできた病気の名残、この痣だけがまだ温かい。炎を体現したかのように心の炎を波立たせ、燃やしてくれる。
あれ以来、人を信用できない。人が何かよくしてくれるのは、裏があるからだ思ってしまう。好かれたいから、抱きたいから、嫌われたくないから、敵に回したくないから。
ねぇ、今の私を見て、どう思うのと、私が優しく近づいたら、彼は嬉しそうにするのだろうか。それとも……。もっともっと有名になりたい。もっともっと大きくなりたい。そうして会ったら、彼は私におべっかを使うのだろうか。言い寄って来るのだろうか。
その様子を見て、頬を引っぱたいてやりたい。
ただそれだけ、ただそれだけのためにアイドルをやっていると知られたら、みんなは怒るのだろうか、ファンは怒るのだろうかとそんな事を思う。
それでもいい。くすぶるような炎が身の内にある。
彼の顔を見て、正気でいられるだろうか、それとも怖気づいてしまうだろうか。
会いたいのか、会いたくないのか、自分でもどちらなのか判断できない。ただ炎がくすぶっている。ただなんとなくよく一緒に眠っていた記憶だけが心を締め付ける。
一緒に勉強をしている時、うとうとと、図書館で、うとうとと、傍で眠る彼が一等愛おしかった。その記憶は一等幸せで一等嫌い。
眠る彼をじっと見ていた。あまりにも安らいで涙をこらえられなかった。落ちた涙は彼の瞼に触れて、輪郭をなぞり、頬を流れていった。でもなぜかその雫は、悲し気に落ちて砕けて消えた。
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