第11話
暗い海、反対側から翻るように落ちて、ゆっくりと下から上へと瞼が上がる。
眠りから目覚めてぼんやりと、景色がにじんでぼんやりと。
うっすらとした天井とカーテンから漏れる僅かな光に目を細め、瞳孔がゆっくりと縮まった。
まぶしい。なんてそれから逃れるようにゆっくりと起き上がり、燈彼はその場に座り込む。
長い黒髪がすらりと体に垂れて来て、ぼんやりと、ぼんやりと、こじんまりとした部屋の中で糸の切れた人形のように脱力し目を伏せた。空気の感触は包み込むように優しく、笑みがこぼれそうなほどひんやりと肌に心地良い。そんな空気の中いてぼんやりとぼんやりと。
思い出したかのようにゆっくりと体を動かして、それが動作の延長であるかのように伸びをする。んーっと口から洩れる言葉と伸びた背筋。上空へと伸ばした腕が空気を微細にかき混ぜて。手をついて立ち上がり膝から力が抜けてペタリと床に座り込む。寝ぼけているような干満な動作でもたれかかるようにまたゆっくりと立ち上がり。
衣装棚へと視線を向けておぼつかない手つきで着替えをする。
寝巻きから黒い模様のない地味なフード付きパーカーと、黒いところどころの切れたジーンズ。パーカーの裾は長く、まるでワンピースのスカートのように。
服の中に入り込んだ髪もそのままに燈彼は部屋を出て廊下を素足で歩いた。
ゆっくり踏み出し、ほんのりと曲って香る木の床が体重を受け止め和らげる。
廊下を歩いてドアノブへと手を伸ばし開いたドアの先。
居間の中を見回すと。黒いソファーに少女が眠っているのが見えた。
すぅすぅとすぅすぅと。泳ぐ。
広い居間の中は埃すら舞わないほどの静けさで、床に足がふれるとひんやりと冷たかった。木目模様の床なのに、ヒタッヒタッとその感触は石のように硬く冷たい。
そんな床を歩きテーブルへと手を伸ばす。
黒いテーブルに指を滑らせ、艶やかな明かりが木目を濁らせる。
その指先はテーブルの上から椅子へと流れ。
にゃーッという猫の声がした。
にゃー。とかわいらしい猫の声がした。
足元を見ると、青い猫が足にすり寄り来ている。
這い上がってくる足裏の冷たさ、足の途中の温もり、ふんわりとした毛の感触。
「にゃーん」
猫はそう鳴いて、燈彼は首を少し横へと傾けた。
「にゃーん」
首を傾けて猫を見つめる。
猫の求めているものを考えて、脳裏をよぎり、よぎり首を傾げて、よぎり、よぎり。
脱力したまま台所へ。そのあとを猫もとたとたとついてくる。
台所は居間の片隅にあり、細長い形にどこにでもありそうな家庭用コンロと蛇口が並ぶ。反対側には大きな棚、並んだ棚達は台所を居間から隔離させるように配置されていた。
瞳の中に映る棚の中。反射して光の差すガラス戸。瞬きする向こう側、食器が並ぶ棚、お菓子が並ぶ棚、整列されている。
キャットフードと書かれた紙袋が見え、引き戸に指を付け棚を開けて手に取るとやけに軽い。
猫がまるで犬のように、その様子に興奮しては燈彼の足に前足を交互につけて騒いだ。
それに首をかしげつつ、ガサガサと燈彼は袋を手にとって、なんとはなしに袋をひっくり返す。下に餌が落ちた――のを探るようなすばやい動きで、猫は燈彼の足元を駆け回り、でも餌がまったく落ちていない事に気がついて不思議そうに燈彼を見上げる。
もう一度地面を見つめて、また燈彼の方を見上げて。
何度か繰り返して。
ガサガサと紙袋を振ってみてもどうやら空のようで、首を右へと傾けて逆さまになった袋をかさかさと上下に振る。
猫と目が合う。かさかさとゆれる袋。
ごくりッ。とまるで猫の喉がなったような気がした。
かさかさかさかさ。
燈彼は猫を見ながら袋を上下に振る。
わかっている。わかっているけれど。もしかしたらと淡い反射で猫は袋の下を見てしまう。うん、わかっている、ないってわかっている。わかっているからもういいよ。もういいってば。いいって。わかっているから。ふらないで。らめなの。みちゃうから。
「にゃーん」
猫は鳴いて袋へと飛びついた。
それに音が素敵すぎて飛びつかずにはいられない。燈彼の手から袋を奪取、地面に転がると後ろ脚猫キック。どうだ、まいったか。
燈彼はそんな猫の頭を撫で冷蔵庫へと視線を移す。
密閉された扉、手に力を入れて開く。駆動音と視線の揺らぎ。魚、じゃがいも、トマトを見つけてそっと取り出す。猫に与えてはいけないもの。玉ねぎ、青ネギ、ニンニク、エシャロット、チョコ、カフェイン類、チアノーゼを含むもの。
目を見て、お腹に触れる。皮の色はどうかな。新鮮そう。
トマトは完熟、じゃがいもも大丈夫そう。
立てかけてあるまな板を水で洗い、材料を乗せて棚を開いて包丁を――立てかけてある包丁を掴んで引き抜きまな板の上で横にする。
包丁の峰に指を当てて撫で。
魚は丸ごとミンチに内蔵も頭もミンチに、叩いてよく混ぜ合わせる。骨が刺さらないよう大きな骨は取り除く。
じゃがいもは芽を取り湯で皮を剥いてマッシュ。
トマトは煮て。
猫の体重から量を算出。
本当はキャットフードがいいけれど、今はこれで我慢してねと皿に盛り、猫へと差し出す。猫は燈彼を見上げ、にゃーんと鳴いて完熟トマトの煮つけとマッシュポテト、魚のミンチ添えに口を付け始めた。
お手伝いいつもありがとうと優しい手に撫でられて。
今日は何を作ったのと献立を聞かれて振り返り。
料理ができるなんてずるいと責められて。
大きな手が頭に乗せられる。
魚を食べる猫がにゃーっと嬉しそうに鳴いていた。
にゃー。
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